陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「私」と「I」の狭間で ――主語を考える――その1.

2005-01-06 19:28:25 | 
その1.変幻自在な「私」と金太郎飴の「I」

来年から小学校に上がる甥っ子2号が、久しぶりに会ってみると、いつの間にか一人称に「オレ」を使うようになっていた。
ふたつ上のお兄ちゃんほど確立されたものになっているわけではなく、どうかすると、従来通り「Kちゃんも~」「Kちゃんがやる~」という言い方が混ざるのだが、あきらかに主体を指すことばの中心は、「オレ」に移行しつつあった。自分をどう呼ぶか、これだけのことではあっても、子どもが成長につれて、自分と、自分を取り巻く世界との関係をどのように認識していくかが鮮明に現れていて、ヴィゴツキーの『思考と言語』を読み返してみたくなったりもしたのだが、ここで考えてみたいのはそんなことではない。

さらに、父親が「じいじ」になっていた。
甥っ子の母親、すなわちわたしにとっては姉が、父のことを「じいじ」と呼ぶのである。あろうことか父までもが「レンゲル(※仮面ライダーグループの一員。この場合はビニール製の人形を指す。種類がやたら多くて、そこらじゅうに転がっている、ということになる。うっかり踏むと痛い)なら、じいじの部屋にあったぞ」と言うのである。それを聞いたときには、ひっくり返りそうになってしまった。
母が自分のことを「お母さんはね……」と呼んでいたのに対し、父はあまり自分のことを「お父さん」と自称することはなかった。それだけでなく、あまり自分のことを呼ぶことがなかった。たまに電話で話をしているのが耳に入るようなときでも、私、自分、ぼく、と相手によって使い分けていたような気がする。
日本語というのは便利なもので、それでも十分に用を足す。

英語の場合、一人称代名詞はつねに「I」である。いつ、いかなる場合でも、私的な場面でも、公的な場面でも「I」は「I」であって、省略はできない(ただし、日記などの他者が読むことを前提とせず、動作主体がきわめてはっきりしている場合は省略されるケースもある)。

省略可能で、場面によってころころと姿を変える日本語の一人称代名詞(ここでは仮に「私」で統一する)と、つねに姿を変えず、省略することもできない「I」は、果たして同じものなのだろうか。そのことについて少し考えてみたい。

***

英日翻訳を学ぶ者にとっては必読とされる本に、中村保男の『翻訳の秘訣 理論と実践』(新潮選書)という本がある。
あくまで翻訳者の立場から実践的に書かれた本なのだが、第一章から扱われているのが、主語のもんだいである。
ここで主張されているのは、直訳を脱して、日本語らしい文章にするためには、英語にかならずある主語を、日本語ではできるだけ省略しなければならない、ということである。

たとえば例文として、このような文章があげられている。

She thought he was in love with her, but he wasn't.

直訳すると「彼女は彼が彼女を好きだと思っていたが、彼はそうではなかった」ということになるが、これを中村は「あの子は彼に惚れられていると思いこんでいたが、実はそうではなかった」と訳例を示している。
すなわちこの訳例では、英文では三つある主語をふたつにし、そのうえでふたつめの主語を省略、さらに日本語として「充分に熟していない(あるいは永久に熟さないかもしれない)」「彼」や「彼女」の使用を最低限に留めている(ただ情況がわからないところで、「あの子」とある種、色のついた日本語を当てはめてよいのかという疑問が個人的にはある。「あの子」とするのなら「彼」ではなく「あいつ」、より無色透明な文章として「彼」を使うのならやはり「彼女」と、自分だったらすると思う)。

もうひとつ、安西徹雄『英文翻訳術』(ちくま学芸文庫)でも、「代名詞はできるかぎり訳文から隠す」ということが鉄則としてあげられていて、最初にこの例文があげられている。

Proverbially, you can know a man by one of two ways. You can know a man by the books he keeps in his library; and you can know him by the companies he keeps.
*proverbially: 格言によれば 

直訳:「格言によれば、あなたはある人をふたつの方法によって知ることができる。あなたはある人を、彼が書斎に持っている本によって知ることができる。そして、あなたは彼を彼がつきあっている友だちによって知ることができる」(英文解釈ならこれで満点)
安西訳:「人柄を見分けるコツとして、諺は二つの方法を教えてくれている。書斎にどんな本を持っているか、さもなければ、どんな仲間とつきあっているかを知れば、本人の人柄も見当がつくというのである」(うまいなぁ)

ここでは代名詞として一括して述べられているのだが、言い方を変えるなら、「日本語らしく」するためには、動作主体がはっきりしている主語は、落とせということだ。例文の「you」は、いわゆる総称人称、漠然と「人」を表しているだけなので、安西訳ではひとつも訳出されていない。逆に言うと、英語ではどこのだれだか判然としないが、ある人物を知ろうとしているのは「you」であり、持っている本や、つきあっている友人から判断しようとしているのも、その判然としない「you」である、ということで、動作主体はつねにあきらかにされている。

その英語と日本語のちがいの理由を、安西は

西欧語は物事を抽象的、客観的、論理的に述べようとしているのにたいして、日本語はできる限り具体的な『場』(situation, context)を踏まえ、いわば「場」によりかかった形で発想するからだということである。

と説明している。

さらに中村はこのように述べる。

日本人は単一言語民族で、家族主義的国民だとよく言われる。家族主義的とはよく言ったもので、なるほど家族同士の話には主語などの省略が多い。……「身内」という言葉の意味範囲を拡大して「親類」「仲間」「友人」「同僚」「隣人」「同郷人」と続ければ、最後には一億一千万の日本同胞すべてが「身内」ともなるわけで、日本人同士の意志疎通が多くの語を省略した形でも円滑に運ぶのは、まさしく全日本人が均一な風土と風習の中に住んでいる「超大家族」だからなのだ。


そもそもこの「私」と「I」はまったく別物、という観点から、日本語、そして日本語で考える日本人の思考と英語と英語で考える英語を母語とする人々の思考について考察された本がある。明日はこの本を紹介しつつ、もう少し「私」と「I」のもんだいについて考えてみたい。