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(「五百らかん」の石碑)
(彦根インターの出口と入り口の高架)
(鳥居本宿)
原八幡神社をあとに中山道を進む。
高速道路の彦根インターチェンジ入り口と出口の高架下をくぐる様になっているが、
その手前に彦根方面へ右折する道路がある。
その右向こう角に「中山道 原町」の石碑があり、
植え込みの中に「五百らかん」の石碑がある。
地図には彦根駅まで30分と記されており、
「五百らかん」のある天寧寺はその中間にあるから、
15分くらいで行けるだろうと訪ねることにする。
(天寧寺のらかん堂)
(らかん石庭から彦根城が見える)
天寧寺によれば、
(天寧寺は、井伊直弼の父である直中公が、
自分の過失で手打ちにした腰元と初孫の菩提を弔うため建立した。
文政二年(1819)の春、
男子禁制の槻御殿(現在の楽々園)で大椿事が持ち上がった。
奥勤めの腰元若竹が、お子を宿しているらしいという風評が広まり、
それが藩主の耳にも届いたのである。
大奥の取締りのためにも相手の名を詰問したが、
口を閉ざして相手を明かさない。
遂には付議はお家のご法度であるという掟により、
御手打ちということになった。
後になって若竹の相手が長男直清であったということが明らかになり、
直中公も知らぬこととは言え、
若竹と腹の子(初孫)を葬ったことに心痛め、
追善供養のため京都の大仏師駒井朝運に命じて、
五百羅漢を彫らしめ安置された。)とある。
(らかん堂内部)
(五百らかんさま)
(五百らかんさま2)
(五百らかんさま3)
(五百番のらかんさま)
(第七番のらかんさま)
(第一番のらかんさま)
その木像の五百羅漢は羅漢堂に安置され、
それは見事で圧倒される雰囲気にある。
なお、天寧寺は高台に位置して彦根城を見ることも出来、
井伊家の別荘としてよく利用されたとのことであるという。(天寧寺談)
また、後に桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もある。
(井伊直弼の供養塔、血染めの遺品が祀ってある)
(彦根城)
話が変わるが、
以前、桜田門から皇居内を見学したことがあるが、
その時、ガイド役の知人に
「井伊直弼はどこで暗殺されたのですか?」と聞くと、
桜田門のお堀の上を指差して、
「ここで暗殺された。井伊直弼が屋敷を出たと、
愛宕山から連絡があった。」と言った。
ボクは暗殺された場所について興味はあっただけなのだが、
「井伊直弼が屋敷を出たのを、愛宕山から連絡があった。」
と余計なことを言ったばかりに、
ボクの疑問がもくもくと湧いてきた。
(愛宕神社、鳥居の後ろに階段がある)
(講談では40段といわれた階段、寛永三馬術の曲垣平九郎が馬で登ったことで有名)
(今も山上の愛宕神社前にある曲垣平九郎と馬ー記念写真用)
(平九郎が手折った将軍献上の梅ノ木)
(桜田烈士愛宕山遺跡の碑ー井伊大老襲撃の水戸浪士が集合した所)
そもそも井伊直弼の屋敷は、昔の地図を見ると、
桜田門から300メートルと離れていない所にあったはずである。
お堀端に待ち伏せしていた刺客に、
愛宕山からどんなに早い伝令を飛ばしても、
1500メートル以上はなれた山の上から見ていて、
井伊直弼の行列が出発したのは見えるかもしれないが、
井伊直弼が桜田門に到着するより早く、
お堀端の刺客に伝令で伝えることは出来ないはずである。
しかも当日は雪が積っていた。
(外桜田門)
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(桜田門と井伊直弼の屋敷の地図と距離)
知人のガイド役は話を面白くするために、そう言っただけかもしれない。
でもボクは疑問を持つと、実際に調べてみることにしている。
念のため、後日愛宕山に行き、
水戸浪士が集まった場所があったので、
そこから可能な限りの速足で桜田門まで歩いた。
井伊直弼の行列の速度の3倍の速さで愛宕山から歩いて、
いや、走っても、桜田門に到着するのは同時で、
4~5倍の速さで走って伝令が伝えなければ、
刺客たちはタスキをし、袴の股立ちをとって、
鉢巻を締める準備は不可能であることが判った。
(井伊直弼の屋敷址と加藤清正が作った井戸)
(屋敷址の碑)
(屋敷址は写真上、国会議事堂の手前右側)
何よりも刺客たちに伝令など不要であったに違いない。
桜田門には当時、どの紋はどこの御家中か、
判るように鳥居家、大岡家などなど、
家紋と大名の一覧表が売り出されており、
庶民はそのガイドブックを片手に、
お堀端に見物に来ていたらしいので、
刺客たちはそうした群衆にまぎれて、
まんまと待機できたようである。
それにしても「愛宕山から知らせがあった」と漏らした知人の言葉は、
不用意であったことは間違いない。
(外桜田門から入って内桜田門へ直角に右折)
(外桜田門から右へ鉤の手で曲がった内桜田門)
(桜田門前の法務省の古い建物)
(皇居前のお堀に写るイチョウの紅葉)