タイトルも何も覚えていないのだが、大昔に読んだ星新一のショートショートにこんな話があった。宇宙船が着陸して、中から宇宙人が現れた。地球ではどう対応すべきか態度を決めかねているうちに、宇宙人に犬が飛びかかってしまい、宇宙人は即座に犬を殺した。なんという攻撃的な宇宙人だろう、これはまちがいなく地球に害をなす宇宙人にちがいない、と地球人たちがレーザー銃で反撃したところ、宇宙人たちはあっけなく全滅してしまった。
おそるおそる近寄ってみると、彼らの持っている武器は、竹槍のようなもの。こんな武器で地球までやって来るとは……といぶかしみながら宇宙船を調べてみると、地球のレベルでは分解することも、動力機関を調べることすらできない。とにかく高度なテクノロジーがうかがえるのだが、それがどんなものかすらもわからないのだ。だが、試しに運転装置をさわってみると、きわめて容易に乗りこなすことができた。地球人もあっという間に運転に習熟し、今度はそれに搭乗して宇宙に乗り出すことになった。
その超ハイテク宇宙船は、地球外生命体のいる星を発見する。地球人たちは勇躍、その星に降りていった。ところがその星の人びとは敵対的で、いきなり攻撃してくる。地球人もレーザー銃で防戦しながら移動していくと、落とし穴に落ち、地球人たちはあっけなく絶命してしまった。
その星の住民はいぶかしむ。こんなに原始的な罠にひっかかるような連中が、こんなに立派な宇宙船を建造し、操作するなんて。その星の生命体たちは宇宙船の探索を始めた。どうやらこれは自分たちにも動かせそうだ。今度はその星の生命体が宇宙船に乗り込む……。
竹槍ではなかったかもしれないし、落とし穴もちがったかもしれないが、ともかく、どちらもきわめて原始的な武器や罠だったのにはちがいない。なんにせよ、「宇宙船の使い回し」というアイデアがおもしろく、「宇宙船から降りてきたのは、宇宙船の建造を可能にする科学技術力とは無縁の人びとだった」というところにすっかり感心して、いまでもよく覚えている作品のひとつだ。
この話を思い出したのは、最近、携帯電話を新しくしたからである。必要に迫られて最低限度の機能だけは使えるようになったものの、わたしにとっての携帯電話とは、この話の宇宙船とまったく同じで、「それについて何も知らず、それにふさわしい技術にも欠けていて、使いこなすという状態とはほど遠いのに、とりあえず使っている」状態である。電話がかかってくれば出るし、メールがくれば読む。必要とあらばこちらから電話もかけ、返信もするが、それだけだ。まさにわたしの技術的スキルといったら、竹槍を持って宇宙船に乗っているレベルなのだろう(もっと下かも)。
先日もちょっと書いたラッダイト運動ではないが、新しい技術というのは、人の必要から生まれるものではない。「必要は発明の母」ではないのだ。発明とは必要とは無関係なもので、発明されたあとから、半ば無理矢理に使い道が考え出されるのである。
その無理矢理の使い道のうち、あるものは定着し、あるものは廃れる。定着が一定のレベルを越えて普及すると、それを使うことが「便利」になり、使わないことが「不便」になる。「不便」という状況が生まれ、その発明は「必要不可欠のもの」となる。つまり、「必要はあとから生み出される」のである。
確かあれは湾岸戦争の年だったから90年のことだ。その年、わたしは知り合いが小型のショルダーバッグのようなものを肩から提げているのを初めて見た。「これは携帯電話だ」と教えてくれた。わたしが「なんでそんなものが必要なの?」と聞くと、「これがあると、ポケベルは必要ないじゃないか。ポケベルが鳴っても、公衆電話を探さなくてすむんだぞ」
それから二年後、そのころわたしは小劇団が好きで、いろんなお芝居を見に、あちこちのホールや劇場に通っていた。次第に行く先々で顔見知りができるようになり、中には花束を贈ったり、いろんな差し入れをしたり、チケットをさばくのを手伝ったりするような、ちょっと年上の人たちのグループとも親しくなった。その中に、好きな役者に携帯電話を「貸した」と話をしている人がいたのだ。その人は、たいそうお金持ちの人で、花束にしてもプレゼントにしても、話題になるくらい豪華なものを贈っていたのだが、そのうちに相手といつでも話ができるように、十一万(どういうわけかわたしはその数字をはっきりと覚えている)払って、相手の名義で携帯電話を契約してあげてたのだという。公演が終わると、得意げにバッグから自分の携帯を取り出し(そのころはいまのスマートフォンくらいの大きさにまでなっていたように思う)、「良かったよ~」などと話をしていたものだ。11万が二台で22万かあ、22万あったら、スピーカーを買った方がいいなあ、などと思っていたことを覚えている。つまり、その頃のわたしにとって、携帯電話というのは、まったく必要なものではなかったのだ。
ところが十年を経て、緊急連絡は「電話連絡網」ではなく、携帯メールで一斉送信されてくる。相手と連絡をとることができない、という事態は、いつの間にか前提とされなくなってしまった。連絡がつかない状態、携帯電話がない状態、使えない状態というのは、大変に困った状態となってしまった。
普及が一定の閾値に達した段階で、携帯電話は「必要」なもの、「ないとその人ばかりでなくその人に関係するすべての人にとって不便きわまるもの」となっていったのだ。携帯電話がいったいどんな仕組みなのかも、一向に知らないまま。まるで星新一の宇宙船を乗り回している地球人と同じではないか。
実はわたしたちの使っている「便利なもの」というのは、たいていこの「宇宙船」と同じだ。たったひとつちがうのは、自分は知らなくても、それについて「よく知っている人」がどこかにいる、と思えることだ。故障すればカスタマーセンターに連絡すればいい。そこには「元通りにしてくれる」人がいる。
けれども、ほんとうにそれで大丈夫なのだろうか。
たとえば電気。
わたしたちはほとんど、電気がどういうプロセスを経て手元に届いているか一向に知らないまま、それを平気で使ってきた。
もしかしたらそれは、竹槍を持って宇宙船に乗り込むのと同じようなものだったのではあるまいか。
おそるおそる近寄ってみると、彼らの持っている武器は、竹槍のようなもの。こんな武器で地球までやって来るとは……といぶかしみながら宇宙船を調べてみると、地球のレベルでは分解することも、動力機関を調べることすらできない。とにかく高度なテクノロジーがうかがえるのだが、それがどんなものかすらもわからないのだ。だが、試しに運転装置をさわってみると、きわめて容易に乗りこなすことができた。地球人もあっという間に運転に習熟し、今度はそれに搭乗して宇宙に乗り出すことになった。
その超ハイテク宇宙船は、地球外生命体のいる星を発見する。地球人たちは勇躍、その星に降りていった。ところがその星の人びとは敵対的で、いきなり攻撃してくる。地球人もレーザー銃で防戦しながら移動していくと、落とし穴に落ち、地球人たちはあっけなく絶命してしまった。
その星の住民はいぶかしむ。こんなに原始的な罠にひっかかるような連中が、こんなに立派な宇宙船を建造し、操作するなんて。その星の生命体たちは宇宙船の探索を始めた。どうやらこれは自分たちにも動かせそうだ。今度はその星の生命体が宇宙船に乗り込む……。
竹槍ではなかったかもしれないし、落とし穴もちがったかもしれないが、ともかく、どちらもきわめて原始的な武器や罠だったのにはちがいない。なんにせよ、「宇宙船の使い回し」というアイデアがおもしろく、「宇宙船から降りてきたのは、宇宙船の建造を可能にする科学技術力とは無縁の人びとだった」というところにすっかり感心して、いまでもよく覚えている作品のひとつだ。
この話を思い出したのは、最近、携帯電話を新しくしたからである。必要に迫られて最低限度の機能だけは使えるようになったものの、わたしにとっての携帯電話とは、この話の宇宙船とまったく同じで、「それについて何も知らず、それにふさわしい技術にも欠けていて、使いこなすという状態とはほど遠いのに、とりあえず使っている」状態である。電話がかかってくれば出るし、メールがくれば読む。必要とあらばこちらから電話もかけ、返信もするが、それだけだ。まさにわたしの技術的スキルといったら、竹槍を持って宇宙船に乗っているレベルなのだろう(もっと下かも)。
先日もちょっと書いたラッダイト運動ではないが、新しい技術というのは、人の必要から生まれるものではない。「必要は発明の母」ではないのだ。発明とは必要とは無関係なもので、発明されたあとから、半ば無理矢理に使い道が考え出されるのである。
その無理矢理の使い道のうち、あるものは定着し、あるものは廃れる。定着が一定のレベルを越えて普及すると、それを使うことが「便利」になり、使わないことが「不便」になる。「不便」という状況が生まれ、その発明は「必要不可欠のもの」となる。つまり、「必要はあとから生み出される」のである。
確かあれは湾岸戦争の年だったから90年のことだ。その年、わたしは知り合いが小型のショルダーバッグのようなものを肩から提げているのを初めて見た。「これは携帯電話だ」と教えてくれた。わたしが「なんでそんなものが必要なの?」と聞くと、「これがあると、ポケベルは必要ないじゃないか。ポケベルが鳴っても、公衆電話を探さなくてすむんだぞ」
それから二年後、そのころわたしは小劇団が好きで、いろんなお芝居を見に、あちこちのホールや劇場に通っていた。次第に行く先々で顔見知りができるようになり、中には花束を贈ったり、いろんな差し入れをしたり、チケットをさばくのを手伝ったりするような、ちょっと年上の人たちのグループとも親しくなった。その中に、好きな役者に携帯電話を「貸した」と話をしている人がいたのだ。その人は、たいそうお金持ちの人で、花束にしてもプレゼントにしても、話題になるくらい豪華なものを贈っていたのだが、そのうちに相手といつでも話ができるように、十一万(どういうわけかわたしはその数字をはっきりと覚えている)払って、相手の名義で携帯電話を契約してあげてたのだという。公演が終わると、得意げにバッグから自分の携帯を取り出し(そのころはいまのスマートフォンくらいの大きさにまでなっていたように思う)、「良かったよ~」などと話をしていたものだ。11万が二台で22万かあ、22万あったら、スピーカーを買った方がいいなあ、などと思っていたことを覚えている。つまり、その頃のわたしにとって、携帯電話というのは、まったく必要なものではなかったのだ。
ところが十年を経て、緊急連絡は「電話連絡網」ではなく、携帯メールで一斉送信されてくる。相手と連絡をとることができない、という事態は、いつの間にか前提とされなくなってしまった。連絡がつかない状態、携帯電話がない状態、使えない状態というのは、大変に困った状態となってしまった。
普及が一定の閾値に達した段階で、携帯電話は「必要」なもの、「ないとその人ばかりでなくその人に関係するすべての人にとって不便きわまるもの」となっていったのだ。携帯電話がいったいどんな仕組みなのかも、一向に知らないまま。まるで星新一の宇宙船を乗り回している地球人と同じではないか。
実はわたしたちの使っている「便利なもの」というのは、たいていこの「宇宙船」と同じだ。たったひとつちがうのは、自分は知らなくても、それについて「よく知っている人」がどこかにいる、と思えることだ。故障すればカスタマーセンターに連絡すればいい。そこには「元通りにしてくれる」人がいる。
けれども、ほんとうにそれで大丈夫なのだろうか。
たとえば電気。
わたしたちはほとんど、電気がどういうプロセスを経て手元に届いているか一向に知らないまま、それを平気で使ってきた。
もしかしたらそれは、竹槍を持って宇宙船に乗り込むのと同じようなものだったのではあるまいか。