陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アリス・マンロー「局面」 その2.

2012-11-29 23:04:06 | 翻訳
その2.



 三台目のバスで、ドーリーは窓側の座席に腰を下ろし、看板を読むことで、なんとか自分を平静に保とうとした。店の看板も、道路標識も読む。頭の中を忙しくしておくための、自分で編み出したちょっとしたこつがあるのだ。なんでもいい、目にとまった言葉を拾い上げて、それをもとにいくつの新しい言葉が作れるか考えてみる。たとえば「Coffee」なら、「fee」、それから「foe」、それに「off」「of」。「shop」なら「hop」に「sop」に「so」、それから――ちょっと待って――「posh」だ。言葉なら、街を出る道沿いにあふれるほどあった。バスが通り過ぎる広告板やばかでかい量販店、中古車センターにも、屋上からのびる、アドバルーンにぶらさげられた広告にも。


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 ミセス・サンズには、これまで二度、自分が彼に会おうとしたことを話してはいなかったし、きっと今度の訪問についても言わないだろう。毎週月曜日の午後に面談しているミセス・サンズからは、前を向くのよ、と言われていた。時間はかかるものだから、何ごとも焦ってはだめだけれど、とつけくわえるのをわすれなかったが。ミセス・サンズは、あなたはよくやっているわ、と言う。少しずつ、自分の強さに気がついてきている、と。

「ありきたりに聞こえるでしょうけどね、死ぬほど言われてきたから」と彼女は言った。「でも、実際、そうなのよ」

ミセス・サンズは自分の口から出た「死ぬほど」という言葉に顔を赤らめたが、謝ったりして事態をいっそう悪くすることはしなかった。


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 ドーリーは十六歳のころ――いまから七年前のことだ――、学校が終わると、入院している母親のお見舞いに行くのが日課だった。母親は、生命に危険はないが、かなり重いという背中の手術を受けたあとの回復期にあった。ロイドは病院の看護助手だった。彼はドーリーの母親と同様、年を食ったヒッピーで――もっとも実際にはロイドの方が若干、年下だったが――、時間が空けばいつでも母のところに来て、話に花を咲かせていた。ふたりとも参加したコンサートやデモのこと、当時つきあいのあったとんでもない連中のこと、ドラッグでハイになったあげくにノックアウトされたこと……。

 ロイドは、そのジョークや、確かでゆるぎのない手技のもちぬしであったために、患者のあいだで人気者だった。がっしりした体躯で肩幅は広く、いかにも権威ありげな物言いのせいで、しばしば医者とまちがえられた(間違えられても、彼自身はちっともうれしがらない――というのも、薬はまやかし物がゴマンとあるし、医者もまぬけがゴマンといる、と考えていたからだ)。すぐに赤くなる肌と明るい色の髪のもちぬしで、恐れを知らぬ目をしていた。

 エレベーターの中でドーリーにキスをして、君は砂漠に咲いた一輪の花だ、と言った。それから自嘲的に笑うと、「独創性のかけらもないな」と言った。

「自分が詩人だってこと、わかっていないのね」と彼女は言ったが、あくまで親切心からだった。

 ある夜、突然母親が死んだ。血管に塞栓がつまったのだ。ドーリーの母親には、ドーリーひとりくらい、喜んで迎えてくれるような女友だちがおおぜいいたが、――事実、彼女もそのうちのひとりのところにしばらくは厄介になったのだが――、新しい友だちであるロイドの方が、ドーリーには好ましかった。十七歳の誕生日が来るころには、彼女は妊娠していた。そうして結婚。ロイドはそれまで結婚したことはなかった。少なくともふたり、どこにいるのか定かではない子供がいたけれども。いずれにせよ、いまではふたりとも大人になっているはずだ。ロイドの人生哲学は、歳を取るにつれて変わっていった――いまでは結婚や、不変のものを信じており、産児制限はすべきではないと考えていた。やがて、ふたりが暮らしているバンクーバー北西のシーシェルト半島は、最近、人が多すぎると思うようになった――古い友人、古い生活様式、古い恋人たち。すぐにロイドとドーリーは大陸を渡り、地図で名前を見つけた街へ移った。マイルドメイ。街中には住まなかった。田舎に家を借りたのだ。ロイドはアイスクリーム工場での仕事を見つけた。ふたりで庭で植物を育てた。ロイドはガーデニングに詳しかったし、家の大工仕事も、薪ストーブの面倒を見ることも、古い車を走るようにしておくことも、よく知っていた。

サーシャが生まれた。


(この項つづく)