お江戸には江戸へ通じる六街道の出入り口に大きなお地藏様が安置されていたのをご存知でしょうか。実はこのお地藏様は江戸時代の元禄年間と宝永年間にそれぞれお地藏様が鋳造され、主要街道沿いの寺の門前近くに置かれ、旅人の安全を見守っていたのです。
すでに当ブログでは東海道筋の品川宿の品川(ほんせん)寺のお地藏様を紹介いたしましたが、今日は江戸の東、隅田川を渡った深川にある霊巌寺のお地藏様を詣でることにしました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/ba/3ab1f2155c9ece8afca6beda1869e144.jpg)
ここ霊巌寺は名前の通り、もともとは隅田川河口を埋め立てて造成された霊巌島に開基された寺なのですが、あの大惨事として有名な明暦の大火(1657)、別名「振袖火事」の後、ここ深川に移転してきました。
楽翁松平定信公墓の石柱
霊巌寺ご本堂
当寺の地蔵様は霊巌寺が深川に移転した後の享保2年(1717)に置かれたものです。なんで下町深川に街道筋を守るお地藏様が置かれたのかというと、この場所は水戸街道へ通じる道筋にあたり、多くの旅人が往来していました。そんな旅人たちが門前を通る際に、旅の安全をこのお地蔵様に祈願していたのです。
霊巌寺は東京メトロの清澄白河駅からほど近い江戸資料館通りに面して山門が置かれています。比較的大きな境内を持つ当寺には歴史上、有名な人物の墓が置かれています。駅名に白河という文字が入っていますが、この人物が陸奥国白河藩第3代藩主であったことに由来しています。その方は十一代将軍家斉公の下で「寛政の改革(1787~1793)」を断行した老中松平定信公なのです。
松平定信公霊域
定信公の霊域は塀に囲まれ中に入る事はできませんが、霊域の入口門から中を俯瞰することができます。一見すると結構地味な墓石で、将軍吉宗の孫で譜代大名でありながら、親藩(御家門)に準じる扱いという待遇であった方のものとは思えないほどです。墓石の前に置かれていた燈篭2基が3月11日の大震災で倒壊し、修復されないまま地面に転がっています。
松平定信公霊域
余談ですが、定信公は寛政の改革後の寛政5年(1793)に35歳の若さで老中を引退し、陸奥白河へ戻り藩政に専念します。彼は寛政の改革の成功例であった「囲い米」や「米の備蓄」などの政策を藩政に導入し、併せて藩の農政にも力を注ぎました。
文化9年(1812)に家督を嫡男の定永に譲り隠居(致仕)し、それまで藩主として住んでいた八丁堀の上屋敷から築地の下屋敷へ移り、自らを「楽翁」と称し、大好きな庭造りをしながら悠々自適な生活に入りました。
尚、前述の築地の下屋敷は寛政の改革の労をねぎらうために築地にあった一橋公の浜屋敷を賜ったことから、「その恩に浴する」という意味で「浴恩園」と名付け優雅な生活を送ったと言われています。尚、この浴恩園の跡は現在の築地中央市場(魚がし)となっています。
また定信公と深川とのかかわりは、文化13年(1816)に深川入船町(現在の牡丹3、古石場2・3付近)に自らのお抱え屋敷(別邸)を持ったことです。定信公はこの屋敷を「深川海荘(はまやしき)」と呼び、園内には二つの築山を築き、それぞれに「松月斎」「青圭閣」と名付け、江戸湾を一望できる休息所として楽しんでいたといいます。
定信公が隠居生活を楽しんでいた時代は江戸時代における最後の華やかなりし文化が花開いた「化政時代」の真っただ中です。寛政の改革の主眼とするところは、都市政策と密接に関係する農村政策でした。享保及び天保の改革でみられるような庶民の生活を極端に規制・圧迫するようなものではなかったので、寛政の改革後、見事な化政文化が生まれたのです。
そんな文化の中で定信公も無縁ではありませんでした。彼は前述の浴恩園にサロンを立ち上げ、書画会、歌会、茶会などを頻繁に催しています。なにせそれまで陸奥白河藩主であったことから、定信公の名声は高く、浴恩園に集うメンバーも諸大名からあの書画家として知られている谷文晁まで名を連ねています。
一方、当時の江戸の街では滝沢馬琴、太田南畝などが主宰する書画会などの市民レベルのサロンも活発に活動していました。そんな時代の中で、定信公も文化人として生きた一人だったと思います。
さて、噺が前後しますがお地藏様は山門を入り、参道を少し歩いた左側に堂々とした姿で鎮座しています。夏の暑い陽射しのもと大きな笠をかぶり、じっと耐えているかのような姿を見せています。
江戸六地蔵石碑
霊巌寺六地蔵様
霊巌寺六地蔵様
ここ深川には江戸時代にはもう一体の地藏様が置かれていました。その地藏様は深川の総鎮守として名高い富岡八幡宮の別当寺であった「永代寺」にあったのですが、明治の廃仏毀釈と神仏分離により廃寺となってしまい、その際にお地藏様は廃棄されてしまいました。その後、明治39年に永代寺の代仏として台東区上野桜木にある浄名院にお地藏様が新たに鋳造され安置されています。
深川には数多くの寺が堂宇を構えています。そのほとんどは明暦の大火以降に移転してきたものです。それぞれの寺には江戸の歴史を物語るような史跡や著名人の墓が置かれています。深川散歩の折には是非、寺巡りも楽しんでみてはいかがでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
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すでに当ブログでは東海道筋の品川宿の品川(ほんせん)寺のお地藏様を紹介いたしましたが、今日は江戸の東、隅田川を渡った深川にある霊巌寺のお地藏様を詣でることにしました。
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ここ霊巌寺は名前の通り、もともとは隅田川河口を埋め立てて造成された霊巌島に開基された寺なのですが、あの大惨事として有名な明暦の大火(1657)、別名「振袖火事」の後、ここ深川に移転してきました。
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当寺の地蔵様は霊巌寺が深川に移転した後の享保2年(1717)に置かれたものです。なんで下町深川に街道筋を守るお地藏様が置かれたのかというと、この場所は水戸街道へ通じる道筋にあたり、多くの旅人が往来していました。そんな旅人たちが門前を通る際に、旅の安全をこのお地蔵様に祈願していたのです。
霊巌寺は東京メトロの清澄白河駅からほど近い江戸資料館通りに面して山門が置かれています。比較的大きな境内を持つ当寺には歴史上、有名な人物の墓が置かれています。駅名に白河という文字が入っていますが、この人物が陸奥国白河藩第3代藩主であったことに由来しています。その方は十一代将軍家斉公の下で「寛政の改革(1787~1793)」を断行した老中松平定信公なのです。
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定信公の霊域は塀に囲まれ中に入る事はできませんが、霊域の入口門から中を俯瞰することができます。一見すると結構地味な墓石で、将軍吉宗の孫で譜代大名でありながら、親藩(御家門)に準じる扱いという待遇であった方のものとは思えないほどです。墓石の前に置かれていた燈篭2基が3月11日の大震災で倒壊し、修復されないまま地面に転がっています。
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余談ですが、定信公は寛政の改革後の寛政5年(1793)に35歳の若さで老中を引退し、陸奥白河へ戻り藩政に専念します。彼は寛政の改革の成功例であった「囲い米」や「米の備蓄」などの政策を藩政に導入し、併せて藩の農政にも力を注ぎました。
文化9年(1812)に家督を嫡男の定永に譲り隠居(致仕)し、それまで藩主として住んでいた八丁堀の上屋敷から築地の下屋敷へ移り、自らを「楽翁」と称し、大好きな庭造りをしながら悠々自適な生活に入りました。
尚、前述の築地の下屋敷は寛政の改革の労をねぎらうために築地にあった一橋公の浜屋敷を賜ったことから、「その恩に浴する」という意味で「浴恩園」と名付け優雅な生活を送ったと言われています。尚、この浴恩園の跡は現在の築地中央市場(魚がし)となっています。
また定信公と深川とのかかわりは、文化13年(1816)に深川入船町(現在の牡丹3、古石場2・3付近)に自らのお抱え屋敷(別邸)を持ったことです。定信公はこの屋敷を「深川海荘(はまやしき)」と呼び、園内には二つの築山を築き、それぞれに「松月斎」「青圭閣」と名付け、江戸湾を一望できる休息所として楽しんでいたといいます。
定信公が隠居生活を楽しんでいた時代は江戸時代における最後の華やかなりし文化が花開いた「化政時代」の真っただ中です。寛政の改革の主眼とするところは、都市政策と密接に関係する農村政策でした。享保及び天保の改革でみられるような庶民の生活を極端に規制・圧迫するようなものではなかったので、寛政の改革後、見事な化政文化が生まれたのです。
そんな文化の中で定信公も無縁ではありませんでした。彼は前述の浴恩園にサロンを立ち上げ、書画会、歌会、茶会などを頻繁に催しています。なにせそれまで陸奥白河藩主であったことから、定信公の名声は高く、浴恩園に集うメンバーも諸大名からあの書画家として知られている谷文晁まで名を連ねています。
一方、当時の江戸の街では滝沢馬琴、太田南畝などが主宰する書画会などの市民レベルのサロンも活発に活動していました。そんな時代の中で、定信公も文化人として生きた一人だったと思います。
さて、噺が前後しますがお地藏様は山門を入り、参道を少し歩いた左側に堂々とした姿で鎮座しています。夏の暑い陽射しのもと大きな笠をかぶり、じっと耐えているかのような姿を見せています。
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ここ深川には江戸時代にはもう一体の地藏様が置かれていました。その地藏様は深川の総鎮守として名高い富岡八幡宮の別当寺であった「永代寺」にあったのですが、明治の廃仏毀釈と神仏分離により廃寺となってしまい、その際にお地藏様は廃棄されてしまいました。その後、明治39年に永代寺の代仏として台東区上野桜木にある浄名院にお地藏様が新たに鋳造され安置されています。
深川には数多くの寺が堂宇を構えています。そのほとんどは明暦の大火以降に移転してきたものです。それぞれの寺には江戸の歴史を物語るような史跡や著名人の墓が置かれています。深川散歩の折には是非、寺巡りも楽しんでみてはいかがでしょうか。
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