高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

アリューシャン列島

2024-03-08 17:10:37 | 日記

このところ、戦記ものの小説を読んでいます。義和団事件、世界史の中で受験のために覚えただけで実際に何があったのかは知らなかった。 日本やヨーロッパ諸国をはじめとする列強国が北京に租借地をつくり清国に進出していた時代に農民民衆が放棄し各国大使館がある地域を包囲し終盤は清国正規軍も敵対する大々的戦闘が生じた。 その中で日本軍の指揮官が大活躍をして、各国軍を統制し、清国のキリスト教徒も含めた多くの人々を救ったのを知った。 そして、第二次世界大戦終盤にはアリューシャン列島各地の軍隊を投入していた日本軍は(アリューシャン列島沿いに前進基地を造り占領をして行った、北からアメリカを攻めるような戦略だったらしい)。

' ミッドウェイ大海戦で大敗し、有名な硫黄島の戦いでも日本軍はアメリカ連合国軍の大物量展開で島の形が変わったほどの砲撃を受け、米軍上陸の大戦闘の末に多くの軍人がタヒに大敗北をした。日本軍は最後まで自決をするように「万歳突撃」を敢行し「玉砕」を続けた。特攻作戦も「死」を持って航空機、潜水艦で実行された。 これは軍人だけでなく、国民全ての観念であり、一億国民全員が戦闘員になり得ると考えたアメリカ軍は日本各地への大空襲により日本人を絶滅させるような作戦を展開することになった。 日本人そのものを恐れ、それが原爆投下につながり、占領政策も日本人国民が死をも恐れないゲリラ活動を展開するのではないかとアメリカ軍は考え、厳しい統治を実は考えていたらしい。

ところが、終戦間際にアリューシャン列島のキスカ島に取り残され、アメリカ軍に徹底的に砲撃を受けても耐え忍んでいた陸海軍の将兵が5000人もいたのだった。 彼らを玉砕させるかいなか、大本営は実は多いに逡巡していた。 その中にあって、なんと将兵の救出作戦が行われたのであった。もう戦艦も少なくなった海軍は総力をあげて艦隊を組織し陸軍とも協力してアリューシャン列島に向かったのであった。 日本軍の作戦はレーダなどでの傍受で連合軍には筒抜けであった。 当然にアメリカ軍もその海域に艦隊を集結させた。

その無謀とも思える作戦の立ち上がった司令官がいたのだった。 気象予測もまだまだ脆弱な時代に、少なくなった燃料、哨戒機を飛ばし高層の大気圧等を測定し、平面だけでなく高低の気象条件を測定し、霧の発生を予報する技術を編み出し、複数日が海上が霧に包まれる日を予想し作戦は結構された(この技術は米国ではまだ未熟であったらしい)。

米艦隊が包囲する中、海岸の大岩にわざと艦砲攻撃し日本戦艦がいるように陽動したり、島との電信連絡に暗号とひら連絡を交えて敵を惑わせる。接岸地へわざと遠回りするなどさまざまな作戦を展開し、見事に5000人もの撤退作戦を成功させたのである。

この事実はのちにアメリカ軍の通訳兵によって報告され、それはマッカサーまであがったそうだ。このことは、悪魔のような日本人観をもっていたアメリカ人を驚かせ、日本人はアメリカ人と同じように仲間を助けることをする人種だと観念を変えさせ、占領政策は平和りに行われる結果になったそうだ。

義和団事件にしろ、このキスカ救出作戦ことなど歴史では習わなかったよな。とても優れた日本人がいたのだ。

それにしても、アリューシャン列島はどこにあるか、実は知らなかったのですが・・、調べてみると随分と北太平洋の外側であり、とてもびっくりとしました。 太平洋戦争では南はニューギニアから北はアリューシャンまで戦争していたなんて、そもそもまったく勝ち目などなかったんじゃあないかとあらためて思いました。

アリューシャン列島の地図をはっておきますね。

 

  

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雪崩の経験

2024-03-08 12:17:15 | 日記

北海道で雪崩事故が相次ぎました。 利尻島ではスキーでバックカントリーをしていたパーティでした。つまり山スキーです。

私も利尻登山で雪崩にあったことがあります。 あれは三月だったかな。コースは鴛泊コースの往復だっただろうか。登頂したのだったかな。 登頂手前の長官山付近で宿泊して撤退する時で、登頂はしなかったかもしれない(記憶曖昧)

積雪期で日帰りが無理なので、稜線上で1泊する行程計画だった。森林限界は低く、尾根は細いので雪洞を作ることもできないので、尾根筋にテントを張るしかない。設営した夕刻は曇り空ながらも穏やかであった。

当時の天気予測は、ラジオの気象通報で日本付近の気圧と風向風速を聞き取り、(北緯○〇度、東経〇〇度、気温〇〇度、〇〇(南南東)の風、気圧●●●●Hp(当時はmmbrだったな)風力3)と放送されるのを白地図に落とし込み、等圧点を結んで気圧線を作っ天気図を自ら書くということをしていました。 天気図作りは私の役割であった。 列島の西には低気圧はあるものの北の孤島までは影響はないものと予想される天気図が書きあげられた。

しかし、その深夜から猛烈な風が吹き始めた。テントの中で寝てはいられない。(たぶん5人パーティであった)起き上がり背中で支柱や天幕を抑えて吹き飛ばされないように抑えた。 が・・、遂にテントが裂けてきた!! これでは持ちこたえられないと判断し、風雪のなかを撤退下山する決断をした。

風は尾根の左から吹いていた。全員がロープで繋がり慎重に一歩一歩下山を始めた。風を避けたいがため、尾根の右斜面にルートを取りがちとなった。 私の前にいた先輩が風圧で雪面からフワッと浮き上がり「ピッケルが刺さらない!!」と叫んでバタバタした。 まるで凧揚げを始めたようだった。

そして、尾根影の大斜面に到達し、やっと風を避けられ、弱まった。しかし、そこは沢筋の源頭部でもあった。積雪冬山登山として沢筋を下るのは危険極まりないことである。しかし、尾根は猛風雪。下へと下山ルートを探るしかない。

ロープを延ばし、トップがひとり偵察に先に下り始めた。 その直後である、私の後ろにいた仲間が 「雪崩だあ!!」と叫んだ。 雪崩とは映像で見るように大波のごとく押し寄せて来るものだと漠然とイメージしていたので、思わず上後方を振り返った。

が・・、違った。

足元を含めた斜面全体が動いた。掬われるように足元から雪面と共に滑り始めた。体を支えるために斜面の傾斜により左手に持っていたピッケルにロープが絡まっているのか、身体はそれに引っ張られて左に頭を下方向に肩から埋没しながら滑落していった。右手て必死に身体を覆う雪を掻きながら雪崩と共にスピードを増していった。上空に走馬灯のように樹木が行き過ぎる。

もう、駄目かぁ!と思った時に身体が雪の中から浮き上がって来た。そして、空中を吹っ飛んで雪の中に胸のあたりまで刺さって止まった。必死に埋まった下半身を両手で掘り起こした。その時、再び雪が流れて来る音が情報で聞こえてきた。 私は、もう一度雪に乗ってやろうと身構えたのだが、それは私の後ろにいた先輩が同じように飛んできて、私のすぐ隣に突き刺さった。

同じ様な場所に(たしか)4名が同様に止まり無事を確認できたが、ロープは下方に延びていて、トップ先行していた仲間がいない!! バタバタと下降を始めるとしたから、「だいじょうぶかあ」と仲間が登り返してきた。 なんとか全員が無事であった。全員が合流して沢筋から逃げるように側岸をよじ登り、樹林帯のわずかな平地に集合し、天幕を被って一息ついた。 (ここまでは鮮明に覚えているのですが、その後どうやって下山をしたのかは覚えていない)

あとで地形図を見比べて分かったのだが、沢筋を1km以上、標高にして500mは流されたのであった。 沢筋は大きく右へ屈折しており、その中を流れていた異物の私達は遠心力で外側に浮き上がり、さらにその先にあった滝地形で空中に飛び出したのだった。

なにわともあれ、あのときは地形による偶然奇跡でひとりのケガ人もださずに生還できたのでした。

つまり、私の天気図が間違っていたのだ。

 

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