hiyamizu's blog

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『内訟録 細川護煕総理大臣日記』を読む

2010年11月22日 | 読書2
細川護煕(もりひろ)著、伊集院敦構成『内訟録(ないしょうろく) 細川護煕総理大臣日記』2010年5月、日本経済新聞社出版社発行、を読んだ。

細川護煕は、1993 年8月に38 年ぶりの政権交代を実現し、さまざまな改革をなしとげ、8ヶ月後内閣総辞職した。この間の首相としての日々の苦闘、本音を書いた日記をはじめて公開した。
内訟とは、内(自分)に自らを訟むる(せしむる)こと、いわば、反省だ。

日記自体は簡単なメモ程度の記述が多いが、古今東西の名言至言の引用も多く、知識人ぶりを示している。また、ときに自らの考えを明快に語った日もあり、優れた情勢・人物分析に基づききっぱりした決断力の持ち主であることを示している。

日記本文の下には、日経新聞「首相官邸」(=首相動静)欄を載せているので、日記の内容と照らし合わせることが出来る。また、重要なところに、立場の違う人も含めた関係者の証言があり、かなり率直に実情を述べているのも興味深い。伊集院氏の編集は見事だ。



細川政権といっても中にはいろいろなことを忘れている人もいると思うので(それは私です)、ポイントのところだけ、この本からご紹介。

細川護煕は、肥後熊本藩主だった細川家の第18代当主で、熊本県知事を2期で退任し、たった一人で1992年6月号の「月刊文藝春秋」で日本新党結成宣言し同志を募る。訴えたのは、分権的、開放的な国家システムを創造するための抜本的政治改革を断行するというものだった。

93年7月の総選挙の結果、新生党55、日本新党35、新党さきがけ13で、自民党223は過半数の256を割り込み、社会党は70と過去最低に落ち込んだ。新生党の小沢一郎が、細川を立てて政治改革を旗印に8派連合の政権を樹立した。

首相指名(8月6日)の直前の1993年7月31日から日記は始まる。

内閣支持率は発足時の76%から、一ヶ月後79%に。(今考えると驚異的)

新しげな政治風俗、スタイル
組閣写真を官邸の玄関でなく中庭で撮る。
立って記者会見し、プロンプターを使用し、ペンで記者を指名する。
視察のときも作業着を着ない(私も作業着はわざとらしいと思う)。普段は議員バッジもつけない。英国首相にも自分でコーヒーを入れて驚かれた。
シアトルでのAPECでマフラー姿が話題に。

クリエーターの佐々木宏氏が「広告批評」に載せた漫画のコピーが公邸に貼ってあった。

政治改革とか、景気対策とか、・・・
ああ、めんどくさい
でもやります。
総理大臣なんか、いつでもやめてやる
でもやります。
細川護煕


エリツィンとの会談
直前の勉強会での「ゴルバチョフの話はしない」「押し付けがましい言い回しは避ける」など些細な留意点を念頭に入れた。このときは、北方4島問題が少し進展した。

文化勲章の親授式に出席して(11月5日)
それにしても勲章の如きものに人は何故かくも執着するのか。真に世の為、人の為に陰ながら尽くした人々を顕彰するは結構なることなれど、既に功成り、名遂げたる高位、高官の物欲しげなる態、誠に見苦しきものなり。これを見れば、大体その人の器量は解るものなり。


金泳三韓国大統領と会談(11月6日)
事務当局案に、「創氏改名」「母国語教育の具体例」を加え、「お詫び」ではなく「非道な行為」「陳謝」と一歩踏込んだ表現に変えた。 

小沢氏が武村氏更迭を要求(12月18日)
「秦を滅ぼすものは秦なり」というがまさにこの政権を滅ぼすものは自民党でも、マスコミでも世論でもなく連立政権そのものならんとの思いを深くす。


強烈な米自由化反対を押し切り、ウルグアイラウンド(自由貿易)を決着させた。
社会党の反対を押し切り、執念の巻き返しで、選挙制度に関わる政治改革法案を成立(1月28日)
年末時点の内閣支持率78%

私の使命は達成した。政権は長きをもって貴しとせず。首相の座をいつ辞めるともやぶさかならず。


深夜突然記者会見し、7%の国民福祉税構想を発表後、撤回(2月)
内閣支持率が急落した際も
「支持率なんて気にする必要はない。30%あるなら、あと30キロ走れるだけ燃料が残っていると思えばいい。税制改革に向け、ガス欠になるまで、走れるところまで走りましょう。」(小池百合子氏へ)


佐川急便から細川への借入金問題で国会が空転(3月)
国会空転の責任をとり辞意表明(4月8日)

退任後も結局、細川は気が向かぬまま混乱が続く政治の世界に居続け、政界から身を引いたのは1993年の5月。自民党に対抗し得る政治勢力の結集を目指し、当時分裂していた野党4党をまとめて新・民主党を立ち上げる大仕事をやり遂げた直後だった。




私の評価としては、★★★★★(五つ星:是非読みたい)

歴史の勉強は、遠い昔より、ついこの間の歴史を学んだ方が役に立つ。マスコミの報道する政治は、ごく一面からみたものに過ぎない。本来は政治に関心を持たないといけないと、思っている人は、中心人物が激動の時代を率直に語っているこの本を読まない手はない。

当時は、細川氏は、人気はあったが、おぼっちゃま、お殿様で、私には頼りなく思えたのだが、この本を読むと、折にふれ、常に歴史上の人物の言動を基準にし、指導者としての考えをしっかり持って政治的判断を下した人だったということがわかる。

明快なリベラリズムも私を魅了する。
政治家がナショナリズムをあおりたつることは、それこそ国を誤ることにつながるもの。石原(慎太郎)氏らのいう如く、確かに東京裁判には種々の批判なきにしもあらず。しかしながら、裁判の結果を受け入れし上は、いまとなってそれに異議を申し立つつなら、国際社会での信用地に堕つること必定なり(10月5日)


一方で、真の指導者だと思うのは、これということに絞り、それ以外の些細なことは捨て置く。そして、重要事項に対しては、何者も乗り越えようとする。

信長もそうでありし如く、自ら認めて価値あり意義ありと信じたることの外は、何事をも眼中に置かぬNon-conformisit(既成の概念に捉われぬもの)たることが、改革者としての最も重大なる資格たらん。(1月5日)


この本では、どうしても首相になりたい武村正義が、官房長官でありながら自民党に内通する。これに反発した小沢一郎が辞任させないならと、何日も雲隠れして駄々をこねる。与党8派、野党自民党の政治家の権謀術数も面白いが、こんな中で細川さんはよく頑張った。


細川護煕
1938年生まれ。上智大学法学部卒。
新聞記者を経て、1983年熊本県知事。
1992年5月、日本新党を旗揚げし代表就任。
1993年7月の衆院選で初当選。
1993年8月~1994年4月、第79代内閣総理大臣。
1998年5月、衆議院議員辞職。
現在は菜園をやりながら、やきものや書、油絵などを楽しむ。

伊集院敦
1985年、早稲田大学卒、日本経済新聞社入社。
ソウル支局長、政治部次長、中国総局長などを経て、アジア部編集委員。


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