辺野古「政治とカネ」の影 建設業者が容認派に金 (2019年6月25日 中日新聞)

2019-06-25 08:35:48 | 桜ヶ丘9条の会
辺野古「政治とカネ」の影 建設業者が容認派に金 
2019/6/25 中日新聞

 際限なく工費が膨らむ米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設。強行される工事の裏で、政治家と業者の癒着を疑わせる「政治とカネ」の問題が浮上した。県内の選挙で移設が争点となるたび、容認派の候補を支えてきたのは建設業界だった。
 「昨年十二月の辺野古沖の埋め立て第一投は、業界にとっては『待っていました』ですよ。あの日はひそかに祝杯を挙げた」
 元名護市長で、建設業者などでつくる北部地域振興協議会の島袋吉和会長は、工事の進捗(しんちょく)を歓迎する。「これまで選挙応援をするだけで工事が回ってこなかったから、地元業者は干上がっていた」と話す。
 沖縄の自民党衆院議員の政党支部には、衆院選のあった二〇一四、一七年とも、解散から投開票日までの間に企業献金が集中している。多くは県内の建設会社や建設資材の会社だ。
 県内の建設会社幹部は「選挙が近づくと、候補者陣営からファクスや手紙で献金の依頼が来る。振込用紙も同封されている」と証言する。「うちは基地の仕事はないけど、献金はお付き合い。防衛省の仕事をしている会社なら、応援せざるを得ないだろう」
 一四年の衆院選直前、県内の六議員側に献金した沖縄市の建設会社幹部は「業界の将来を考えたら自民党」と話す。この会社は選挙の二カ月前に、辺野古沿岸部の護岸工事を二億九千万円で落札していた。
 一七年の衆院選中に辺野古の受注業者から献金を受けた西銘恒三郎衆院議員の事務所は「うちはもう献金をお願いしていない。政治力に期待して献金する業者もいるだろうが、今は通用しない」と説明する。
 埋め立て着手から半年。県内で恩恵を受けている業者は限られる。辺野古の関連工事で、大手ゼネコンの下請けに入ったことがある建設会社社長は「仕事が取れるなら、もっと寄付してるよ」とこぼす。
 それでも選挙応援するのは、「仲間外れにされるのが怖いから」と名護市で測量業を営む渡具知(とぐち)武清さん(62)は明かす。
 渡具知さんは辺野古移設抗議活動に加わるうちに付き合いのあった元請けから仕事が回ってこなくなった。途中で契約を打ち切られたことも。一八年二月の名護市長選では「渡具知測量を使うな」という話も聞こえてきたという。
 辺野古移設が争点となった二〇一八年の名護市長選。選挙に関わった関係者は「国政選挙以上に建設業界がフル稼働した」。政府・与党は、移設推進派の元名護市議、渡具知武豊氏を総力を挙げて支援。移設阻止を掲げる現職の稲嶺進氏を破り、八年ぶりに反対派から市長の座を奪還した。
 「国家権力が襲いかかってきた」と稲嶺氏。政府は振興策をちらつかせて地元業者の締め付けを図った。県政関係者は「末端の土建業者にまで官邸から『頼むぞ』と電話がかかってきた」と明かす。
 建設業界の献身ぶりは、自民党名護市支部の政治資金収支報告書からうかがえる。支部は渡具知氏の出馬表明直後から、建設業者を中心に約二千万円を集金。辺野古工事の受注業者の献金額は突出していた。自民党県連などからの寄付を合わせた約二千百万円が市長選直前の一七年十二月~一八年一月、渡具知氏側の政治団体や本人に流れた。
 企業献金は政党支部や政治資金団体にはできるが、それ以外の政治団体や政治家個人には禁じられている。建設業者などからの献金が、名護市支部を迂回(うかい)して渡具知陣営の選挙資金になったようにも見える。
 支部に献金した市内の建設会社社長は「県北部では公共工事が減っている。地元じゃ死活問題。辺野古の仕事につなげたくて献金した」と打ち明けた。渡具知市長の後援会は本紙の取材に「支部からの寄付は政党活動の一環と認識している。迂回との懸念は当たらない」とコメントした。
 (中沢誠)



今も苦しみを押し付けている 戦後74年「慰霊の日」沖縄の思い (2019年6月25日 中日新聞)

2019-06-25 08:24:41 | 桜ヶ丘9条の会
今も苦しみ押しつけている 戦後74年「慰霊の日」沖縄の思い 
2019/6/25 中日新聞

 二十三日は沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」だった。地上戦が行われた沖縄では、戦争の惨禍は過去のものではない。目の前で家族を失い、わずか六歳で孤児となった男性はずっと内に秘めていた生々しい記憶を語った。沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園で開かれた沖縄全戦没者追悼式では、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する玉城デニー知事が初出席し、民意に反して工事を強行する安倍晋三首相と同席した。戦後七十四年。沖縄で交錯する思いを聞いた。

◆6歳で孤児になった男性

 二十三日朝、灰色の雨にくゆる摩文仁の丘。沢岻(たくし)正喜さん(80)=那覇市=は、家族の名前が刻まれた平和の礎(いしじ)に、父が好きだった酒や花を供えた。眼下には七十四年前、米軍に投降した海岸が広がる。
 今まで自分の体験の詳細を人に話したことはなかった。家族が亡くなった出来事はあまりに鮮明で、「思い出せば涙がこぼれてしまう」からだ。だが、この日、沢岻さんは礎に「自分だけ生き残ってごめんね。平和な島にしたいね」と語りかけ、目に涙を浮かべながら話し始めた。
 蒸し暑い一九四五(昭和二十)年五月の夜。沢岻さん一家は戦火を避けて古里の西原町を離れ、首里城に近い墓に隠れていた。沖縄独特の、中に人が入れる石造りの墓。その入り口で三歳の妹を抱いて涼んでいた母が突然、艦砲の直撃を受けた。母は大けがを負い、「もう自分はだめだから、この子たちを頼みます」と沢岻さんらを祖母に託し、妹と息を引き取った。
 墓の外にいた母の姉も頭部の半分を吹き飛ばされて即死。祖父と兄、弟も頭や足にけがをした。一帯は日本軍の司令部のそばで、一家は立ち退きを迫られていた。「安全な場所を見つけて、迎えに来るから」。けがの三人にこう言い残し、祖母らと墓を出た。
 米軍の猛攻の中、連日の雨にぬかるむ大地を、南へ向かった。沢岻さんは祖母らともはぐれ、当時十九歳のおばと二人きりに。「照明弾が怖くて、おなかがすいて仕方なかった」。畑のサトウキビで飢えをしのいだが、下痢が続いた。
 六月、アダンの木が茂る摩文仁付近の海岸にたどり着き、岩礁に隠れた。晴れた朝、他の子どもたちと浅瀬でカニや貝をとろうとした時、「パン!」と発砲音がした。銃を構えた米兵たちに囲まれていた。手を上げて捕虜になった。
 防衛隊員として現地召集された父は帰らなかった。墓に残してきた祖父や兄、弟も助からなかった。一緒に逃げたおばは高熱を出し、戦後、亡くなった。
 沢岻さんは、親戚に引き取られたが、小学校から帰ると畑仕事ばかりで勉強や遊びの記憶はない。夜は自分の涙で目が覚めた。「貧しくて、苦しくて。なぜ自分だけ生き残ったのかと、親を恨んだこともあった」
 高校卒業後、銀行に勤めて結婚し、子や孫にも恵まれた。だが、沢岻さんの戦後は終わらない。毎月、移設工事が進む名護市辺野古へ出向き、座り込んでいる。「基地のある所が攻撃の標的となる。今は幸せだけど、孫や次の世代に基地を残すと思うと、いてもたってもいられない」
 移設後は自衛隊の共用も見込まれる。「軍隊の本質は沖縄戦で学んだよ。戦争で自衛隊が守るのは住民じゃない。日本の国だ」と語気を強め、こう続ける。「南西諸島を要塞(ようさい)化し、辺野古を増強し、政権は今もこの小さな島に苦しみを押しつけている。沖縄は本土のちり箱じゃない。だから、私たちは反対し続けるよ。あきらめなければ負けることもないから」

◆黎明之塔

 まだ真っ暗な午前四時五十分。じわっとした蒸し暑さが漂う中、平和祈念公園にある「黎明(れいめい)之塔」には深緑の制服を身にまとった自衛官の一団が姿を見せた。
 まつられているのは沖縄を守備した第三二軍の牛島満司令官。三十人ほどの自衛官は一人一人、塔の前で一礼して献花した。
 報道陣とともに視線を向けていたのは平和活動にいそしむ那覇市の元教諭、与儀喜一郎さん(74)。自衛官の参列は「旧日本軍の美化」と懸念し、毎年監視している。「だんだん来る時間が早くなっている。暗闇に紛れて済ませようとしているのか」といぶかしむ。
 自衛隊側は「参列は個人の判断」と言うが、与儀さんの知人で大阪市生野区の教諭、平井美津子さん(58)は「今まで献花は代表者だけだったが、今年は仰々しい。儀式化の布石のように思えてならない」と疑う。

◆平和の礎

 黎明之塔に近い「平和の礎」には、夜明けとともに多くの遺族が足を運んだ。犠牲者二十四万人余の名が刻まれるこの場所。那覇市の渡嘉敷清次さん(76)は降りだした小雨も気にせず、五人の孫と訪れた。
 三歳の時、米軍の爆撃で母を失った。「あんなつらい思いをこの子たちにさせたくない。そんな気持ちを知ってほしくて一緒に来た。世の中、元号が変わって『令和、令和』って騒ぐけど、一番は平和だよ」
 祖父の名の前で正座し、三線(さんしん)を奏でたのは宜野湾市の鳥越佐代子さん(76)。目元をぬらしながら、命の大切さを扱う琉球民謡を歌い上げた。「今年は雨。涙雨ですよね。三線の音色もいつもより寂しげに響きました」

◆追悼式

 午前十一時五十分からの追悼式は、玉城デニー知事が昨秋の就任後初めて出席した。ウチナーグチ(沖縄方言)や英語も交えて、「平和を希求する沖縄のチムグクル(真心)を世界に発信する」と宣言すると、指笛が響き渡った。
 対照的だったのが安倍晋三首相への反応。普段より早口で「平和で希望に満ちあふれる新たな時代を創り上げる」とあいさつすると「うそつけ!」「ふざけるな!」とやじが飛び、係員が声出し禁止のボードを掲げても「帰れ!」と退場を促す声が上がった。
 追悼式に初めて訪れた宜野湾市の看護師富田真菜さん(25)は「基地問題の映画を見て考えるところがあって来てみた。怒号が飛び交うのにびっくりしたけど、それが沖縄の民意なんだと改めて感じた」と話した。
 公園入り口では首相に抗議する人たちが数十人集まり、「慰霊の日に参加する資格なし」と横断幕を掲げた。向かい側では日の丸を掲げた集団が「政治運動するな」と罵声を浴びせ、警察官が止めに入る場面もあった。

◆魂魄の塔

 追悼式会場から西に約四キロ離れた「魂魄(こんぱく)の塔」付近では、恒例の反戦集会が開かれた。沖縄で最初期の慰霊塔。昨年八月に急逝した翁長雄志前知事の父が建立に関わり、翁長氏自身も選挙のたびに足を運んだ。
 名護市辺野古移設に反対し、カヌーで抗議する南城市の安里邦夫さん(47)は「翁長さんには申し訳なさを感じている。前の前の知事が保守系の人で、途中で手のひらを返した。翁長さんも保守系だから長らく信じ切ることができなかった」とうつむく。
 「『この人なら』と思えたのが昨年の追悼式。膵臓(すいぞう)がんの手術を終えたばかりなのに『私の決意は県民とともにある』と誓ってくれた。私たちができることと言えば遺志を継ぐこと。新基地建設を阻むため、声を上げ続けることが私の使命と思っています」
 (安藤恭子、榊原崇仁)