なぜ「日本書紀」は古代史を偽装したのか? という本を読んで眠くなり、再び読み返しと年末から続いています。
古代史は、文字が一般に普及していない時代のことですから、時の権力者に都合の言いように解釈され、あるいは消し去られて来ている事が多いものです。弥生時代の後期からヤマト政権ができ律令国家体制が整うまでの「正史」といえるものは、日本書紀しかありません。また、日本に残るその他の史料は藤原氏などの家に伝わるものごくわずかなものです。
天武天皇が編纂を命じた日本書紀は、天武天皇死後、藤原不比等が右大臣として事実上ヤマト政権を牛耳っていた時に刊行されたもので、神話の時代から七世紀後半までを記しています。
この書は、誰のために何のために書かれたのかが、テーマの本でかなり面白いです。かなりややこしいのですが、私の整理のために書いてみると・・・(適当にお付き合いしてください)
・神武天皇から9代目までは実在ではない?
・第10代祟神天皇(ハツクニシラス天皇)から3~4世紀に実在?
・「祟り神」と名がつく天皇の不思議
・神武天皇、応神天皇、崇神天皇 神と名づく天皇と天武天皇の関係
・日本書紀は第40代天武天皇の正統性のために書かれたといわれているが?
・天武天皇(大海人皇子)と天智天皇は弟兄の関係だが、反目しあっていた。
天智天皇の後継となる大友皇子と大海人皇子の争いが壬申の乱。勝って天武天皇 となった。
・天智天皇の側近中臣鎌足(のちの藤原)の蜜月関係
・天武天皇の妻は持統天皇 なんと、持統は天智天皇の娘!
・天武がなくなった後に、持統天皇は鎌足の息子・藤原不比等と蜜月関係となった!
・ところが、持統・天武天皇は仲がいい連れ合いであったと書かれている。
・出雲王権は当時存在していた。ヤマトと出雲の関係は?
・不比等に滅亡された蘇我氏は出雲と関係が深かった・・・
・第41代持統天皇が天武と別の男性(大友皇子・弟?)との間に作った子どもがいたのに、孫に42代文武を継がせた (天孫降臨の神話と同じ)
・さらに文武の父母は持統が産んでいる?
・そして、文武天皇は藤原不比等の娘を嫁がせ、聖武天皇を産んだ。
もういいですね・・・わかりにくくて、だから何度も読み返して進まないのです。
この当時の天武、天智、持統時代の姻戚関係はかなり複雑なのです。かなり骨肉の争いがあったようです。
簡単に言えば、日本書紀は、天武天皇が編纂させた功績となっているが、実は藤原不比等と持統天皇がしくみ、天智系王朝と藤原の永劫を計ったということになります。 しかし、聖武天皇は、そのどろどろとした関係性に気づいたのですが、けっこくのところ、その後々は、天智系の天皇が続いているというのです。
あの東大寺を作ったのが聖武天皇なんですよ・・。 あんな大きな寺で、なぜあんな凄い「お水取り」の祈りをするのか、何の成仏を祈ったのか・・わかるような気がしました。
出雲の神で有名なのは、スサノウノミコト、ス・砂は「鉄」を表す発音だそうです。あのヤマタノオロチを退治した剣は、スサノウノミコトが使ったんですね。古代史では鉄を誰が抑えていたかが重要で、この当時のヤマトへの鉄の供給と出雲は大いに関係があるようです。 ヤマトに鉄が来るための海路、瀬戸内海の出入り口、関門海峡が北九州人に封鎖されていた可能性があるのです。だから、ヤマトは日本海にルート求めた。
しかし、それでもなぜ日本書紀は時の権力者に破棄されなかったか? それは、どちらの系統にも受け入れられるような神話性を取り入れてしまった・・・・
持統天皇の生き様そのものが、天孫降臨の神話そのまま。つまり天照大神なんですね・・・
うーん、古代史はおもしろい・・はまりそうだけど、カミガミの名前が覚えられん・・。
古代史は、文字が一般に普及していない時代のことですから、時の権力者に都合の言いように解釈され、あるいは消し去られて来ている事が多いものです。弥生時代の後期からヤマト政権ができ律令国家体制が整うまでの「正史」といえるものは、日本書紀しかありません。また、日本に残るその他の史料は藤原氏などの家に伝わるものごくわずかなものです。
天武天皇が編纂を命じた日本書紀は、天武天皇死後、藤原不比等が右大臣として事実上ヤマト政権を牛耳っていた時に刊行されたもので、神話の時代から七世紀後半までを記しています。
この書は、誰のために何のために書かれたのかが、テーマの本でかなり面白いです。かなりややこしいのですが、私の整理のために書いてみると・・・(適当にお付き合いしてください)
・神武天皇から9代目までは実在ではない?
・第10代祟神天皇(ハツクニシラス天皇)から3~4世紀に実在?
・「祟り神」と名がつく天皇の不思議
・神武天皇、応神天皇、崇神天皇 神と名づく天皇と天武天皇の関係
・日本書紀は第40代天武天皇の正統性のために書かれたといわれているが?
・天武天皇(大海人皇子)と天智天皇は弟兄の関係だが、反目しあっていた。
天智天皇の後継となる大友皇子と大海人皇子の争いが壬申の乱。勝って天武天皇 となった。
・天智天皇の側近中臣鎌足(のちの藤原)の蜜月関係
・天武天皇の妻は持統天皇 なんと、持統は天智天皇の娘!
・天武がなくなった後に、持統天皇は鎌足の息子・藤原不比等と蜜月関係となった!
・ところが、持統・天武天皇は仲がいい連れ合いであったと書かれている。
・出雲王権は当時存在していた。ヤマトと出雲の関係は?
・不比等に滅亡された蘇我氏は出雲と関係が深かった・・・
・第41代持統天皇が天武と別の男性(大友皇子・弟?)との間に作った子どもがいたのに、孫に42代文武を継がせた (天孫降臨の神話と同じ)
・さらに文武の父母は持統が産んでいる?
・そして、文武天皇は藤原不比等の娘を嫁がせ、聖武天皇を産んだ。
もういいですね・・・わかりにくくて、だから何度も読み返して進まないのです。
この当時の天武、天智、持統時代の姻戚関係はかなり複雑なのです。かなり骨肉の争いがあったようです。
簡単に言えば、日本書紀は、天武天皇が編纂させた功績となっているが、実は藤原不比等と持統天皇がしくみ、天智系王朝と藤原の永劫を計ったということになります。 しかし、聖武天皇は、そのどろどろとした関係性に気づいたのですが、けっこくのところ、その後々は、天智系の天皇が続いているというのです。
あの東大寺を作ったのが聖武天皇なんですよ・・。 あんな大きな寺で、なぜあんな凄い「お水取り」の祈りをするのか、何の成仏を祈ったのか・・わかるような気がしました。
出雲の神で有名なのは、スサノウノミコト、ス・砂は「鉄」を表す発音だそうです。あのヤマタノオロチを退治した剣は、スサノウノミコトが使ったんですね。古代史では鉄を誰が抑えていたかが重要で、この当時のヤマトへの鉄の供給と出雲は大いに関係があるようです。 ヤマトに鉄が来るための海路、瀬戸内海の出入り口、関門海峡が北九州人に封鎖されていた可能性があるのです。だから、ヤマトは日本海にルート求めた。
しかし、それでもなぜ日本書紀は時の権力者に破棄されなかったか? それは、どちらの系統にも受け入れられるような神話性を取り入れてしまった・・・・
持統天皇の生き様そのものが、天孫降臨の神話そのまま。つまり天照大神なんですね・・・
うーん、古代史はおもしろい・・はまりそうだけど、カミガミの名前が覚えられん・・。
拳10個分の長さでした
ヤマタノオロチの8本の首を撥ねたあと
胴体を切ったところ、その剣が折れて
中から出てきたのが八柄の剣でした
私は、十柄の剣は青銅製、八柄の剣は鉄製ではなかったと
思っています。
この剣は、ヤマトタケルの尊が焼き討ちにあったとき
周囲の草を切り払ったので
草薙の剣という名前になり
壇ノ浦の合戦のとき、平時子が抱いたまま海に沈んだので
今はありません
ということらしいです
にしても、たたら製鉄は九州の豪族の王(首長)たちが制していたらしく、それがヤマト(畿内)の王へ瀬戸内海を経由して輸送されていた。しかし、北九州が関門海峡を封鎖、あるいは海賊の仕業か?で輸送路が途絶えた。
そこへ出雲が登場するのです。出雲には砂鉄を意味する言葉が多く、スサノウノミコトは「鉄の神」という意味があるらしいのです。出雲とヤマトの関係は良かったらしく、ヤマト朝廷の形成には出雲が実は深くかかわっている。すなわち鉄の供給。
3世紀に卑弥呼が登場
10代祟神天皇には、のちの蘇我氏につながる武内氏が側近
その後4,5世紀はまだまだ国家という構造はなく
6世紀後半になり蘇我氏が台頭します。
そして、593年 聖徳太子が現れ古代国家の形成が始まるわけです。
そして、蘇我氏滅亡、大化の改新が645年。中臣鎌足(藤原)の登場です。
ヤマト朝廷初期に権力をもった蘇我氏は馬子、蝦夷、入鹿などを輩出していますが、現在の日本の歴史上では、日本書紀の記述を根拠に「悪者扱い」になっていますが、実は蘇我氏は出雲と関係が深いらしいのです。
藤原不比等が蘇我氏を滅亡させたわけは、朝廷の乗っ取り。日本書紀を事実上編纂した不比等は、この出雲のことをほとんど記述させていない。そして蘇我氏を悪人にしている。
藤原不比等は百済王の流れをくむとの説もあります。天智天皇時代はヤマトは百済に味方して唐と新羅に戦争を挑み負けましたが(白村江の戦い)、不比等の父・中臣鎌足が天智天皇の側近としているんですね。
天智の息子(大友皇子)と天智の弟(大海人皇子・天武天皇)の争い壬申の乱は、蘇我氏(つまり出雲が味方)についた大海人皇子が勝ち天武天皇が誕生したのです。
しかし、天武没後に天智の娘であり天武の妻である持統天皇が再び藤原氏と組んで権力をにぎったのです・・・。
(またまたわかりにくい・・適当にお付き合いください)
つまり、日本の国家形成には、蘇我氏・出雲・新羅が強く影響があったとの説が、出雲の存在が神話の世界だけでなかったとわかって来たので突如有力になりつつあるのです。
しかし、藤原(百済系)が、その史実?を日本書紀で曲げてしまった。
この事実を第45代聖武天皇が気付いた(妻は不比等の娘しかし、不比等の娘は出雲に姻戚筋があった?) この陰惨な過去を供養するために東大寺を建立した?
しかし・・・、持統系の天皇は聖武の子供たち時代で終り、第49代に天智天皇の末皇子の系統の光仁が即位、その子の第50代桓武天皇が、以来ずーっとこんにちまで、結局、天智系の天皇が続いているのです。
消すに消されない史実の歪曲が日本書紀にはあるというわけです。