故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

喉元過ぎれば熱さを忘れる

2020-10-20 05:48:05 | よもやま話

国分寺跡の冷水で、菜を洗っていました。
冷たい水に手を入れて、「おいしくなあれ」と念じるのです。
タイトルは、「洗い清めて」です。
心も洗われました。


今日のタイトルは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」です。
意味は、
苦しかったことも、過ぎ去れば全く忘れてしまうことのたとえ。
また、苦しい時には人を頼み、苦しさが去ればその恩を忘れることをいう。
(広辞苑より)
哀しみも歓びも長続きはしない。
臥薪嘗胆と言って、悔しさを忘れぬために薪の上に寝る。寝心地が悪い。
肝を干して舐める。苦みが悔しさを思い出させる。
こんなこと、誰もしない。

早く寝ても、夜更かしをしても、起きるのはこの時刻、早朝4時頃となる。
ある人は、夜寝られないと悩む。この人に、昼間電話すると、いつも寝ぼけ声です。
他人から見ると、バランスは取れている。夜中に起きだし、考えることは「孤独」です。
「孤独」、これ幸いと日頃できないことをやる。
習慣となると、いささか具合が悪い。

私は、苦しい時(例えば、タイトルが思い浮かばない)は、ルーチンワークをすることにしています。
昨日できたことが、今日できるとは限らない。
晩秋になり、冷え込んでくると寝床から出られぬものです。惰眠をむさぼりたい。
昨日、草刈り機のタンク3つ分、草刈をしました。腕も腰も張っています。
頭では容易(楽しいこと)だった草刈が、身体はきついと応えてくれます。

ブログが書けない日があります。
順繰りにして、夜が来た。飲んでしまえば、寝るだけです。
長いレンジで、考えたり思い出したりする。
返す当てのない恩返しです。返そうにも相手がいない。
結局、孫に返すことになる。甘くなるのも当然です。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、よいのです。
恩を仇で返す。こんなこともあるでしょう。
親の希望通りの人生を歩む子供は、高がしれている。
反発、大いに結構。子を持てば、同じことの繰り返しです。
誰だって、初舞台です。特に恋は、いつも「どうして、こうなん」です。

昨日の喜びも悲しみも、今日は忘れている。
ひょっとしたら、明日(大いに未来)思い出すかもしれない。
平凡な生活を毎日繰り返すことです。
なかなかできるものじゃない。
お袋の味が忘れられない。ふとした時に、舌が思い出す。
宝くじで、百万円当たった。あの喜びは消え去り、今日は一億円の夢をみる。
私達は、阿呆です。
そして、とても利口です。そんな訳ないよな。
具合が良いことばかり続くことが不満となる。ここまでくると、阿呆の珍物です。
結婚はゴールじゃない。厳しいスタートでした。知らぬどおしがチャンチキおけさです。
美人は三日で飽きて、ぶすは三日で慣れる。こんな自分勝手なことを言いだすのです。

奥山の ことりと落つる 滝滴 

2020年10月20日

<<あとがき>>
思い出せば、苦汁ばかりが喉元にむせ返ります。
ささやかな幸せで、飲み込みました。
それでもいつの日か、またむせ返る。
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自分が種を蒔く

2020-10-19 06:07:22 | プロジェクトエンジニアー

絵のタイトルは、「興味津々、まさに無邪気」です。
子供は、こうでなくちゃ。


6年半かけて、1800の記事を書いた。
自分なりに、持てる力とユーモアを注いできた。
このままではと、記事一つずつをワードに転載しファイルを作った。
バカヤローと言うくらい、書いている。

今日のタイトルは、「自分が種を蒔く」です。
小説家の先生は、作曲家は生涯をかけて数千、数万と書き上げる。
だから、私の記事数は大したことはない。
蒔いた種を残したい。いずれ本にしようと考えている。
読まれることは、念頭にない。とにかく種なのである。

田舎暮らしと都会の暮らしの違いを論じてみよう。
田舎暮らしは、「自分が種を蒔く」ことを許されている。
都会の暮らしは、誰かが種を蒔き、順繰りに役割に応じて収穫をする。
田舎暮らしは、自己完結型と言ってもよい。
役割に携わる人数が違うからである。

ことさらに、違いと面白味について書くつもりはない。
仮に、「自分が種を蒔く」と、刈り取り迄責任を持たなければならない。
種をたくさん蒔いて、間引きをする。
収穫のサイクルは、数年だったり数週間だったりする。
種が苗になり、苗が成長し実をつける。田舎ではこの経過を見ることができる。
併せて責任も付いて回る。畝あげや草取りをするのも、種を蒔いた人の責任である。
分業などはない。

私は、都会でも田舎でもブログを書いてきた。
単なる興味本位から、自らの挑戦に変化してきた。
都会で書いていた頃は、自分の身の周りのことについて書くことが多かった。
田舎では、遠くを見る癖がつき、視野と考えが広がった。
普遍的なことへの挑戦が多くなった。

子供へお父さんはこんな奴で、このように生きて来た。
都会で暮らしているなら、それでもよかった。
ここでは、そうはいかない。
東京が風を引けば、田舎はくしゃみをする。
東京でコロナが収まらない。田舎の人は、じっと嵐を過ぎるのを待つ。
確かに、ここには、美術館、図書館、素敵なカフェも便利な交通機関もない。
物資も乏しい。
しかし、子供への目配りは都会とは段違いである。
我が子以上に他人の子供の心配をする。笑わせ、時には叱る。
種が実るのを感じられる。子孫と祖先を感じることに置き換えてもよい。
だから、「自分が種を蒔く」責任を取らざるを得ない。

地方創成の人材として、大企業でも活躍できる本物の人が求められている。
誰かが役割を果たさなければならないとしたら、
地縁血縁(しがらみ)のない人物のほうが、外野の噂を気にせず仕事ができるだろう。
問題は、引き継ぎである。素晴らしい種を蒔いても、収穫のサイクルは長いのである。

私の種は、吹けば飛ぶような代物である。
現実、種を蒔き続けている。実ろうが、雑草に負けようが、それは努力であり、運命である。
6年の軌跡を視ながら、続けようと再確認をした。

種を蒔く 我田だけにと 人は言う

2020年10月19日
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暗示

2020-10-17 01:35:09 | よもやま話

このタイトルに合わせる絵を探した。
この絵を選んだ。
タイトルは、「あなたに会いたい」です。


今日のタイトルは、「暗示」です。
暗示とは、
別のものを示して、それとなく感づかせること。
感覚・観念・意図などが、理性に訴えることなく無意識のうちに他人に伝達される現象。
(広辞苑より)
爺さんの葬式の日、母が炊いた飯はとてもまずかった。
水量を間違えていた。大勢の弔問客のため大釜で炊いた。

母の夢をみた。なんとか太夫の追っかけをしていた。それも、取り巻きに近い存在であった。
なんとか大夫の名前は、現在住んでいる隣町の名前を冠にしていた。
母と話した。肌はつやつやとして、ふっくらとしていた。前に帯をしていた。
私は、サッカー部のOB会に出席した後、飲み席で母を見かけた。

タクシーで帰り、縁側に寝ている父と話した。涼しいのに布団をかけていた。
布団から出ている両足は、片方義足で残りはゴボウのような細足だった。
一年間努力して、走れるようになった。今度、聖火ランナーとして走ると言った。
父は、傷痍軍人であった。失ったのは、右目であった。

私は、今年父が亡くなった歳になった。母が亡くなって7年経っている。
両親の夢をみるのは、記憶している限り初めてである。
この夢は、私の中の何に話しかけたのか、寝床で反芻した。
妻は、寝ている。

遺産相続のかたをつけてくれと言ってるのか。
やり残したことがあったのか。
私の意識が、向こうに行ったのか。
夢の後悔はない。むしろ、両親はそれぞれ楽しくやっていると感じた。

心配するな。
ちゃんと生きろ。
楽しく送れ。

私が子ども達の夢に現れるとしても、そういうだろう。
私は、夢の「暗示」を重く受け止めたい。

ススキ揺れ 虫が鳴き止み 来し方を
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自分の身は自分で守る

2020-10-16 12:04:40 | よもやま話

腰が治った頃、この絵を描いた。
タイトルは、「ぴょんぴょん」です。


いつものように、短時間で書くことになった。
今日思いついたことをまとめておきたいと書くことになる。
今日のタイトルは、「自分の身は自分で守る」です。

6年前のこと、腰痛で苦しんだ。
若い時のようにできるはずだと頑張った。
通院して治療もし薬も飲んだ。
右足がしびれ、足の毛細血管が膨らんでビリビリ動く。
風呂に入り温めたら治っていたのが、激痛に変わっていった。
出張に行かなければならない。医師に頼んでブロック注射を打ってもらった。
一日だけ、嘘のように痛みが引いた。二日目には元通りで歩くのさえ支障をきたすようになった。
ギブアップ。会社を休むことにした。
痛くない姿勢を4時間も維持し、なんとか身体を支えてきた。
繰り返した。4日目に、普通に動けるようになった。
病院に行き、CT検査を受けた。背骨の継ぎ目で飛び出していた骨髄がへこんでいた。
椎間板ヘルニアの手術予約を取り消した。

せっかくの休みなんだからと、身体は元通りになっても会社には行かなかった。
右足の小指と薬指は、現在まで感覚が薄い。そうなってしまった。
それからは、歩き、草取りをし少しずつ身体に負荷をかけて行った。
腰のまわりの筋肉を、痛くない程度に鍛えた。

体重は、10Kg以上減った。机に長時間座る仕事(プロジェクトエンジニアー)を辞めた。
山登りができたり、普通に農作業ができるようになった。

毎日が平凡な生活である。
タンク一杯だけと、2週間かけて一回りの草刈をやる。
2週間後には、元の場所に帰り、草刈をする。夏中、ぐるぐると繰り返す。
それでよい。身体はきついが、腰は痛くない。
クラブを思い切り振れるようになった。
スコアは行ったり来たりだが、1.5ラウンドできるようになった。
スコアは構わない。

ラフが長い。そこへ打ったのは自分。
フェアウェーに出さずに、またラフに入れる。それも自分がしたこと。
他人には、痛みも悔しさも分からない。知っているのは自分だけ。

ないものねだりは、やめた。
自分がこうしたい、こうなればよいと思うことをすることにした。
人に頼らない。人に命令もしない。自分で動く。
それでも足りない。時々、不満が首を持ち上げる。

人には分からない。
分かる自分がやるしかない。
苦しかったことも、少し楽しくなった。
人にも優しくなったような気がする。
嘘で固めた自分が、本当のことを言えるようになった。
本心を語ることが、清々しくなった。
未だに、嘘と本当のないまぜの人生である。
それが、自分と割り切ることにした。
今日書きたかった「自分の身は自分で守る」でした。
さあ、仕事にかかろう。
鬼軍曹が笑っている。

石蹴った 石より靴が 飛んでった

2020年10月16日
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発想の転換

2020-10-15 01:43:13 | プロジェクトエンジニアー

妻は、私の絵の使いまわしを「やめなさい、みっともないから」と叱ってくれます。
今日の絵のタイトルは、「発見」です。
少しだけ似顔絵を描きました。今は一大決心しないと描けなくなりました。
描き上げた似顔絵に、私の印象を短い言葉にしました。
いつしか、私の脳に忖度が芽生えました。印象を正直に書けなくなった。
言い分ですが、描く楽しみがひとつ減りました。
私こそ、「発想の転換」が必要です。


今日のテーマは、「発想の転換」です。
人生どん詰まりのなか、悪人たちはどう更生していくのか。
会社や家庭のパワハラ、モラハラのなか、どう生き抜いていくのか。
周りの人は、みんな分かっています。なにか変だぞ。
上司だから、法律的に罰することができないから。
暴力が怖いから、等々理由はいっぱいあるでしょう。

暴力の対処は、その人が年寄りになって復讐すればよい。そんな夢をみることで解消されます。
モラハラも同様です。勉強しなさい、片づけなさいとママがうるさい。
認知寸前の母に、かつての娘が片づけなさい、不要なものは捨てなさい。
上司のことは語らない。定年後の姿を見れば分かるでしょう。
パワハラ、モラハラから逃れた時、あれはやっぱり変だった。
あれがあったから、価値観の違う世界を見ることができた。
いろいろでしょう。

農業では、雑草をあえて抜かない話を聞いたことがある。
雑草に余分な水分を吸収させる。ついでに養分も雑草が食い尽くしちゃう。
我が家でも試してみました。
トマトの水分量を抑えるために、ビニールの屋根をかけた。
骨組みは、竹害駆除で伐り払った竹材を使った。
屋根をかけたばかりの時、土の水分と養分を雑草に吸ってもらった。

サナダムシに、腸内のばい菌を食ってもらった。
今はいなくなったサナダムシを身体に入れるためにインドネシアに行った。
蛭に毒を吸わせた。よくわからないけど、あるみたいです。

ばあちゃんは、草むしりが得意です。
抜いた草は、山際に積んでいく。
段々と、ばあちゃんの畑は地盤沈下していきます。ほったらかしの畑より1mは沈んでしまった。
今は、抜いた草は畑内に積んでおられます。
草マルチで使った草を丁寧に何度も鋤きこみました。みみずが増えていました。
ただ抜くだけの草取りは大変です。花と野菜を植えました。
花が草で埋もれるのを見るのは忍びない。花より高い草を抜く。
今度は何ができたかな。見回りついでに草を抜く。楽しいじゃあーりませんか。
作物の周りの草は抜かない。野菜の根を支え、日陰を作り水分蒸発を防ぐ。

ごみが、こんなに拾えたよと子供が親に見せている。
散歩がてらに、道の両端のゴミを拾う。
やはり、草むらには捨てるが、きれいな場所には捨てにくい。

雪解け水が小川を流れる。冷(つめ)た過ぎて田植え前の田んぼには引けない。
野菜の水やりに使えない。
小川を広くし、水位を下げて広く日光にさらす。堰を何段も造り空気と触れさせる。
下流で田んぼに引くころには、水温が10℃も上がったとも。やれやれ。

山のものがいなくなり、森を管理できなくなった。
海のものが、森の管理を積極的にやり始めた。
森の恵みが、海の恵みとなるのを知っているからできること。
朝ドラ「エール」で歌のバックに見える林は、氾濫が予想されるときは一時的に貯水池に変身する。
川がそういう風に作られていると聞きました。

科学的に埋もれている技術を他の分野に応用する。
ニーズが先か、発想の転換が先か。専門分野を極めた人の転職を促すでしょう。
それは、産業人にお任せする。

私は、多くの人に知っていただきたい。
古人(いにしえびと)が、遠くの山の雪解け具合を見て稲の苗を植えることを伝えてきた。
発想の転換をいっぱいしてきたことを知ってほしい。自らも知りたい。
あきらめないで、やりきれない気持ちをばねにして欲しい。
伸びきり、元に戻らなくなる前に助けてあげたい。助けてもらいたい。

脳がやられて、半身不随の方でも、残った片手で役に立ちたい。
使えぬ手で押さえることができないから、切るものを釘に刺す。
使える手に包丁を持ち、人の倍の時間をかけて、味噌汁の菜を切る姿を見た。
その方は真剣で、笑顔に溢れていました。
年寄りを床の間(奥)に飾るのをやめて、玄関に寝ていただいた。
バリアフリーをやめて、困難極まる段差をつけた。
毎日、どうしてこうなんと、気を付け筋肉を否応なしに使わさられる。
隣人と価値観が違うことを発見し、楽しんでほしい。

あっち水 うまいんじゃない 飲んでみろ

2020年10月15日
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