陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「私」と「I」の狭間で ――主語を考える――その2.

2005-01-07 22:17:06 | 
2.論理的な「I」、主観的な「私」?


英語のIに相当する言葉は、日本語にはない。これは、なんとも表現しようのない、たいへんなことだ。どうしていいかわからないほどに、たいへんだ。このたいへんさだけを手がかりにして、日本語の性能の特徴的な傾きについて、そのほぼ全域を書き得るのではないか、と僕はふと思う。
(片岡義男『日本語の外へ』筑摩書房)


1997年に出た『日本語の外へ』は、ことばを軸に、アメリカと日本、アメリカ人の思考と日本人の思考について考え抜かれた本である。片岡は言語学者でも文法学者でもない。けれども日系二世としてハワイで生まれ育った父親を持ち、読書体験のほとんどは英語によるという、母国語を日本語としながらも、日本とアメリカ双方の言語に深く関わってきた作家である。
わたしは出版後間もないころこの本を読み、衝撃を受けた。
英語で書かれたテキストを読み、覚束ない英語を喋ったり書いたりするうち、英語と日本語は根本的にまったく異なる論理に貫かれているのではないか、そのことを曖昧にしたまま、どれだけ単語を覚えても、センテンスを暗記しても、英語を根本的に理解することにはならないのではないか、という、漠然とした問題意識に、形を与え、考え方の枠組みを与えてくれるものだったのだ。
ちょうどそれは、日本人としてアメリカ文学を学ぶことの自分なりの意味を考えていた時期でもある。

この本はよくある、日本語論から日本人論へと敷衍していき、「(プラスであれ、マイナスであれ)日本人は特別」という結論に収斂させるような体のものではない。

 母国語は、それを母国語とする人たちを、思考や感情など人間の営みのすべての領域において、決定的に規定する。母国語を母国語らしく自在に駆使すればするほど、母国語の構造と性能の内部に人は取り込まれていく。そして、そこに、その母国語が日本語なら、日本人らしさというものが生まれてくる。日本人らしさの総体は日本らしさであり、日本らしさの総和の蓄積が日本文化だ。母国語と外国語とでは果たしてそんなにも異なるものなのか、所詮は人間の言葉なのだから、結局はたいした違いはないだろうに、というような日常的な認識は、母国語の内部へその人がすっかり取り込まれていることの証明だ。母国語の外には、とんでもない世界がある。

母国語から足を踏み出し、「とんでもない世界」からもういちど母国語を見ることによって、自分が絡み取られている母国語の論理のメカニズムを明らかにする。そうすることによってしか、母国語の呪縛を逃れ、外国という異質なものとともに、共通の場に立つことはできないのではないか、というのが、片岡の基本的な問題意識である。このとき、片岡が理想とする英語は、アメリカ人やイギリス人の母国語としての英語ではなく、たとえばダライ・ラマやネルスン・マンデーラの使う「英語の開かれた抽象性をきっちりと学んで自分のものとした、誰とでも共通の場に立てるという意味においてたいそうインテリジェントな、したがってどこまでも機能して止むことのないグローバルな言葉」である。

論点に入る前にこうしたことを長々と書いたのは、わたしがこれから多くを引用しようとする片岡の本の意図を、わたしが中途半端に引用することによって、誤解されることを避けるためにほかならない。
どうか、論理性に欠ける日本語はダメな言語で、論理的な英語はすばらしい言語だと片岡が言っているのではないことを、くれぐれも理解しておいていただきたい。

***
まず、片岡は「I」を、「生まれながらにして客観をめざす言葉」であると規定する。
人は「I」と自分のことを言った瞬間から、世界のあらゆるほかのものから自分を切り離す。そのことは、同時に自分以外のあらゆる人と対立することを前提とする。
「I」の発言は、基本的には主観的なものだ。それでも、多くの支持を得るためには、可能な限り、確かなものとしていかなければならない。すなわち、主観の発言は、客観をめざすものとなっていく。外の世界を、あくまで外の世界として表現する。外の事実と内なる主観を無差別に重ねることをしない。
英語の性能は、事実を主観から切り離し続ける。
客観とは、言葉を換えれば、因果関係の冷静で正確な解明ということである。
これはこうしたからこうなった。これはこうするとこうなる。これをこうするとこうなるかもしれない……、こうした因果関係を解明する機能を、英語は根本的に備えている。
英語では、観点は主語によってなされる。
世界に数限りなく存在する事実を観察するとき、さまざまな角度が存在する。そのとき「だれの観点か」を明らかにすることは、かならず必要となる。
そのとき「I」と「You」は、抽象的で対等な関係でなければならない。

それに対して日本語は、「I」に当たることばを持たない。「I」に対する「You」に当たることばもない。
「I」と「You」がないかわりに、日本語には、自分と他者との具体的なさまざまな関係の場があり、それに応じた呼び方が、数限りなく存在する。「俺」―「お前」、「私」―「あなた」、「ぼく」―「君」と場に応じて変化し、しかもその関係は、なんらかの意味で上下関係である。
場がなければ、自分の位置と内容は、日本語の世界では決まらない。
相手との関係によって、相手ごと、そして相手との関係の場ごとに、相対的に自分というものが確定されていく。そのつど、私になったり、俺になったり、我々になったり。
人との関係があって初めて決まってくる自分というものは、人が自分をどう思っているか、どう評価してくれるかなどに対して、敏感にならざるを得ない。常に上下関係を伴いつつ保たれる関係においては、その関係のなかで自分がどれだけ得をするか、が至上命題となってくる。
自分の損を少なく、得を多くするためには、関係が激変すること(たとえば論理の明快にとおった客観的な対立意見の提示など)はできるだけ避けられなければならない。関係はつねに友好的に保たれる必要がある。
日本人の重要な美徳とされる、「思いやる」、これは相手の気持ちになる、という試みをとおして、誰もが相手を自分のなかに取り込むことである。同時に察してもらう、という試みを提案することで、自分を相手のなかに入れてしまうにほかならない。
対話はそれぞれの主観がぶつかりあいつつ客観をめざすのではなく、だれもが自分の利害の視点から発言しつつ、相手を否定せず、両者の利害を微調整することを目的とするものになっていく。


「I」と「私」の違いから見えてくるのは、なんとも暗澹たる日本語の姿である。この片岡の主張が果たしてどこまで正当性を持っているのか、もう少し考えていきたい。