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故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

タイのお国柄

2015-02-04 07:15:18 | 思い出話

目がかすみます。
顔を洗って、目薬を注しました。
視界がクリアーになりました。
まつげに添って点眼するのです。
子供の頃は、まつ毛がカールしてあまりに可愛い目元だったので
姉が、羨んではさみで切ったことがありました。
今は、まぶたが腫れてどこにあるのかわからないまつ毛です。

朝のルーチンワークが半減しました。
帰郷していた妻が、帰ってきたのです。
昨日が節分。アンデルセンの塩豆パンを買って来てくれました。
中々いけます。

パクチー入りのトムヤンクンが食べたい。

精米セミナーがタイ国であり、始まる二日前の土曜日に出かけました。
バンコクの空港から都心まで、片側5車線の高速道路がまっすぐ伸びています。
有事の際、戦闘機の離発着に使用するためと聞きました。
途中見えた工事現場の足場は、竹で編んでありました。

この国を知るならと、昼間の炎天下を市場に向かって歩きました。
持参したゴム草履が気持ちよかった。
歩くこと一時間。市場に着きました。
魚が、肉が吊るされて売られていました。当然ハエもたかっていました。
何しろ、この温度で腐らないのか心配でした。
心配無用、次から次にお客が買っていきました。

市場の食堂に入り、トムヤンクンを注文しました。

出て来たスープは、エビ入りの赤い色の濃いスープでした。
パクチー(コリアンダー)の独特の匂いがしました。
唇がひりひりするほどではありませんでした。
大汗をかきました。日陰の食堂に時々風が吹き抜けました。
身振り手振りで、美味しかったと女主人に礼を言いました。

それではと、街の散策に出かけました。
太い電線からは、いくつもの線が伸びていました。
どう見てもプロの仕事とは思えませんでした。
命知らずの盗電でしょうか。
バイクの洗車場がありました。
バイクの幅分だけコンクリート製の高さ50センチ位の
土塁上の上に、バイクが次から次に乗せられ手際よく洗われていきました。

川沿いに歩いていると、中が暗い小屋から数人の脚が出ていました。
近くの河岸には、鶏がかごをひっくり返された中にいました。
どう見ても電気は引かれていないようでした。
都心からわずか500mのところでした。
都心の横断陸橋の下には、乞食がいました。
持参したお金が少なかったので、屋台の食べ物を買ってきました。
夜店で、釣った金魚を入れてくれるひも付きのビニール袋に
入れてくれました。まあまあの味でした。

遠い昔、会社の先輩から、タイで水桶から水を飲むときは、
まず柄杓で縁を叩いてから飲むと聞きました。
ボウフラが沈んだところで、柄杓で水をすくうと教えてくれました。

飲みに行ったレストランで帰り際には、
テーブルに使ってくださいと、たくさんのコンドームが置かれていました。

翌日、朝の散歩に出かけました。
高級な街並みから、市街に入って行きました。
メコン川から多くの運河に水が引かれていました。
運河を海上バスが、大波を岸にぶつけて往来していました。
船の後ろの方には、ビニールシートが張られていました。
海上バスが、行き違うとき相手の船からの波しぶきを防ぐためでした。
ミニスカートをはいた勤め人風の女性が、
運転手からヘルメットを借りて、バイクタクシーに横座りに乗りました。

更に、歩き進むと大勢の仕事人たちが朝の準備をしていました。
その中を、きれいなお姉さんが歩いていました。朝帰りでしょうか。
はがれかけた化粧の下には、無精ひげが何本か生えていました。
この国では、貧しい両親が幼い子供にホルモン注射を打ち、女の子にすると
タイの同僚から聞きました。
女の子になった子供には稼ぎ口があったのでしょう。

昨日、サービスマンだった人が、今日はプール付きの豪邸に
住むような国でした。成り上りの社長は、事務員の女の人に手をつけてしまい、
奥さんと離婚をしたとのことでした。
事務員の女の人は、お腹が大きかったのでした。
どこでも、金持ちのやることは同じでした。

タイは、おおらかでエネルギッシュでした。
どこの国に行っても裏通りが素晴らしい。

2015年2月4日
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60過ぎ、再婚の是非

2015-02-03 02:11:03 | よもやま話

夜中に起きだすのに、小一時間を要しました。寒いのです。

毛糸の帽子に、カシミヤのマフラーも付けてもう大丈夫です。
ご飯をしかけて、コーヒーを淹れる間に、今日の話題を考えます。

60歳を過ぎて、掛けていた保険を一つにしました。
かみさんが亡くなった時の保障の少なさにがっかりしました。
残したのは、葬式代が出るようにと入院保障付きの掛け捨てにしました。

私は、60歳で再婚しました。
妻は、保険に入ってとは言いませんでした。
妻と同窓会で再会したのち、
約一年間、広島に月に一回のペースで会いに行きました。
メール、電話や書簡では、コミュニケーションが十分にとれませんでした。
行間が埋まらないとでも言いましょうか、
ト書きのような雰囲気がつかめませんでした。
コミュニケーションを取るには、相手の表情が一番大切だと気づきました。

60歳を越えると、付き合いが狭くなります。
親とかの役目も終わり、会社でも責任ある仕事から外れます。
積極的に出るようにしないと、一日中話さない日も出来てしまいます。
テレビで情報を取ると言っても、洪水のように一方的な流れです。

さて、問題は「60歳過ぎて、再婚の是非」です。
60年間の流れるような時間は、あっという間ですが、
個人の習慣を考えると、とても大きいのです。
人には、生きていくうえで譲れないものがあります。
お互いに大事にしているものがあります。
これを捨てても踏み切る勇気があるかです。

若い時より、人生経験も情報も十分です。
よもや見誤ることもあるまいと過信していました。
どんな素晴らしい人にも、欠点があります。
素晴らしいということも、窮屈さから言うと欠点になります。

学生の頃、一年間退学も視野に入れて休学したことがありました。
一人で住むアパートで、孤独を癒すために、
自らの声を吹き込んだテープを流し乍ら、独りで喋っていました。
残念ながら、人は孤独では生きられないように思いました。
かみさんを亡くした時、時間がとても長く感じました。
かみさんが仲介した家族間のコミュニケーションは、
子供達との間で不自由になりました。
お父さんにどう話したら良いのか困ったと末娘に言われました。

アルツハイマーは何かの分泌量が少なくなり次第に病気になっていくとか。
家族と暮らせるなら、一人でも良いと考えます。
親と一緒であれば、順番から言って先に亡くなるでしょう。
子供達は、今は一緒でもやがて他人と家族を持つでしょう。
自分にとって、コミュニケーションを持つことが重要なのです。

もし、あなたが悩んでいるなら、再婚を勧めます。
しかし、努力は欠かせません。
どんなに好きであっても、判じ物のような保証はありません。
家事一般、何でも楽しんでやることです。
できたら外界とパイプを持つことです。

きままな一人生活が良いですか。
それも憧れです。
てんで頼りにならなかった男性機能が、
再婚を機に復活するとしたらどうしますか。
これは用済みですから、どちらでも良いのでした。

私達の再婚について、どちらの家族とも反対でした。
理由は、立場の問題でした。
財産の相続だけではありませんでした。
新しく、家族関係を持つことが嫌だったのです。
断固反対の空気も、時間とともに薄れていきます。
お父さんが幸せそうにやっているならいいか。てなもんです。

やはり、どちらとも言えないのでしょうか。
誰かと一緒に暮らすのはエネルギーが必要です。
はたと困りました。再婚の是非は、永遠に謎なのです。
良く考えると、決まり手はありません。
その人の好みです。

私は、再婚を選びました。
今も幸せですし、これからも努力すれば続くと考えます。
長年連れ添った空気のような存在ではありません。
暮らしは静かですが、ごつごつとした面はあります。

先輩の趣味はと聞いたとき、
「奥さんに興味がある。」と答えられました。
素晴らしい言葉です。ぬけぬけと良く言うわいとも思いました。

2015年2月3日
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まことしやかに(Part-1)

2015-02-02 08:00:42 | プロジェクトエンジニアー

もうかりまっか。
ぼちぼちでんな。

本当はウハウハなのに。
実は、青色吐息なのに。

その会社ではないのに、名刺だけ作って代理業務を
することがあります。

私は、過去2回ありました。

エンジニアリング会社が、横になりかけたことがありました。
私は、49歳でリストラされました。
子会社へ出向でした。給料は2割カットでした。
大半は、55歳過ぎの方でした。
私が、対象に選ばれた理由は取ってつけたような内容でした。
その時、すでに受注したプロジェクトがありました。
会社の他の人より、私の方が付き合いも知識もありました。
私は、子会社に行かず、転職した会社から出向社員として、
そのプロジェクトのマネージャーをしました。
リストラしておきながら、会社とは実に勝手なものでした。
自分だけが可愛いのです。
思い入れのあるプロジェクトだったので、引き受けました。

粗利益が契約時よりアップしたら、その分の2%をインテンシブで出す。
時の上司が言いました。
そんなことを言っていいのかなと私は腹で思いました。
上司の狙いは、別会社に転職した
しかもリストラ社員に任せるのですから、疑ったのかもしれません。

そのプロジェクトは、ことのほか上手く行きました。
会社で年始に行われる表彰対象になりました。
規定以上の利益を揚げたからでした。顧客の満足度が高かったからでした。
上司と関係者に金一封(少なくない)が出ました。
私は、受け取りを辞退しました。打ち上げの飲み会に出ました。
全員でいただいた金一封よりたくさんのインテンシブをいただきました。
会社が変わってもプロジェクトへの思いは変わらないのです。
時の上司も自分かわいさで言ったことでしょう。

金額とスケジュールは、顧客にも会社にも解らないように
仕掛けがいっぱい埋め込まれています。
プロジェクトの進行に併せて、予備費が利益に変わって行くのです。

見積もり仕様書の品質は、最高級です。どこにも漏れがありません。
儲けるために、後に妥協ができるよう工夫がこらしてあります。

15億円のプロジェクトでした。
スケジュールを1.5ケ月短縮しました。
顧客は、投資したプロセスで製品が早く出荷できました。
会社は予想以上に儲かり、顧客に感謝されました。

まことしやかに、できるだけ正直にプロジェクトを遂行するのです。

2015年2月2日
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まことしやかに(Part-2)

2015-02-02 07:33:17 | プロジェクトエンジニアー

私の座る席が違うだろう。
と顧客の専務が部下を叱っていました。

出席者名簿に載っている私の名前は、原籍の会社になっていました。
出向先でプロジェクトマネージャーとして働きました。
出向先の会社で、プロセスを受注しました。
顧客の専務は、私のことを信頼し任せてくれました。

応援に行った会社で、プロセスを受注後、原籍の会社に帰り、
「建物」のビットに応札し受注しました。
私は、建築担当会社のプロジェクトマネージャーとして
起工式に出席しました。

起工式のなおらい(簡単な食事会)が終わった後の二次会では、
顧客の専務に、「この忍者め。」とさんざん吊し上げられました。

この時期は、複雑な肩書でした。
リストラされた会社から、応援に行った会社に転職したからでした。
どちらでもプロジェクトマネージャーとして実績がありました。
会社を転職しながら、続いて二つの大きなプロジェクトをやったのでした。

応援に行った会社に転職した後は、大変でした。
プロセスの工事がことごとく失敗していたのでした。
原籍のエンジニアリング会社が、工事を担当するのを
応援に行った会社から断られたのでした。
工事の時は、建築だけが対象でした。
原籍の会社としては、断られて良かったのです。
プロセスと建物併せて30億円の仕事でした。

私は、応援に行った会社に転職後、
工事の失敗を解消するのに1年半かかりました。
その間に、会社を辞めていった方の数は10人でした。
真っ先に辞めたのが、責任者でした。
後始末の責任者として頑張ったおかげで、
本国の外人の責任者と知り合い、お互いを認め合うまでになりました。
その後の仕事がしやすくなりました。
信頼して任せてくれた専務へ恩返しが少しできました。

人間至る所青山あり。

肩書が生きるのは、仕事の入り口だけです。
仕事の実績(良きも悪しきも)は、どこまでも個人に付いてきます。

これからも、まことしやかにプロジェクトに
寄り添って生きたいと思います。

2015年2月2日
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それぞれに良い人

2015-02-01 06:11:18 | よもやま話

妻の娘の晴れの結婚式の日です。

相手は、防衛大出身の海上自衛隊に勤務される方です。
式を延期すること約1年、
予定を組んではミッションが入り、そして延期の繰り返しでした。

一方、私達母子でお世話になったおばさんの葬式の日でもあります。
母にとっては年下の妹でした。
歳が近いのか良く行き来していました。
おばさんの娘夫婦が、結婚後数年、我が家の離れに住んでいました。

岡田のおばさんが、「今度は、私の番じゃ。」と知らせてくれました。
試しに聞いてみたら、
13人の兄弟の8番目が岡田のおばさんとのことでした。
まだ、半分生きていることになります。
船乗りだった旦那の自慢をひとくさり話して、電話を切られました。

どうして、家の娘のどこが気に入って結婚するんじゃろう。
と親ながらクエスチョンが、正直なところです。

NHKの調査で、一人の若い未婚の女性が、知らぬ男たちの
汗を嗅ぐというドキュメント番組がありました。
二日間、風呂も入らず汗を思いっきり吸ったシャツの臭いを嗅ぐのでした。
6つのシャツがそれぞれビニール袋に入っていました。
女性は、恐る恐るすべての臭いを嗅ぎました。

その中に、とってもかぐわしい臭いを見つけたのでした。
調査は続き、そのかぐわしい臭いの持ち主の遺伝子と女性の遺伝子を
重ねてみました。
生まれてくるであろう架空の子供は、免疫力が高い優れた子孫になるであろうと
科学的結果を発表していました。

女性は、動物的な勘で直感したのでしょう。

少し謎が解けました。
十人十色の中からパートナーを選び
新婚生活を始める妻の娘夫婦に幸あれと願うばかりです。

長い道のりを、好きな旦那と一緒に歩んできたおばさんに、
お疲れ様でした。とそっとお礼をいうのでした。

2015年2月1日
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