私達が住んでいる黒松内町字南作開(さっかい)は、いったいどの位前から和人が住んでいたのか、定かなところはわかっていません。
漁業が盛んだった隣町、寿都には松前藩以前、蠣崎氏などの豪族達が道南に居を構えていたころから和人はすでに住んでいたので、江戸時代にはすでに農耕地として拓かれていたと推測できます。
さらに遡ると、7世紀中期に大和朝廷の命を受けた、征夷代将軍阿部比羅夫が艦船を率いて蝦夷地平定に寿都湾(であろう)地に来たという説もあります。日本書紀第二十六には、「阿部臣舟師百八十艇を率き郡領を後方後志に置く」と書かれています。
黒松内はアイヌ語が語源です。「クル・和人、マツ・女(が住む)ナイ・沢」なのです。つまり、古くから道南には和人が住んでおり、ここ黒松内付近には 女の人がいる家族、生活があったと推測されるのです。
一方、町史に記載されているのは、1845年に黒松内市街地に近い朱太川の渡守が畑を始め、作開では1855年に青森から来たニシン漁の漁師7名が農業を始めたとあります。なお、明治元年が1868年です。 幕末期まではまだうっそうとした森が広がっていたのかもしれません。
そして、戊辰戦争。この後・・ここ作開地区と会津藩士とのつながりが始まります。幕府側についた会津藩はお取りつぶしとなり、斗南藩となり下北半島に領地替えをさせられます。それもつかの間、確か1年くらいで廃藩置県が敷かれ、旧会津藩士等はさらに北へ追いやられて北海道へ強制移住させられたのです。そして、ここ作開にもやって来たのです。
1871年(明治2年)28戸135人が入植したと記録が残っています。この中のひとり、小池清次郎さんのお墓が地域のお寺・観音寺にあります。地域の鎮守様でもある神社に土地を寄進するなどし、きっと当時の人達に慕われ人望があった方なのでしょう。今も神社の氏神様として祀られています。このお墓を代々守ってきたのが、自然学校でもお世話になっている山岸重太郎さん(しげさん)なのです。
そのしげさんが、新聞で大きく紹介されました。
清次郎さんの子孫の行方がわからなかったのですが、郷土史料家の北村さんが会津出身の医学者の生涯を綴った本を見つけ、その中から清次郎さんの名前を発見、東京にお住まいのご親戚のおひとりに今年、たどりついたのです。
自分の住む土地の歴史が分かること・・、感慨深いものがあります。