絵のタイトルは、「楽しかった」です。
落ち葉のようなものを描いています。
どう楽しかったのか思い出すことができません。
今日のテーマ「曖昧(あいまい)」に挑戦です。
曖昧とは、
はっきりしないこと、まぎらわしく、確かでないこと。
(広辞苑より)
「あとでね」と飲み屋の女将に言われたことがある。
密かに思いを寄せる女性の言葉である。
女将からの連絡を待ちながら、携帯電話を握りしめたまま、朝になっていた。
後に判ったことだが、「あと」とはこれから未来永劫のことらしい。
もっと言えば、「またね」ということらしい。
「あとでね」と耳元でささやかれて舞い上がるのが悪い。
積極的な意味として、「曖昧」を考えてみよう。
私は、感動を写真ではなくて絵にします。
絵にすることで、自分自身が感動は何処にあったのか確認します。
目なのか、口元なのか、全体的なバランスなのか自分なりに掴めるものです。
気になる部分から描きはじめ、広げていきます。
おのずと、全体像は画面からはみ出ています。
写真は、見たくないものまで写ってしまう。
人間の目は、見たいものを自然と抽出させるものです。
遠くに見える富士山が、やけにくっきり見えたように感じるのもその一つだと思います。
次に文章です。
私は、固有名詞や地域を特定する表現をあえて避けています。
最初は、迷惑をかけてはいけないという思いからでした。
歌の文句じゃないけれどと、歌詞を引き合いに出すことがあります。
これは自分の気持ちを例えとして表現するために使います。
歌詞に抱くイメージは人それぞれです。
歌の文句を引き合いに出すのは、逆効果のようですが、曖昧な気持ちを伝えるには良い試みです。
その人が感じる答えとなって、符に落ちることになります。
阿久悠の詩は、五感で感じさせるから浸透するのだとも言われます。
たぶん、具体的に事象を把握させようとしたのではないと考えます。
より情景を思い浮かべさせるために、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚に訴えて広げたのだと思います。
感じることを詩にしたらそうなったのかもしれません。
最後に人生です。
若い頃、岐路に立った。
迷わず道を選んだと言われる方は少ないと思います。
先のことなど判らない。つまりとても「曖昧」です。
転職を繰り返し、思ったことは次の言葉に集約されることに気づいたのは、10年くらい前のことです。
農業に科学技術を取り入れて、1000万円稼げる仕事にしたいと、大学の工学部の機械科を選択しました。
生涯を通して、「食」に関わる仕事をしたように思います。
農業の機械化、食品の加工技術、食品工場の全体最適、先を見据えた幅広い提案営業、
工場を作る側から運用する側でのエンジニアリング、そして今は「食」で地域を活性化しようとしています。
スタートは、とても曖昧なものでした。
幼い頃、信号もない瀬戸内の島で見たものは、世界に通じる海でした。
広々とした大地を感じるここでは、空が世界に通じている。宇宙にさえと感じます。
とても曖昧な人生です。
40歳を前にして転職したときは、「自分にはこれしかない」と覚悟しました。
60歳で出席した同窓会で見たものは、経年変化した同級生の多くの顔の中に、
一人だけ若くなっている女性の顔を見ました。
こんなに魅力的な人だったのかと思ったものです。
つまり、見ていなかった。
知らなかった。
気づこうとしなかった。
といろんな思いが錯綜しました。
長く生きていると、若い頃見えなかったものが見えてくるようになることがあります。
表面しか見ていなかった。
内面も見えるようになった。
だから人生は面白いとも言えます。
「曖昧」は、ネガティブな字面であり言葉です。
本人さえ気づかない脳の奥底に潜んでいる感覚なのかもしれない。
言葉では説明しきれない感覚です。
こうして見極めようと書いています。
少し違うんだけどな、と思いながら記録として残しています。
句読点にさえ、気を付けながら書いています。
私は、曖昧さこそ大切な感覚だと認識しています。
娘の花婿に、「娘のどこがよくて結婚したの」と尋ねました。
密かにこんな娘をよく選んだものだと思ったからです。
酔っぱらっていたので、「私なら選ばないな」と付け加えてしまいました。
大いに、娘に怒られました。
彼は、一生懸命娘の良いところを説明してくれました。
私は、これが気に入って結婚に賛成しました。
今日のテーマは、「曖昧」でした。
好きになり あばたもえくぼ お墓まで
2018年6月30日