hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

島田裕巳『0葬』を読む

2014年05月05日 | 読書2

島田裕巳著『0葬-あっさり死ぬ 』(2014年1月集英社発行)を読んだ。

宗教学者で、散骨を推進する 「葬送の自由をすすめる会」の会長の島田裕巳氏が、葬儀や、戒名、そして墓まで不要と勧める。究極の形として、病院から火葬場に直行し、火葬場で遺族が遺骨を引き取らない「0(ゼロ)葬」を提唱している。


葬儀・墓の実態
・年間死者数160万人、葬式や墓の問題を抱える人が増えている。
・葬儀費用の平均は、葬儀社へ136万円、飲食接待に40万円、寺へ55万円の合計231万円。
(米国44万円、英国12万円、ドイツ20万円)
・都内に新たに墓を作ると、平米当たり415万円。地方でも墓石だけで165万円。
・戒名の半数以上に院号がついているが、50万円以上で、20%が100万円を支払っている。
・墓を持てないために自宅に置いたままの遺骨入り骨壺がおよそ百万柱と言われている。
・東日本では遺骨をすべて持ち帰る「全骨収骨(拾骨)」だが、西日本では全体の1/3か1/4しか持ち帰らない「部分収骨」で、残りは火葬場で処分される。


最近の動向
・昔は、若くして亡くなった人の無念を晴らすために遺された者が供養をして、死者を極楽浄土に導くというシステムが存在した。しかし、高齢で亡くなった故人は既に成仏しているとの感覚が広がっている。働いていた時代には人間関係が広かった人も、高齢になればそうした人間関係も途絶えてしまう。ならば家族葬だけで十分だというのが、現在の傾向だ。
●関東地方では、病院から火葬場に直行する「直葬」が約4分の1になった。
●業者に頼らずに自身で散骨を行なう「マイ自然葬」も広がっている。


著者提唱の究極の葬り方「0(ゼロ)葬」
遺骨の処理は火葬場に任せ、遺族は遺骨を引き取らない「0(ゼロ)葬」。一部の火葬場では申し出があれば遺骨を引き取らなくても構わない。残された遺骨は契約業者が引き取り、骨粉にされた上で、寺院や墓地に埋められ、供養される。そして、火葬だけで済めば業者に頼んでも10万円でおさまる。
墓参りは都市部への人口流入に伴って郊外に墓が建てられるようになってからの新しい習慣に過ぎない。故人を偲ぶ食事会で遺族たちが故人の「思い出」を語る方が墓参りよりも、実りあるものではないだろうか。


私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)(最大は五つ星)

葬儀の、価格も含めた実状については分かりやすいし、簡易化する動向についても明快に説明している。しかし、0葬については、実行できる葬儀場がどの程度あるのか疑問があるし、「人は死ねばゴミになる」(第8章のタイトル)という著者の割り切った考え方は、遺族に現状では納得されないだろう。


島田裕巳 (しまだ・ひろみ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、葬送の自由を進める会会長、文筆家、東京女子大学非常勤講師。
東京大学文学部卒業、同大学大学院人文科学研究会博士課程修了(専攻は宗教学)。日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。
おもな著作に、『葬式は、要らない』、『日本の10大新宗教』、『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』、『創価学会』『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』などがある。



四苦は「生老病死」、八苦は「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」
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加藤周一『三大噺』を読む

2014年05月05日 | 読書2

加藤周一著『三大噺』(ちくま文庫2010年1月筑摩書房発行)を読んだ。

詩仙堂を造った石川丈山や、一休宗純、江戸の学者富永仲基に関する少ない史実を創造で補う3つの短編小説からなる。

詩仙堂志
58歳で官を辞して三十余年、江戸時代初期、京都詩仙堂に住んだ日々の暮し。日常生活の些事に徹底し、工夫に徹し、小さな喜びのためにすべてを犠牲にした石川丈山の処世。彼は自らの人生に「こだわり」を持って生きていた。

狂雲森春雨(くるいぐももりのはるさめ)」
室町時代、頓智で名高い一休禅師を盲目の愛人森女の目から描いている。僧侶の身ながら森女との生を積極的にすすんだ一休宗純の森女との官能的人生。

仲基後語(こうご)」
大阪(大坂)の儒者富永仲基と関わりのあった人々の「証言」。富永仲基は、江戸時代の夭折した特異な思想家で、『翁の文』『出定後語』を著し、儒教・仏教・神道を批判した知性あふれる江戸の学者だ。
経典に関する彼の考え方は以下のように合理的だ。
仏教の多くの経典の説は互いに矛盾する。そこで、第一は、どの経典が一番優れているか「最勝」を判断する(天台教学)。第二は、魂の救いにどれが一番役立つかを「選択」する(法然)。第三は、経典の歴史的発展を知って、内面的論理をたどる(富永仲基の加上の考え方)。

文庫化にあたり「二人一休」、湯川秀樹氏との対談「言に人あり」を新たに収録。


私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

知的な好奇心を呼び起こしてくれる本である。

三作品それぞれ文体を違え、史伝体、一人称の語り、霊媒に呼び寄せられた仲基とその周辺の人物たちの霊と記者との対話という形を取っている。それぞれに日常的・官能的・知的に徹した三人の人生の断面を鋭く切りとり、自らの人生のテーマと共に描いている。

その「こだわり」の中で、石川丈山では、自分の中の他者、一休では、彼が愛した森女、富永仲基では、親族や大坂奉行所の役人、ひいては異端の思想家・安藤昌益に至るまで他者との「かかわり」にまで描写は広がっていく。


加藤周一(かとう・しゅういち)
1919年(大正8年)東京生まれ。 2008年(平成20年)死去。評論家。医学博士。
1943年に東京帝国大学医学部卒業、医院を開業。
1956年にはそれらの成果を『雑種文化』にまとめて刊行した。雑種文化論は、日本文化に対する問題提起として大きな議論を呼び、1958年に医業を廃し、以後評論家として独立した。
妻は評論家・翻訳家の矢島翠。
上智大学教授、イェール大学講師、ブリティッシュ・コロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長などを歴任。哲学者の鶴見俊輔、作家の大江健三郎らと結成した「九条の会」の呼びかけ人。
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