楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

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夫に先立たれた姉への手紙

2004年01月26日 10時14分00秒 | つれづれなるままに考えること
(姉はクリスチャン・ネームをマリア・テレジアといい、
敬虔なクリスチャンです。一部以前 Ocn Cafeに
述べましたことと重複しますがお許しください。)

夫に先立たれた姉への手紙

寒さが本格的になり、冬本番となりました。
先日のお通夜、告別式では、心身ともにお疲れになったことでしょう。
夫婦の別れがどんなものか計り知れませんが、
その後如何お暮らしでしょうか?

さて、私は今、藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」を読んでいます。
冒頭で清左衛門なる主人公が残日録とは、

「日残りて昏るるにいまだ遠しの意味で、
残る日を数えようという意味ではない」と語っています。

人生やるべきことをやって隠居したが、
残された人生、まだまだ終わらないぞ。と語っています。

人生如何に行くべきかについて、語ったものです。

そもそも文学というものは「人生いかにあるべきか」を
探求する学問ですが、ことに感銘深いのは、
この物語の冒頭にある

「人生の日数は残っており、日が暮れるのには(一生を終わるのには)、まだ早い」

明日もあさってもあるぞ、そしてまだ先は長いぞ、
だから精一杯生きよう。という気概を感ずることです。

このようにして文学は人生を突き詰めて考えることから始まります。
へミングウエイの「老人と海」の物語のように、悪戦苦闘して大魚を捕らえても、
この大魚を港に運ぶまでに、鮫に食われて骨だけになってしまう―――
つまり「何をしても何も残らない」あるいは
「人はどんなに あがいても 神の立場からみれば 何かをどうかする」などと
言うことは出来ない。という結論に達していきます。

大宇宙のかなた(神)から見れば、地球は一個の小さな惑星であり、
地球上の人間はさらに小さなものであることは事実です。
神の立場から見れば「人はどんなに あがいても 何もしてない」
ことになります。だからキリスト教では「全ては 神の御心のままに」
お任せしておけば良い、ということになります。

話をもっと解りやすくすると、人間の世界で「蟻に何かをさせても、
何もしていない」ように見えるのと同じことです。

ところが仏教の世界では、もともと儒教の「人事を尽くして
天命を待つ」思想が強く、極楽往生するには(天国へ行くは)、
仏の道を修行しなければならない(禅宗)と言う事になっています。

しかし、それでは誰も(一部の有能で体力のある人以外は)極楽往生すること出来ない。
「そんなはずは無い。仏はそんなに無慈悲ではない」と法然上人は考えた。
仏の慈悲に縋って、ただただ「南無阿弥陀仏」を唱え参らせれば、
極楽往生できる、としたのが浄土宗です。

いやいや「南無阿弥陀仏」を唱える気持ちが起きた時は、
すでに仏の慈悲に縋っているのだから「何もしなくてよろしい」と親鸞は説いています。
では「なぜ念仏を唱えるのですか?」の問いに対して
「極楽往生させていただけるそうですが、有難いことです」
のお礼のためです。と答えています。(浄土真宗)

こんな勉強をして、さらに勉強を深めれば充実した一生を
過ごすことが出来るものと確信しております。

先だって、定年退職のお知らせの中に「今後は心静かにすごしていきたい」
と書きましたのは、こんな意味を含んでいました。

お互い今後の寿命を図り知ることは出来ませんが、悔いなく、
それこそ「心静かに過ごしたい」ものです。

取り留めのないことを書きましたが、先だってのお通夜の和尚さんの
説教と今読んでいる本を思い出しペンを執りました。

では、今後とも、心を落とすことなくお元気にお過ごしください。




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