母は、昨年の桜の季節に亡くなりました。
とても元気な人で、まさかこんな状態で見つかるとは・・・というような状態で病気が見つかり、
闘病しましたが、一年も経たないうちに旅立っていきました。
東日本大震災と同じ年に、震災後ほどなくして起こった母の病気の発見は我が家の激震でした。
知り合いの方からは「お医者さんの娘さんで心強かったと思うわよ」と言われましたが、
大したことはできませんでした。
医師と患者の距離を近くしたいという気持ちで、いろんなことを医療講座で言ってきましたが、
実際に患者の立場になると、やはりむつかしい面もあるのだなとわかりました。
総合病院の電子化はいい面もあるけれど、やはり、患者との距離は離れる部分もあると感じました。
医療の力よりも、看護の力をより感じる闘病でした。
母は、驚き、哀しみ、受け入れ、頑張ってくれました。
そして、自分の望み、「誰にも迷惑をかけたくない。心配をかけたくない」という望みをみごとなまでに貫き通しました。
発病のことも近い親戚や友人にも打ち明けないままで、家族だけに見守られ、静かになくなりました。
何度もそれでいいの?と聞いたのだけれど、一貫していて揺るがない態度でした。
家で一週間ほど過ごして、やはり痛みが強く入院をとなった時に、
もう助からないなと頭で理解していたので、母の望みだけは叶えたいと思いました。
日頃からいっていた「延命治療はいや」という意思のことです。
痛みどめの点滴で意識も落ちていて、なんとか快適に、なるべく傍に、と家族がかわるがわるそばに行きました。
意識のある間は、「こんなに来なくていい。つかれたでしょう?ここに寝なさい。早く帰りなさい」と自分のベッドに寝かそうとしてくれました。
いつまでも、私は、母にとっては心配をかける娘でした。
自分が病気になっても、死ぬときが近づいていても、です。
母からは多くのものを教わりもらいましたが、最後まで、何かしてあげようという気持ちを家族に持ち続けた人でした。
当然のように父よりも長生きだろうとか、老後はいっぱい旅行に連れてってあげようとか、そんなことを漠然とかんがえていたのですけれど、
そんなこともできなくなり、人生の初めと終わりは自分で決められないことなんだなとよくわかりました。
いつ、どんな形で、死を迎えるか。
医療的なことで決められる部分もあるけれど、絶対決められない部分もある・・・
私は三姉妹で、三人ともとても哀しみましたが、母の死を受け入れることして覚悟する時間を母はくれたように思います。
亡くなる日の表情があまりに疲れていて、心で「もういいよ」と思わずつぶやきました。
その日に、父と三姉妹の四人に見守られて静かに病院で亡くなりました。
私が医師として立ち会ったことのあるどの子の最期よりも静かでした。
モニターだけはつけてましたが、医療者はその場に一人もいなかったのです。
母がこの世にいなくなる瞬間、家族だけでみおくりました。
母が亡くなった日は去年の桜の満開の日でした。
病気の発見から、家族で走り続けて・・・何ができたということもなく、徐々に悪くなり、QOLの改善もほとんどないままでした。
それでもそれを受け入れ、できることを頑張り、最後まで、自分の意思を貫いた母を見て・・・
三人とも、「しっかり生きていこうね」と思えました。
子どもを育てることも、仕事も、母のように一生懸命しようと思いました。
といって、立派な母親だったのかというと、どうなんだろうかとも思うけれど、
おちゃめで、おしゃれで、おしゃべりで、おおざっぱで、そこつものでかわいかったです。
人をおもてなしすることと料理が上手、掃除はちょっと苦手。
友人も多くて、一年後の今も母を偲んでくださってのお手紙やお花などいっぱいいただきました。
子どものときは厳しかったし、手をあげられたこともしょっちゅうでした。
(幼稚園のころか、小学生低学年のころか、言うことを聞かなくて寒空に外に出されたことがあって、
星空見上げて「私の本当のママはどこにいるの?」と思ったことがありますもん。おかしいでしょう?)
でも、愛情はあふれるほどだった、楽しい母でした。
懸命に三人を育ててくれました。
亡くなった後に、もっともっと悲しいのか、何も手につかなくなるのではと思っていたら、まったくそんなことなかったのが自分でも不思議です。
「しっかりね」といつも母に言われ、いつも応援してもらっている気持ちになれたからです。
半分は母なんだ、いつも一緒にいるんだと思うことができたのです。
そして、生きることが許されている間は、頑張れることを頑張ろう、自分のためにも人のためにもできることをしよう。
死ぬ日には、母が迎えにきてくれる。
そのときによく頑張ったねと褒めてもらえるように生きていこうと思っています。
私にも仕事でプレッシャーがかかる局面があります。
(お気楽に好きな仕事だけをしてるように見えるかもしれませんけど、ときにはね)
そういうとき・・・母に向かって言ってます。
「あーちゃん、見ててね」と。
(「あーちゃん」というのは、「おばあちゃん」なんて言わせないわよ!と孫たちに要求した呼び方です。)
そう呼びかけると、自分にできることを心をこめてすればいいんだ、と落ち着きます。
親の役目って、こういうことなんだな・・・と近頃思います。
今まで、子どもに恥ずかしくない生き方をしたいとずっと思ってきましたけれど、
今は、亡くなった母に恥ずかしくない、堂々とできる、しっかり生きてきたと言い切れる生き方をしたいと思っています。
自分が亡くなった後も、その子の励みになれる、そんな親の役目があるとわかりました。
母がそのように育ててくれたので、今の私には、この世にはいない母の存在が大きな励みになっています。
それは、どんな育て方かとか、○○式とか、そんなくくりには入らない部分だと思います。
どんなやり方でも、その親子それぞれでいいのだと思います。
やり方、マニュアルにとらわれないで、それを自分で上手に利用すればいいのでしょうね。
いいとこどり、ということを忘れないといいのかな。
母はよく言ってました。「愛情が通じていれば大丈夫なのよ」と。
元気に頑張ります。
こころから笑顔でいられるようにしたいなと思います。
笑顔でいられる、幸せでいる、これが親孝行でもあり子孝行でもあるということなんですね。
(この言葉は、最近、医師として母としての人生の先輩に教わりました)
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