憲法とは何か をもう一度確認しよう (法学館憲法研究所 2019年5月22日)

2019-06-11 13:10:22 | 桜ヶ丘9条の会

憲法とは何か」をもう一度確認しよう

浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2019年5月22日
 安倍首相の「改憲」への執念は、なお衰えていないようである。巷には、世論調査などをみても国民のあいだに「改憲」機運が高まっているとはいえないから「安倍改憲」もそう簡単にはいかないだろう、といった観測もあるようだが、このとんでもない政権への支持率は、何をやっても下落することなく一定水準を保っているから、「衆参同日選」で3分の2を確保し一気に突き進む、ということも十分考えられる。そうなったときに、国民世論がなお「改憲」に慎重であり続けるかどうか、心許ない。そんな時期だから、もう一度「憲法とは何か」ということを、その根本に遡って確認しておく必要があると思う。そういう思いから、過去に書いたものの中から、この確認作業の素材となりうるものをまとめて,以下に再掲する(一部、修正した部分がある)。
1 憲法はなぜ憲法なのか?
 憲法はなぜ憲法なのか? つまり、憲法はなぜ憲法として通用するのか? ―― この問いに、さっと答えられる人は、はたしてどれくらいいるだろう。では、ほかの法律、たとえば民法とか刑法とか、そのほか数多くの法律があるが、それらが法律として通用するのはなぜか? これだったら、多くの人が答えられると思う。そう、国会が定めたものだから、である。国会が制定したものがなぜ法律として通用するのかといえば、 憲法がそう定めているからである。憲法に「国会は唯一の立法機関である」と書いてあるから(41条)、国会が制定したものが法律として通用するわけである。ただし、憲法は、国会が法律を制定する際の手続や、法律で定めるべきことがら、あるいは法律をもってしても侵害してはならない事項(国民の権利など)といった、法律の中身に関しても定めている。だから、の国会が制定すればどんなものでも法律として通用する、というわけではない。憲法の定める手続に従って作られ、憲法の定める事項や制限に反しない内容のものだけが法律として通用することになるである。要するに、法律が法律として通用する根拠は、すべて憲法にあるわけである。
 では、憲法の場合はどうか。憲法について、誰が(または、どういう機関が)、どういう手続で、どんな内容のことがらを定めるのか、といったようなことは、どこにも書かれていない。憲法の制定権者や制定の手続、あるいは憲法が規定すべき内容、といったことを定めている「法」は存在しないのである。つまり、ほかの法律とはちがって、憲法の場合には、それが憲法として通用する根拠をなんらかの「法」に(少なくとも現存する実定法に)求めることはできないのである。とすると、憲法が憲法であるゆえんを法的に(なんらかの「法」にもとづいて)説明することは、非常に難しいことになる。
 しかし、たとえば私が理想的な憲法の条文を作って「今日からこれが日本の憲法だ」と宣言しても、それが憲法として通用しないことは明白である。でも、いま世界中の国々でそれぞれの国の憲法として通用しているものも、誰かが(一人ではなく何人も集まって、という場合が多いだろうが)条文を作り、誰かが「今日からこれがこの国の憲法だ」と宣言して憲法として通用している、ということに違いはないはずである。私が同じことをした場合と、なにが違っているのだろうか。憲法が憲法として通用するためには、どんな条件が必要なのだろうか。
 歴史的な事実としていえば、憲法というものが作られるのは、多くの場合、革命やクーデターや戦争などによって、国の権力構造が大きく変動したときである。そうして権力を掌握した人々(勢力)が、その新しい体制の安定を図るために、憲法というものを制定したのである。つまり、権力を握った者が憲法として作り宣言したものが憲法だ、ということになる。私が作って宣言しても憲法にならないのは、私は権力を握っていないからである。だから、憲法の制定という行為は、なんらかの「法」にもとづいて行われる行為ではなく、裸の実力にもとづく行為だといえる。しかし、とはいえ、権力者が作って「これが憲法だ」と宣言しても、それだけで憲法として通用することになるわけではない。その権力の支配に服する人々、つまりその国の構成員(近代国家においては国民)が、「これがこの国の憲法だ」と認めてはじめて、それは憲法として通用する。権力を握った者がいくら「これが憲法だ」と宣言しても、それを正当化する法的な根拠はない。だから、被支配者(国民)の承認ということ以外には、正当化根拠は見出せないのである。
 国民に承認させる方法として、強権的な支配によって力づくで従わせるという方法もあるだろうし、権力者を神格化しその超越的権威によって承認させるという方法もあろう。しかし、こういう方法は、遅かれ早かれ「化けの皮」がはがれて破綻する。18世紀のいわゆる近代市民革命によって権力を掌握し、「憲法」=“Constitution”という支配装置を発明した人々は、より合理的で安定的な方法を開発した。それが「近代立憲主義」である。それは、被支配者である「国民」を至高の(sovereign)存在とし(国民主権=the sovereignty of the people)、その「国民」がみんなで一緒に国の基本的なあり方を決めたものこそが憲法であり、この憲法にもとづいて権力は構成され、憲法の認める範囲でのみ権力は行動できる、とするイデオロギーである。絶対王政の専制的な権力を倒して新しい国家体制を打ち立てた当時の人々は、「権力をもつ者は放っておけば権力を乱用する」という、権力に対する懐疑の念を、まさに実体験として共有していた。たとえそれが「国民意思」にもとづく権力であったとしても、実際にその権力を委ねられた者は、やはり放っておけばその権力を乱用しかねない、だから憲法によって権力を縛っておく必要があるのだ、という考え方は、したがって、「国民」に広く受け入れられうるものとなったのである。このイデオロギーによって、憲法は、権力支配の道具ではなく、逆に権力を縛るための国民意思の表明となり、国民の承認を獲得できたのである。憲法は主権者である国民が権力を制限して自分たちの権利・自由を守るために定めたものだ、という考え方が広まることで、国民がそれを憲法として認め、憲法は憲法として通用することとなったといえる。
 そういうわけで、憲法が憲法として通用するのは、上記のような考え方が受け入れられて国民がそれを憲法として認めているからだ、ということになる。憲法を憲法たらしめる根拠は、このような、ある意味、非常に脆いものだといえる。しかし、それは逆に、憲法にとっての「強み」でもある。
(2014年10月20日掲載 「大人のための憲法理論入門 1」より)
2 「約束事」がぐらついたら、おしまい
 以上述べたように、憲法が憲法として通用するのは、国民がそれを憲法として認めているからである。だから、国民が「こんなものは憲法ではない」と考えたら、憲法はもはや憲法ではなく、小難しい文章の書かれた「紙切れ」に過ぎないものとなる。国のあり方の基本を定める「最高法規」だというのに、その有効性は国民が憲法と認めるかどうかにかかっているというのだったら、憲法というのは何とも頼りない根拠の上に立っているものだ、と思われるかもしれない。だが、すごく重要なものでありながら、国民がそう認めているからそういうものとして通用するというものは、じつは他にもある。
 1万円札はなぜ1万円として通用するのか。あの「紙」じたいが「モノ」として1万円の価値をもっているわけではない。そしてまた、こんにちの紙幣は不換紙幣であるから、1万円札の1万円の価値を担保する物はなにもない。それにもかかわらず、あの「紙」が1万円として通用するのは、人々がそう認めているからである。「日銀が発行したあの『紙』を1万円ということにしておこう」という「約束事」が人々の間に成立し、その「約束」は破られないだろうと人々が信用しているから、1万円札は1万円として通用するのである。もしその「約束事」がぐらついて、人々が、「あんなものは何の価値もない」と考えるようになったら、1万円札はもはや1万円として通用せず、少々精巧な図柄が印刷された「紙切れ」に過ぎないものとなる。紙幣(貨幣)は、一国の経済のまさに基本である。それなのに、人々がそう認めているかどうかにその有効性がかかっている、やはり頼りないものだということになる。経済の基本になる貨幣も、国政の基本になる憲法も、そういう「頼りなさ」という点で共通している。
 だが、ここで考えてみてほしい。人々が1万円札を1万円として認めなくなったとしたら、「あんなものは何の価値もない紙切れだ」と考えるようになったとしたら、はたしてどういう事態になるだろうか。いうまでもなく、日本の経済はガタガタに崩壊する。世界経済も大パニック・大恐慌を引き起こすだろう。だから、いまの経済秩序を守ろうとするなら、人々に、1万円札には1万円の価値があると、認めさせ続けなければならない。「あの『紙』を1万円ということにしておこう」という「約束事」を決してぐらつかせることなく、貨幣に対する人々の信認を維持することは、一国の権力者の重要な任務となるのである。
 それとまったく同じことが、憲法にもいえるのである。もし国民が現行の憲法を憲法として認めなくなったとしたら、現在の統治機構はその存立根拠を失い機能しなくなる。政府も国会も裁判所も、その他どんな機関も、すべて現行の憲法のもとで存立し権限を認められているのだから、その憲法が否定されたら、いっさいの国家機関は「無」の状態となり、そのもとに成立している国家権力は正当性を完全に失う。つまりは、国家の崩壊である。人々が1万円札を「ただの紙切れだ」と思うようになったら経済が崩壊するのと同じく、国民が憲法を「ただの紙切れだ」と思うようになったら国家が崩壊するのである。だから、いまの国家体制を守ろうとするなら、したがって国家権力を握っている者は、国民に、いまの憲法を憲法だと認めさせ続けなければならない。憲法理論上は、本来そうなのである。
 その国民の承認を獲得するために考え出されたのが、上にも述べたように、憲法とは「権力を制限するために国民が制定したものだ」とするイデオロギー、すなわち、「国民の憲法制定権力」を前提とする「立憲主義」の考え方である。だが、「権力を制限するために国民が制定した」というのは、必ずしも歴史的な「事実」ではない。歴史的な事実の問題としていえば、権力を握った者がその権力支配の安定を図るために憲法を制定したというのが、ほとんどである。にもかかわらず、「権力を制限するために国民が憲法を制定した」ということにしておかなければ、権力は(少なくとも「国民主権」とか「民主主義」ということを標榜する権力は)正当性を主張できず、したがって国家の権力体制を維持することができない。だから、これも、ある意味、1万円札と同じ意味での「約束事」である。「事実」がどうであれ、つまり、誰が憲法の草案を起草し誰がそれを確定したか等々の「事実」がどうであれ、「国民が憲法として制定したということにしておこう」という「約束事」である。実際、多くの国の憲法は、制定過程の「事実」がどうであれ、それが国民意思の表明として国民の制定したものであるということを、憲法自身のなかに明文で書き込んでいる(たとえば、アメリカ合衆国憲法前文、ドイツ基本法前文、フランス憲法前文、そして、日本国憲法前文)。この「約束事」が国民の間で共有されていることによって、憲法は憲法として通用し、そして権力は、その憲法にもとづくものとして正当性を認められることとなるのである。だから、いまの国家権力体制を維持しようとするなら(したがって権力を握っている者にとっては)、この「約束事」がぐらつかないようにすることが、権力支配の安定のために、きわめて重要なこととなるはずである。
 上に私が「約束事」と言った事柄は、国民をだますための権力側の「仕掛け」で「まやかしだ」とみることもできよう。しかし、「まやかし」であるとしても、権力の側はそう簡単には「まやかし」の正体を暴露することはできない。そんなことをすれば、自分たちの権力に正当性がないと宣言することになってしまうからである。ここに、「近代立憲主義」の大きな意味がある。「国民」の側つまり権力支配に服する側は、「権力を制限するために国民が憲法を制定した」ということを、それが「事実」ではなくても、大きな声で主張できる。そういうことにしておこうという「約束事」のもとに憲法が通用し、そして権力の源泉はすべてその憲法にあるのだから、権力者の側は、この国民の側の主張を正面きって否定することはできない。だから、権力の側は、憲法によって課された諸制約を、そう軽々には踏み外すことができないのである。こうして、憲法が権力の乱用を防ぐものとして機能することとなり、「国民」の側から権力に「縛り」をかける「道具」として使えることになるわけである。憲法が憲法として通用するのは国民がそれを憲法として認めているからだ、というのは、一見頼りなさそうではあるが、上述した「約束事」を国民が明確に自覚しているなら、憲法にとっての強力な根拠になるといえるのである。
 以上に述べたことに対しては、日本の実情とは全然違うではないか、と訝しく思う人も多いだろう。たしかに、日本は、まったく逆だと言ってもいい状況である。政権を握っている勢力が現行憲法を否定するようなことを平気で言う。「押しつけ憲法」で日本国民が自主的に作った憲法ではない、などと、上に述べた「約束事」をぐらつかせるような言説が、ほかならぬ権力の側からしつこく流布される。それにもかかわらず、その「反憲法」勢力の政権は、正当性を否定されるどころか、ほとんど安泰である。本来なら、現行憲法を否定する勢力はそのもとでの権力体制を否定する「反体制派」だということになるはずで、そんな勢力が政権の座についたら、一種の「クーデター」であって、その正当性に疑問符が付けられるのが普通だろう。そうした正当性に対する非難を受けることもなく、「反憲法」勢力が、現行憲法下でのほとんどの期間、政権の座に居座り続けているというのは、異常と言わずして何であろう。憲法理論的には、ありえない状況である。
 そのありえない状況が現にあるのはなぜか? その答えを一言でいえば、上述した意味での「約束事」を国民が明確に自覚していないからだ、ということになるが、ここは読者諸氏にじっくり考えてもらいたい。
(2014年11月10日掲載 「大人のための憲法理論入門2」より)
3 「憲法」という言葉
 こんにち、憲法といえば、私たちは、たとえば「日本国憲法」のような、国の基本法・根本法を意味すると考えるであろう。こういう意味の「憲法」という言葉は、英語(仏語も同じ)のconstitutionの訳語であり、明治期以後の用法である。当初、constitutionという語にはさまざまな訳語があてられ、「国憲」、「国制」、「朝綱」、「根本律法」、「律例」などと訳されていた。Constitutionに「憲法」という語をあてたのは、1873年の林正明訳「合衆国憲法」や同年の箕作麟祥訳「仏蘭西法律書憲法」が最初だといわれている。以後、1880年代には「憲法」という訳語が定着し、こんにちの用法となった。
 「憲法」という言葉じたいは、古くから日本語として使われていたもので、聖徳太子の「一七条の憲法」(604年)は、中身はともかく名前は誰もが知っていよう。この「一七条の憲法」は、官吏や貴族が守るべき道徳的な訓戒を書いたもので、「憲法」とはいっても、「日本国憲法」などという場合の「憲法」とはちがって、単に「おきて」、「きまり」といった意味のものである。このように、もともと「憲法」という言葉は、「おきて」、「きまり」、などという意味で使われてきたもので、また、「賞罰を憲法にする」などの形(形容動詞形)で「公正」、「公平」といった意味でも使われた(『広辞苑』、『日本国語大辞典』)。漢字の意味からいえば、「憲」も「法」も、ともに「のり」、つまり「おきて」とか「きまり」という意味のものであり、原義的には、「憲」は目や心の行動を押さえる枠のことであり、「法」は外からはめられた生活の枠のことだという(『漢字源』)。「憲法」はそれを重ねた言葉だから、「人の行動や生活に対してはめられる枠」という意味での「おきて」、「きまり」を表す言葉であった。それをconstitutionの訳語としてあてたわけである。
 一方、英語のconstitutionという言葉は、constituteの名詞形で、constituteはラテン語のconstitutus〈構成した〉に由来する。Constituteは、con〈一緒に〉+stitute〈組み立てる〉で、〈ともに成り立たせる〉という意味になり、「構成する」、「組織する」などの意味をもつこととなるのである。だから、constitutionは、原義的には〈ともに成り立たせているもの〉という意味で、「構成、組織、構造」、あるいは「組成」(物質を成り立たせているもの)、「体質」(人の体を成り立たせているもの)などといった意味をもつ。したがって、たとえば Constitution of the United States(「アメリカ合衆国憲法」)を原義的に直訳すれば「合衆国の組織・構成」などといった具合になる。そして、そこには、con・stituteつまり〈みんなで一緒に(合衆国を)組み立てた〉という意味合いが含まれている。この、みんなで一緒に組み立てた国の組織・構成を文書の形できちんと定めたのが、アメリカ合衆国憲法をはじめとする近代の成文憲法典である。
 こうしたConstitutionつまり〈みんなで一緒に組み立てた国の組織・構成〉という観念の背後には、社会契約説があるように思う。社会契約説は、平等な個人間の自由意思にもとづく契約によって社会・国家は成立する、と考えるから、国家の基本的な組織・構成は、まさにcon〈みんなで一緒に〉stitute〈組み立て〉されなければならない。だからこそ、それはConstitutionなのである。それは、国家を構成するすべての人(国民)の意思の表明であって、国家の権力行使は、こうして表明された国民意思のもとでのみ、そしてその範囲内でのみ、認められることになる。つまり、すべての国家権力作用は憲法(Constitution)に拘束される、ということである。こうしてみると、Constitutionという観念自体の中に、国家権力の統制・制限という意味合いが含まれていることがわかる。憲法によって国家権力を制限するという考え方(日本語では「立憲主義」といわれるが)をconstitutionalismと言うゆえんである。
 これに対して、日本語の「憲法」という言葉は、先ほども述べたように、もともとは単に「おきて」、「きまり」といった意味の言葉であり、しかもそれは、外からはめられた枠としての「おきて」、「きまり」である。そこには、Constitutionという言葉がもっている〈みんなで一緒に組み立てた〉という意味合いは含まれていない。日本でconstitutionalism=「立憲主義」というものが十分に理解されていないのは、そのあたりのことも一つの要因となっているのではないかと思う。本来憲法のもとでのみその地位や権限が認められているはずの権力担当者(国会議員や大臣や自治体の首長等々)が平気で憲法を否定するような発言をするのも、憲法を、国民意思の表明としてみずからの地位・権限の源泉になるものだと認識せずに、むしろ逆に自分の地位・権限に対して「外からはめられた枠」としてとらえているからだろう。あるいはまた、「政府が憲法解釈を変更すれば集団的自衛権の行使も可能だ」というような、立憲主義の観点からは完全に倒錯した議論が、あたりまえのごとくに語られるのも、同様である。
(2012年11月5日掲載 「憲法時評85」より)


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