故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

お酒の飲み方

2015-02-26 04:38:16 | よもやま話
  仕事後の独酌 

  
南千住、山谷涙橋に世界長という酒屋さんがありました。

朝6時開店でした。
手配師たちが帰ったあと、仕事にあぶれた人たちが集まってきました。
当時、一杯110円のコップ酒が多く売れました。
らっきょ数粒と梅干一粒は、10円でした。
一升瓶から直接コップに注ぎました。受け皿はなしでも摺り切り一杯。
美味しそうに口を近づけながら飲まれました。

私は、この町に溶け込むように働いていました。
教授に学校を辞めた方が良いと言われていました。

  いつしか路上に宴席が出来ました 


哀しいような、お祭り騒ぎでした。
毎日決まって、日本酒を6杯飲まれる建具師の方がおられました。
ある日、近くのカウンターバーでお酒をご馳走になりました。
親分さんの手には、根性焼きの跡が手のあちこちに残っていました。
開口健さんの「日本三文オペラ」を読んだのは、その頃だったでしょうか。

  時には野菜も食べた方が良い


私は、午前中は山谷で働き、午後は銀座で働いていました。
松屋裏の酒屋さんで、酒の配達をしていました。
エレベーターで乗り合わせたこれから飲みに行かれる紳士たちもいました。
こちらでビールと言えば小瓶でした。いったいいくらで売られていたのでしょう。
夜7時、お姉さんたちは客待ち顔でテーブルにトランプを広げていました。
山谷に較べ、ゆっくり時間が流れている感じでした。

私は、どちらも2ケ月で辞めました。
どちらにも私の居場所を見つけることはできませんでした。

その後、故郷に帰り家業である蜜柑の仕事をしました。
蜜柑の行商を手伝っていました。お袋は何も聞かずに、喜んでいました。
親父に大学を辞めたいと言い出せないまま、
阿蘇外輪山の牧場に住み込みで働くことにしました。

時おり降る雪は、ほほに突き刺さりました。
一頭、子牛が行方不明になりました。
私は、暗闇の中を探して歩きました。
隣の牧場まで歩く途中、寒い中じっとしている親牛の目が、
懐中電灯の光に反射しました。
隣の牧場の知り合いは、そんなこと放っておけと言われました。
子牛の価値は低かったのでした。
その子牛は、私の知らぬ間に、麓に連れて行かれて売られたのでした。

3月になり、牧場も辞めて、大学に帰りました。
教授に詫びを入れ、復学しました。

その後も酒を飲みました。
田中小実昌という作家は、新宿裏通りのカウンターバーで、
輪ゴムを噛みながらウイスキーを飲むと聞きました。

今は、家で飲む酒も、時おり友人と飲む酒も同じように落ち着いています。
これからも医者に止められるまで、飲むでしょう。
時おり、自分の所業を振り返りながら飲むのです。

酒は裏切らない。酒に振り回されない飲み方をしたいと思います。

2015年2月26日
コメント
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