楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

散歩に出て思うこと 12(女性は優柔不断の理由)

2004年01月23日 09時02分00秒 | つれづれなるままに考えること
(女性は優柔不断の理由)
トイレほど色んな言い方をする場所は少ない。日本語で便所、後架、
雪隠、お手洗い、化粧室、厠、など。外国語でトイレ、トイレット、
ラヴァトリー、レスト・ルーム、など。

昔、JRが日本国有鉄道といっていた時代、駅のトイレを管理する
部課があった。そこの課長さんは、トイレット課長、部長さんは
トイレット部長と呼んでいた。

そのトイレット部長が、駅のトイレについてかいたエッセイ風の
読み物、題して「トイレット部長」。
そのエッセイに、女子トイレが詰まって使用不能になることが多い。
その原因となるものは、なんと男子用のベルト類が、かなりの部分
を占める原因だという。

一体、女子トイレに男子が入るのか?女子が男子用ベルトをして、
それをどう間違うのか、トイレに流してしまうのか?
あるいは女子トイレに男女で入って、男子用のベルトはずして、
その後で、手が滑って落としてしまうのか?
いろいろ想像を逞しくして行くときりがない。
不思議なことが起きるものだと、結んであった。

さて、ボクがサラリーマンになって、係長になった。今では、
しゃれた名前でグループ・リーダー。確かに5-6名の一つの係の長であるから係長。
5-6名のグループのリーダーだからグループ・リーダー。
呼び名は変わっても役どころは同じなのだろう。

外交員、営業マン、セールス・マンにセールス・レディ、セールス・ウーマン、
そして営業担当員、営業、セールス・パーソンと
名前は変わっても中身は同じ。呼び名とは面白い。

どれも男女平等が強調されて、起きた呼び名。看護婦、看護士それが看護師。
女性の世界に男性が入り込んだ結果であるが、やはり看護師は女性に限る。
ナイチンゲールに始まり、マリア・テレサにいたるまで、看護師はナースで女性の仕事。
子供を育み、優しく育てる、その優しさは男性には無い。
腹を立ててもぶん殴るなんてことは、女性にはめったに無い。

脱線したが、係長、今ではグループ長(リーダー?)になって、
(文字が多いので係長でいこう)係長養成講座なるものを受けなければならない。
別名インストラクター養成講座。

グループの長になって、係員を上手に養成するための講座である。
缶詰になって一ヶ月受講するとインストラクターの資格を得る。
講座の内容は、業界の歴史、業界各社の研究、係長の立場、役割、
心構えなどの他に、スピーチが入っている。
三分間スピーチ、五分間、十分間、20分スピーチなどの練習。
上手にお話が出来ないと、係員を上手くある方向に引っ張っていけないからだろうか?
とにかくスピーチの練習が入っている。

題目も内容も自分で考え作ってしゃべる。わかりやすく説得力が必要で、
聞く人の興味をそそるような原稿の筋書きが要求される。

一番難しいのが、三分間スピーチ。

文章でもそうであるが、長い文章は、言いたい事を言うには説得力があるが、
読む人が飽きてしまう。
短い文章では、言いたいことを言い尽くせないことが多い。

Ocn Cafeの足跡のように限られた文字数の中では、言いたいことを要約するのに、
文字を最大限活用して、まとめようとするが、言葉足らずになって誤解を生むことが多くなる。
それを避ける意味で、ミニ・メールや掲示板があるようなものである。
その掲示板や、ミニ・メールでさえ言葉足らずに誤解を生み、
人を傷つけることさえある。話し言葉と書いた言葉の相違である。

話し言葉の中には、身振り手振り表情が入るから、冗談だとか皮肉だとか、
真面目に話しているとかよくわかるが、書いたものにはなかなか表情や身振り手振りが伝わらない。

とくに短い文章は難しい。詩、短歌、俳句、川柳などは難しい。

だから三分間スピーチも当然、難しい。

特に、昼食後の講座を受けている人たちが、退屈で居眠りを催す時間帯では、
話に脚光を浴びるのは難しい。
そこで、表題のトイレの話から、女性が優柔不断の理由について三分間スピーチをすることにした。

「世間では、女性は一般的に優柔不断であるといわれていますが、
どうしてか、皆さん考えたことがありますか?

それはトイレに原因があるのです。
オムツをしている時は、排泄の仕方は男女同じ。つまり男女平等なのです。

しかし、オムツが取れたときから変わってきます。

男子は、トイレに入るのに、大にするのか、小にするのか決めなければいけません。
一日のうち何度か、この決断に迫られるのです。
それが、毎日続きます。

ところが女子の場合はどうでしょう?

トイレに入るまでそんなこと考える必要がないのです。
お手洗いに入って、スカートをまくって、大にするか小にするか、
決断を下ろすのではなく、パンツを下ろせば(笑)ことは足りるのです。

それでも、まだ決断は必要としません。
いつでも、両方出来ます。

どちらでも好きな方で、出来るのです。
時には、小を実行しながら、やっぱり大も済ませておこう、と。(笑)

男子は毎日、何回となく決断に迫られ、小さい時から決断の訓練をします。

ところが、女子はその必要がありません。

だから優柔不断に慣れているのです。

長い歴史の中で、洋の東西に関わらず、この動作は繰り返されてきましたし、
今後も女子が大小のいずれにするか、決断に迫られることはないでしょう。

これが、女性は優柔不断といわれる所以です。」

さて皆さん、この論法おかしいですね?

どうしてか、お考え下さい。

でも、午後の眠い時間帯の三分間スピーチで、みんなの注目を浴びたことは言うまでもありません。



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散歩に出て思うこと 11 (カミさんのコンパス)

2004年01月22日 10時36分00秒 | つれづれなるままに考えること
(カミさんのコンパス)
カミさんはボクより身長は低く、ボクでさえ頭の上が良く見えるから、
ボクより少なくも10センチは身長が低いと思われる。

時々、ボクの散歩についてくる時があるが、ボクは結構早足で歩くのに、
カミさんは小走りに歩くでもなく、ボクと殆ど同じ速さで歩き、
ボクから遅れることは無いので、不思議に思っていた。

ある時、娘と三人で歩くことがあった。

靴紐が緩んで締めなおすのに少し遅れた娘が、ボクたちに追いついて、
笑った。

「父さんより、母さんの方が、腰の位置が高い」と。

確かにカミさんの腰の位置は高い。胸が終わるとすぐ腰で、胴が短い。
胴が短いから、きっと腸も短いに違いない。大体食べ物は、肉類が好きだ。
繊維質を消化しなくて済むから腸も短くて済む。
動物の進化の過程でそうなったのか、あるいは人種が違うのか、ボクには判らない。

菜食が好きなボクは、繊維質を消化しなければならないので、腸が長いのであろう。
あるいは腸が長いから、野菜類がすきなのかもしれない。
したがって当然のこととして胴も長い。
この両方の関係でカミさんの腰の位置が高いと
いうのは理解できる。

ところが、娘が言うには、二人並んでいて、ボクのほうが背は高いのに、
腰の位置がカミさんに比べて低いという。つまりボクは短足で胴長、
カミさんのほうが足は長いと、言うのだ。

散歩もほどほどにして、家に帰って測ることにした。
夫婦で、お互いのズボンを持ってきて、この二つを併せて寸法を調べれば
事は足りるのに、止せば良いのに、二人で履き比べることにした。

まず、カミさんがボクのズボンをはいてみる。大体女性はヒップが大きいことは解っていたが、
これほど差があるとは、思いもつかなかった。足首からつま先まで裾から出ているが、
カミさんの尻が入っていかない。
尻が入らないのに足が出ている。

次に、ボクがカミさんのズボンをはいてみた。当然お尻は問題なくすっぽり入ったが、
つま先が出てこない。つまりカミさんのズボンでは、
ズボンが5センチほど長く、ボクの足が出てこないばかりか、
かかとでズボンを踏んでしまう。
ボクが短足ということがはっきりした。

亭主の面子は全く無い。ボクは成長の時期に、サッカーをやっており、
背が延びる時期に、足の筋肉が強烈に鍛えられ、足が伸びるのを押さえてしまったのに相違ないと、
その場は言い逃れをしたが、実際のところそんな生理現象はあるのだろうか。

その所為かどうか知らないが、娘は子供にはサッカーなど絶対させないと
いっている。

以来、カミさんを散歩に連れて出るということが少なくなった。





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散歩に出て思うこと 3

2004年01月14日 09時32分00秒 | つれづれなるままに考えること

(96歳:叔母の才能)
前回96歳の叔母さんを見舞った話をした。この叔母が転んで大腿骨を折る大怪我をして、これまた運良く、自宅から100メートルほどのところに出来た老人ホームに入ることが出来た。

老人ホームに入ると、安心したのか三人の子供たちは、殆ど寄り付かなくなった。姪に当たる我が家のカミさんが、年に四回ほど、お墓参りのついでにと訪ねるのが、年寄りの叔母の楽しみの一つになった。

寂しいものである。

生活の場は、ベッドと簡単なテーブルと椅子2客、テレビを置く台に、小物を入れておく整理ダンスが置ける八畳ほどの部屋と、台所の二畳とトイレがある部屋に住んでおり、なかなか快適そうである。住人は車椅子の人もいるが、日常生活が一人で出来るのが条件で入所している。33室が満室で埋まっている。

病院の個室に入院しているようなもので、三食、電気、ガス、
水道代込みで、毎月の経費は15万円ほどという。年金で十分まかなえ小遣いもでると、当初はニコニコ顔で暮らしていた。物珍しさも手伝って、子供たち三人が、代わる代わる顔を見せたのは言うまでも無い。

時が経つにつれ、週に二回来ていた子供たちも、週一回になり、
二週に一回になり、月に一回も来ることは無くなった。
子供たちは自分たちの生活が優先するから、ある程度止むを得ないところもあるが、せめて週に一度でよいから電話でもしてやればよいのにと、門外漢のボクでさえ思う。

おだてられて、花の写真を撮ることに夢中になっていたボクが、
下手な写真を誰かに見せたくなって、考え付いたのが叔母さん。
ボクは電話をしても話が合わず、「元気?」くらいで話題が無い。
そこで叔母さんに、撮った写真を絵葉書にして送ることにした。

毎週一枚。

ところが叔母は若い頃、芸大に行かせてくれと、親にねだったほどの、美的感覚の持ち主。写真のはがきに季節の挨拶を入れて送ると
大変喜んでくれ、その返事に色鉛筆で官製はがきに四季の絵を書いた絵手紙を送ってきた。ボクの写真よりよほど上手である。
しかも叔母は元写真屋さんの娘であるから、写真のことはかなり詳しい。したがって、叔母の描くはがきより、美しい花の写真を撮ろうと懸命になり、だんだん力がついてきたように思う。

しかし週一枚の写真を撮るのは並み大抵ではない。何でもよければいくらでも撮れるが、花の写真を送るとその写真について、
必ず感想が添えられているのだ。自分ではあまり出来栄えがよくないと思って「やや不満ですがお送りします」などと、書き込もうなら、
返事に「左一センチほどを切り取るようにトリミングすれば、
この写真も見られるようになりますよ」と返事が来る。

先日、訪ねた時は、色紙にちぎり絵を描いた、チューリップ、
葡萄棚、椿、ユリ、トケイソウ、などなど見せてもらったが、
実に見事(プロになれるか?と思うほど)でとてもボクなどの写真の比ではない。

しかし、ボクの写真を見て、季節を感じ、批評を下して、食事の時などに、時には写真を見せて、写真談義に花咲かせて、時間の過ぎるのを紛らして、叔母の長生きを、少しでも手助けになれば本望である。



美しく老いたいと思う!

老いへの道を手探り、訪ねるが、きっと見本は見つからないだろう!

人の人生がそれぞれ同じでないように、この道も一つとして同じものは

ないだろう!





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散歩に出て思うこと 2

2004年01月13日 19時15分00秒 | つれづれなるままに考えること
美しく老いたいと思う!

老いへの道を手探り、訪ねるが、きっと見本は見つからないだろう!

人の人生がそれぞれ同じでないように、この道も一つとして同じものは

ないだろう!


(年寄りの会話)
最近どこへ出ても、年寄りの会話行動が気になる。いずれ我が身と
思って、やっては不快に思われることなどに、気をつけようと思うからだろうか?

電車に乗っても、まだ席を譲られたこともないが、自分勝手な強がりで、空いていても椅子に腰を下ろすことは無い。

ある時、相当なお婆ちゃんの手を引いて、急いで電車の乗ってきたやや若い婆ちゃんがいた。

「間に合ってよかったでしょう!」
「いえ、私はこの次の電車に乗るつもりで家を出てきましたので、
急がなくとも良いのですよ」
「そこが空いているからお掛けになったら」と椅子を指差した。
そうしたら、空いた席の一人置いてとなりの方が、二人とも座れるように気を利かせて席を譲った。真ん中に若者を一人挟んで座ることになるので、その若者も席を譲り、結局三人分の席が空いた。そこへ二人が座ったのであるが、三人座れないほどにどっかと二人で陣取ってしまった。

その車両には、立っている人はボクと席を譲った若者二人だけ。
大きな声でお節介を焼く、若い婆ちゃんのやり取りや行動を、車内の全員が注目している。若い婆ちゃんが降りる駅に来た。

「着きましたよ!降りる用意をして!」と急かして言う。
年配の婆ちゃん落ち着いていわく
「私は次の駅です!」
「あら、そうだったわね!」と急いで降りていった。

やり取りを聞いていると、どうやら年配の婆ちゃんのほうが、冷静で間違いがなさそう。お節介も程々にしないと、自分が若いから自分の方が正しいと決めて掛かると、こんな結果になりかねない。

いつか自分の番がやってきそうだ。



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散歩に出て思うこと

2004年01月12日 20時51分00秒 | つれづれなるままに考えること
美しく老いたいと思う!

老いへの道を手探り、訪ねるが、きっと見本は見つからないだろう!

人の人生がそれぞれ同じでないように、この道も一つとして同じものは

ないだろう!


(陽だまりの公園)
毎日欠かさぬ散歩があるが、飽きないように五通りほど
コースを作ってある。一番好きなコースは、荒川土手を行くコース。

二番目に好きなコースは、
真ん中に池があり、周りに湧き水が流れる崖が在り、滑り台やブランコで子供が遊べる遊戯具おかれている公園までの2キロを経由し、日曜寺という奇妙な名前の真言宗のお寺の前を抜け、旧中仙道の宿駅から、新撰組の近藤勇の墓のある駅までの3キロを経由して、石神井川を下って帰る4キロ、合計約9キロのコース。

月曜日以外は池で釣りが出来るこの公園では、子供たちが寒さもいとわず、水と泥に手を入れて泥団子を作っていたり、魚などいそうも無いせせらぎに玉網を入れて砂利や草を掬い上げたり、結構楽しそうに遊んでいる。

子供だけでなく、池の周りにはヘラ鮒目当ての本格的な釣り人が
竿を垂れ、遊び半分の爺ちゃんが、小さな竿を下ろして、小魚釣りに興じている。そこへ暇な爺ちゃんが集まってきて釣れ具合を一緒になって眺めている。

池の中央に小島があって、毎年のことであるがカルガモがここで卵を温める。もう大人になった、およそ50羽はいると思われるカルガモが、池の周りの散歩を楽しむ人を追いかけて、餌にありつけるのではないかと、池の中を急いで泳ぐ。

池のほとりには、縁台のようなベンチがしつらえてあり、陽だまりに将棋をさすお年寄り、そこにも岡目八目の高齢者が群がっている。
違うベンチには、一人では歩くこともままならない年寄りが、介添人二人を従え、日向ぼっこを楽しんでいる。

風が無く青空が見える日には、冬の陽だまりを、どうしてこんなに沢山年寄りが集まっているのだろうと、公園の辺りを見渡したら、公園の南側にシニア・ケア・センターがあることが判った。

昨年暮れに、一人で老人ホームにいる叔母を見舞った。四年ほど前の夜に、廊下で滑って転んで、大腿骨を骨折し、添え木をし、それをボルト・ナットで固定して、リハビリの末やっと歩けるようになったが、一人で生活するのはもはや危険と医師に宣言されて、やっと老人ホームに入った叔母は、今年96歳になる。

世間話のついでに、「僕も年寄りになったせいか、夜中によく目が覚める」と話したら、「それで年寄りのつもりでいるの?」と冷やかされた。確かに96歳の叔母から見れば、三十年ほど開きがあるから、ボクは鼻垂れ小僧なのであろうが、世間では十分年寄りと認めている。

最近こうした年寄りを見ると、いずれ我が身と思い、なにかが見本になるだろうと、注意して眺めるようになった。
寄る年並みになったのであろうか?






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