大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

森孫右衛門を知ればお江戸の魚河岸が見えてくる!【お江戸日本橋と佃島】

2010年10月04日 13時36分55秒 | 中央区・歴史散策
「おい!熊さん。お江戸(東京)の魚河岸とくりゃ、どこだか分かるけぇ?」
「べらんめい!そんなことも知らねえで江戸っ子がやってられるけぇ。言わずと知れた大川端の築地よ。」
「おいおい、熊さん。そりゃ~平成の時世の噺じゃねえか。今は徳川様の御代だってことを忘れてないかい?」
「そいつぁ、おいら迂闊だったぜ。そう言ゃ、延宝の時代(1674年)から魚河岸とくりゃ、お江戸日本橋下の平川河岸が相場だったのをうっかり忘れちまった。」
「それじゃ聞くが、日本橋の魚河岸が官許になる前はいっていどこで魚の商いが行われていたのか、おめえさん知ってるかい?」
「あたぼうよ!そりゃ大川の河口洲か深川洲崎か品川洲崎の海っぺりじゃねえのかい?」
「まあ、当たらずとも遠からずってとこか。おめえさんの脳みそじゃ、精いっぺいのできとしてこうじゃねえか」
こんな熊さんと八っつぁんのたわいもない噺のつづきが今日のお題。

さてお江戸の魚河岸が現在の日本橋に正式に開設されるず~と前、江戸開幕の時代まで遡って江戸の漁業に貢献した一人の人物が今日の主役。
その人物が「森孫右衛門」である。してその森孫右衛門っていうのはどんな人なの?
この人、出は上方の摂津の田蓑島(佃村)で、その摂津の浜で漁業を営んでいた漁師さん。この漁師さん実はただものではなかった。漁業を営む傍ら、なんと天下取りとなった家康様とは懇意の仲となるようなさまざまな手助けをしていたという。おそらく家康が五大老の時代からの付き合いだったらしい。そして秀吉が事実上、天下平定を成し遂げた天正10年(1590)の小田原北条氏攻めのあと、同じ年の8月八朔の日に家康と共に江戸初入府をしたという。そしてあの大阪冬の陣、そして夏の陣の際には家康軍の武器や兵糧を自前の舟で運んだり、はては隠密行動までしていたというから、並みの付き合いではなさそう。

そして、小田原北条氏滅亡の後、孫右衛門一族は家康に請われて摂津の浜から江戸へと移住することになります。
そこで家康公から江戸湾での漁業権を一手に任される漁業名主の位を授けられた森孫右衛門は、もともといた漁民を尻目に江戸における魚の商いを取り仕切るようになっていったのです。
江戸へ移住した当初はまだ埋め立てが進んでいない隅田川河口の砂洲に居を構え、江戸湾で取れた魚をまず幕府に納め、残った魚を日本橋小田原河岸(今の日本橋川界隈)で販売し生計を立てていたと言われています。
これが日本橋の魚河岸の始まりであると言われているんです。

そして開幕後、40年ほど経った頃、江戸湾に一つの島が造られます。人工の小さな島で当然名前も付いていません。幕府はこの島をあの漁師の一団である森孫右衛門に下賜し、かつて摂津で漁をいとなんでいた浜の名前「佃」をこの新しい島に与え「佃島」としたのです。
当時、平川(日本橋川)が注ぎ込む大川(隅田川)は現在の永代橋辺りが河口で、その河口から僅かな距離に佃島が浮かんでいました。そう考えると、江戸湾、佃島は日本橋から目と鼻の先といった地理的関係にあり、獲れた魚はあっという間に江戸市中のど真中である日本橋に運ばれてきたのです。

現在の佃島:高層マンションが林立する場所は石川島地域

そして江戸の大普請がほぼ完了する1640年初頭には、江戸の人口も増え物資の流通も開幕当初に比べ大幅に増大していきます。魚の取引漁も増えていく中で、江戸には正式な魚河岸が形成されていなかったのですが、延宝2年(1674)にやっとお江戸日本橋袂に官許の魚河岸が正式に開設されるに至ります。

この魚河岸が開設されるということは、魚の流通機構が出来上がってきた事を裏付けるもので、問屋、仲買、小売といった流通経路が正式に整ってきたのが延宝2年(1674)ということになります。

また森一族が特権的に担っていた漁がありました。それは江戸湾の白魚(しらす)漁を一手に任されるという漁師にとっては最高の名誉。というのもこの白魚は当時、将軍への献上品で庶民の口にはいっさい入らないシロモノ。将軍家御用達の白魚を独占的に扱うことができた森一族は江戸そして江戸湾における漁業権を完全に掌握したことで、莫大な利益をあげることになるのです。

こんな森一族が漁の拠点とした現在の佃島にその痕跡を探したのですが、小さな森稲荷の祠が一つあるだけでかつて江戸湾の一大漁業基地であった風情はほとんど残っていません。

森稲荷

佃小橋からの眺め:石川島の高層マンションを借景

尚、前述のように森一族は徳川将軍家とは切っても切れない関係であったことから、将軍家の安泰と漁の安全を祈願する神社が残っています。
その中でも最も有名なものが、お江戸の天下祭りで有名な神田明神境内にある水神社。日本橋魚河岸の守護神として創建され、元和年間に神田明神境内に遷座したものです。

最後に日本橋の魚河岸はなんと大正12年の関東大震災で壊滅するまで、東京の中心、日本橋界隈に魚の生臭さを漂わせながら営まれていたのです。現在、日本橋の橋の袂に「魚河岸発祥の地」を記念する女神像が目立たない場所に鎮座しています。

日本橋袂の魚市場発祥の地に建つ乙姫像

尚、森孫右衛門の供養塔が築地本願寺さんの片隅に置かれています。正面に向かって一番左側の塀に沿ってところに、忘れ去られたように侘しく佇んでいます。


森孫右衛門供養塔(築地本願寺さんの境内)





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