hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

私の戦争体験

2022年01月17日 | 昔の話2

      

終戦時、2歳だった私に直接の戦争体験はありません。しかし、物心ついた後も、親や親戚、あるいは近所のおじさんなどから、屋根に落ちた焼夷弾を引っ張り下ろした空襲の話や、陰湿ないじめを受けた軍隊の話(*1)を聞かされました。
また、身の回りにはまだ戦争の傷跡がくすぶっていて、我家の庭には防空壕の埋め跡があり、都心の駅には戦災孤児(*2)がたむろし、街では進駐軍の軍人(*3)、電車には傷痍軍人(*4)がいました。ラジオでは引き揚げ船(*5)情報、尋ね人の放送(*6)がありました。

 

私の家は借家だったのですが、立派な門と玄関があり、乞食や押し売り(*7)などがたびたび押しかけてきました。そしてなにより、空腹(*8)が敗戦を常に実感させていました。

 

以下、年寄が昔を懐かしんでいるだけの話ですが、戦中戦後の労苦を知らない人や、遠い想い出になった人は、是非一度以下の施設を訪ねてください。

  • 兵士、戦後強制抑留者、海外からの引揚者の労苦についての展示がある(新宿住友ビル33階の「平和祈念展示資料館
  • 戦没者遺族、戦中・戦後(昭和10年~30年頃)の国民生活上の労苦についての展示がある九段下の「昭和館

いずれも国の施設で、実物資料、映像などでわかりやすく展示しています。

 

 

*1:日本軍の陰湿ないじめ

近所に工業高校を出て大企業の技術者として働く30代のAさんがいました。Aさんは徴集されて陸軍に入ったのですが、そこでは古年兵により初年兵への執拗な私的制裁(陰惨ないじめ)が行われていました。

例えば、初年兵は起床ラッパが鳴ると、毛布をきちんとたたんで整列し、毎朝古年兵の検閲を受けることになっていました。その時に毛布がきちんとたたんでないと、毛布をグチャグチャにされて、往復ピンタを受けてしまうのです。毎回、きちんと毛布をたためずに、ピンタを受ける男性がいました。Aさん曰く、「あんなもの、端だけ揃えてたたんで置けばいいのに、大学出ててもまったくどうしようもないよ」と笑っていました。
要領の悪い人は、悲惨な目にあっていて、一度にらまれると毎回古年兵のうっぷんはらしの的になっていたのです。

私の叔父さんは、大学出て、どうせ徴集されるのだからと、志願して入隊しました。叔父さんの場合は、すぐに将校になることが決まっていたので、二等兵のときもいじめられることはなかったと言っていました。

 

*2:戦災孤児

戦闘や戦災(爆撃による火事)で親を失った子供(戦災孤児)も多く、浮浪児(子供のホームレス、ストリート・チルドレン)と呼ばれた。私も上野の駅の近くの地下道の暗がりで、じっと私の目を見据えた、ギラギラした目の浮浪児を見たような記憶があります。あの子たちは今?

 

*3:進駐軍

敗戦国日本に進駐した連合国軍の俗称。実質的にはアメリカ軍で、占領軍なのだが、進駐軍と呼ばれた。

 

私が3、4歳だろうか、母に手をひかれて銀座を歩いているとき、進駐軍の兵隊さんが、「Oh!Baby! 」とか言いながら、突然私を抱き上げ、高い高いをしたという。母は、ただオロオロ、オロオロ。

 

私は子供の頃、しょっちゅう明治神宮内苑の金網にしがみついて、よだれを垂らしてワシントンハイツ(現在代々木公園)を覗いていました。芝生が広大に広がる中にポツンポツンと米軍の将校の瀟洒な宿舎が建ち並び、異次元のアメリカがそこにあったのです。
また、明治神宮の宝物殿前の芝生には、人前を気にせずに、日本人女性の上に重なりじっと動かない米兵が居て、その何かあまりにもあからさまな奇妙な光景をいまだ思い出します。

 

*4:傷痍軍人

戦闘などで大きな傷を負った軍人など。手足などを失った元軍人は仕事に就けず、国立療養所などで過ごし、ときに都会の人通りが多い所や、祭りなどに出てきて、通行人から金銭を貰ったのです。
私が覚えているのは、手や足が無い姿で、白い服を着て、首から前に寄付金を入れる箱をぶら下げて、駅前に立っていたり、電車内を移動しながら、寄付を募っていた姿です。

 

私のいる車両に入ってくると、まず一礼をして、大きな声であいさつします。大人は黙って目を背けています。私は、子供心にもなにか重苦しいものを感じて、「あの人何?」と聞くのもはばかられました。
街角にも、手や足のない人が自らの傷をさらし、白衣を着て、アコーディオンを奏でながら、募金箱の前で頭を下げる姿をよく目にしました。私も、痛ましいと思う一方でなんとなくわざとらしくも感じたものです。

戦死軍人とともに年金が交付される「戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)」が1952年、講和条約発効の2日後に成立し、やがて傷痍軍人は街から消えていきました。ただし、在日朝鮮人などの傷痍軍人にはまだ戦後の補償がされていないそうです。

 

*5引き揚げ船

引き揚げというのは、戦争中に外地(満州、台湾、朝鮮、南洋諸島など)に取り残された軍人、一般人を日本に帰還させること。軍人が約350万人、一般人が300万人いたが、4年間で99%が帰国したとウィキペディアにありました。

舞鶴港は引き揚げ者の約1割の約66万人が上陸しました。新聞の一面に、たくさんの帰国者が港についた船から身を乗り出している写真があったのを覚えています。
「母は来ました今日も来た この岸壁に今日も来た」ではじまる二葉百合子の歌「岸壁の母」は、引き揚げてくる息子を舞鶴港で延々と待つ母を歌った歌なのです。

しかし、満州、朝鮮などからの帰還途上では飢え、幼い子どもとの生き別れなど多くの困難がありました。また、無事日本へ帰国できても、引き揚げ者は、1000円の現金とわずかな荷物しか持ってこれなかったので、海外にあった財産のほとんどを失い、0からの再出発となったのです。「引揚者」という差別もあったと聞きました。

 

*6:尋ね人の放送

戦災で家を焼かれ、家族がばらばらになった人、外地から帰還し、焼け野原で家族を探す人などが多くいました。
子供の頃、昼間の決まった時間だったと思いますが、ラジオで尋ね人情報を放送していました。「昭和○年ごろ、○○町にいた○○さん」とか、「○○中学○年卒業の○○さん」などと、次々延々と単なる尋ね人情報が読み上げられ、情報のある人はNHKへ連絡するという番組でした。私は、子供だったので、世の中とは家族も知り合いもいつの間にかバラバラになり、尋ね人の放送があるのが普通の状態だと思っていました。昭和21年から10年間も続いたのです。

 

*6:戦災孤児

空襲や戦死によって両親を失ったこともが戦災孤児です。国もまだ混乱していて、「浮浪児」という言葉でわかるように、なんら保護政策がとられなかったのです。生きるために路上生活し、靴磨きなど一人で働くか、徒党を組んで悪さをしていました。

 

*7:乞食や押し売り

人通りの多い道路の脇にボロボロの洋服を着て、座り、前に帽子やお椀などを置いて物乞いをする人をよく見かけました。当時は、個人の住宅を回って、お金をせびる人たちもいました。
現在は軽犯罪法で禁止されているためなのか、今はほとんど見かけません。

 

押し売りとは、突然玄関に上がり込み、ゴムひもなどを高い値段で売りつけることです。「刑務所から出て来たばかりだ」などと主婦を脅してわずかでも金を得ようとする男がかなりいました。

 

*8:空腹

私は終戦時2歳半。戦後直後のかすかな記憶の中で、一番強烈なのは、食べるものが無く、いつも腹をすかしていたことです。日本中が食料難でしたが、田舎を持たない東京人で、貧乏家庭であったから、より悲惨な状況でした。

ふかしたサツマイモや、おすましにうどん粉を落としたスイトンが主でした。普通のお米(白米)はなく、たまに細長いタイ米がグリーンピースの中に混じったり、たっぷり薄めたおかゆになって出てきました。おかずはおからが多かったと思います。魚も珍しく、肉などついぞお目にかかりませんでした。おから、おからと続き、口の中がパサパサしてくるので文句を言うと、「あら、おからは栄養があるのよ」などと言われました。今なら親がいかに苦労していたか、わかるのですが。そういえば、おからで廊下磨きもよくやらされました。

我が家でも現在、本当の厳しい食糧難の時代を知らない奥さんは、時時、人参など混ぜて体裁良く作ったおから料理を出してきます。美味しい、不味いではなくて、私は食べる気にならないのです。

鯨が唯一の蛋白源で、毒々しい赤色に染まった鯨のベーコンが美味しかった。鯨肉もときどき食べました。私の身体の芯は鯨で出来ていると思っています。資源管理は必要ですが、捕鯨は禁止すべきではありません。鯨を食べる日を作って、あの時代を思い出し、鯨に感謝と功徳を捧げたい。

 

米穀手帳というのをご存じですか?
戦後お米は極端に不足していました。1941、42年からお米が配給制になり、このとき各世帯に交付されたのが米穀台帳で、正式には米穀配給通帳といいます。廃止されたのはつい最近の(?)1981年です。
米穀通帳には、氏名、住所、家族構成などが書かれていて、これがないと米屋で米を買えないという大切なもので、今の健康保険証や自動車免許証のように身分証明書代わりだったのです。
この時代には、個人が直接農家の方からお米を買うことは、ヤミ米といって食糧管理法違反という犯罪だった。ヤミ米を食べることを拒否して餓死した検事さんが居ました。配給だけでは当然足りないのでヤミ米が出回り、農家から米を買って都会へ持込むかつぎ屋がいました。かなり年とったおばさんが百キロはあろうかという荷物を担ぎ、何人も電車に乗っていました。
ときどき警察の手入れがあり、電車から没収されたお米がずらりと積まれ、おばさん達が並んでいる光景を覚えています。それでもまた買い出しにでたのですから、たくましい時代でもありました。

 

 

コメント (2)
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