hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

南直哉『老師と少年』を読む

2010年11月06日 | 読書2
南直哉著『老師と少年』2006年10月、新潮社発行、を読んだ。

少年が問い、老師が答える禅問答が8晩つづく。最後に、老師の世話をする少女が老師の言葉を少年に伝える。

少年は、老師を「師」と呼び、「本当の自分とは誰か? 」「自ら命を絶つことは許されるのか? 」など根源的な問いを発する。老師は、少年を「友よ」と呼び、諦観をもって論理的な答えとは思えない答えで応える。まさに禅問答だ。 

いくつか抜き書きして雰囲気だけ味わっていただく。

第一夜
「では、自ら死を選ぶことは悪いことではないのですね」
「善悪を言うのは、意味がない。・・・自ら死ぬべきではない」
「それはなぜですか?・・・」
「なぜと問うてはいけない。理由を求めてはいけない。理由はないのだ。
これは決断なのだ。友よ、君は自ら死を選んではいけない」

第二夜
「では、『本当の自分』をさがす人は愚かなだけですか?」
「友よ。『本当の』と名のつくものは、どれも決して見つからない。それは『今ここにあること』のいらだちに過ぎない。苦しみにすぎない。『本当の何か』は、見つかったとたんに『嘘』になる。またいらだちが、還ってくる。もし、『本当の何か』が見つかったとすれば、それはどれもこれもすべて、あるとき、ある場合に、人の都合でとりあえず決めた約束事にすぎない」

第七夜
「聞け。自分が存在する。自分が生きている。そう思うから、人は自分とは何かを問い、なぜ生きているかを問う。しかし違うのだ」
「自分が存在するのではない。存在するのだ。自分が生きているのではない。生きているのだ。問いはそこから始まる。『自分』からではない」

後夜
老師から託されたことばを少女は少年に告げる。
「大切なのは答えではなく、答えがわからなくてもやっていけることだ」「生きる意味より死なない工夫だ」



南直哉(みなみ じきさい)
1958年長野県生れ。禅僧。早稲田大学文学部卒業後、西武百貨店に勤務を経て、1984年曹洞宗で出家得度し、大本山永平寺へ入門。2003年まで約20年の修行生活をおくる。2005年から青森県恐山の院代(山主代理)で、福井市霊泉寺住職。
著書に『語る禅僧』『日常生活のなかの禅』『「問い」から始まる仏教』『「正法眼蔵」を読む』『なぜこんなに生きにくいのか』、共著に『人は死ぬから生きられる』など。



私の評価としては、★★★(三つ星:お好みで)

私には、わけが分からないという意味で、禅問答だった。少年の問いは、青年なら誰でも考えることで、私も含め、多くの人は、答えのでない問いを封印して、生活する。しかし、たまにはこんな根源的な問いを自ら発し、考えてみるのも良いだろう。私のように単純で、0 or 1人間でも、死が近くなると、何かと根源的なことを考えたくなるものなのだから。

ただし、当然ながら、この本に答えが有るわけではない。この本には、禅の諦観はあるが、それがすべての人に適合する答えではないのだろう。答えはないとも言えるのだが、実際にこの本を何回か読んで、参考にして、自分で自分の答えを考えること自体に意味があるのだろう。
それにしても、怠惰な生活を送るうちに、物事を突き詰めて深く考えることができなくなっている。もともと私はなにごとも諦めやすい人間ではあるが、まだまだ悟りには程遠い。




コメント
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