昨日行われた、衆議院選挙。
突然の解散、争点がわからない選挙だったためだろうか?
はたまた猛寒波だったためか?投票率は過去最低だったようだ。
東京などの都市部の投票率が低いのは、毎回のことなのでさほど驚くほどでもないのだが、高投票率を維持してきた島根県などでも50%台だったというのは、今回の選挙が「本当に選挙をする必要があったのか?」という疑問を数多くの有権者が持っていた、ということだったと思う。
「与党圧勝!」という議席数はともかく、有権者は本当に「安倍政権」を支持していたのか?という点が疑問なのだ。
その一つが、上述した「投票率」だ。
半数近くの有権者が投票していない、その理由を分析する必要があるのではないだろうか?
あくまでも「選挙権」は、有権者の権利なので強制されるものではないが、それにしても有権者の半数近くが「安倍内閣を支持する」とは言ってはいないのだ。
逆に言えば、総有権者のうちどれだけの有権者が「安倍内閣を支持したのか?」という視点で見ると、案外低い数字になるのではないだろうか?
確かに、野党の論戦にもつながらないような、選挙戦では投票も行きにくかったかもしれない。
今の自民党に対抗できるだけの勢いもビジョンも示すことができなかったことが、野党の敗因ではないかという各所での指摘は確かなことだと思う。
だからと言って、国民が「安倍内閣支持」をしたわけではない、と思っている。
選挙前から感じていたのだが、安倍さんはどこか勘違いをされているようなところがある。
たとえば、facebookの「いいね!」の数。
facebookの「いいね」などは、ある意味「ファン投票」のようなところがあり、「いいね=支持」ではない。
ファンがあくまでも「いいね」と言っているに過ぎないのだ。
ご自分の都合の良いところだけを見て、大げさに「自分を誇張」している、という印象が最近強いように感じるのだ。
その一例が「アベノミクス」に対する自己評価の高さだろう。
様々なところで「アベノミクス失敗」が、報じられるようになってきているのに選挙では「アベノミクスの推進で、日本経済の復活」ということを繰り返し言っていた。
現実は、GDPのマイナス、原油が下がり続けているのに円高により恩恵がない事実。
雇用にしても、非正規雇用者が増えたという内容を見ることなく、「雇用が増えた」と強調をすること。
本当に、ご自分の都合の良いところだけを言い続けている。
人はある程度「自分の都合の良い」解釈をする傾向があるが、安倍さんの場合は「勘違いでは?」と思うくらい、ご自分の都合がよい解釈をされている。
その「勘違い」に歯止めがかからなくなったのが、今回の選挙結果でなければよいのだが、あらゆる面で「日本の終わりのはじまり」が、今回の選挙であった・・・ということがないことだけを願っている。
先日、朝のFM番組を聞いていたら今回の衆議院選挙についての街頭インタビューを紹介していた。
場所は、名古屋の大須商店街。
名古屋以外の方にとって、「大須商店街」という場所のイメージが湧かないと思うのだが、東京の「巣鴨」の様な一面を持っていながら、「秋葉原」のような「オタク文化」の発信地でもあり、ここ20年位はすっかり若者の街として生まれ変わった、「大須観音」の門前町の商店街だ。
その様な商店街でのインタビューなので、インタビューに答える人たちも様々。
子育て中の主婦、サラリーマンやお年寄り・・・。
一応に答える内容は、当たり障りのないようなものだったのだが、その中でおそらく20代であろうと思われる若い女性の言葉に、驚いたのだった。
その内容とは・・・。
「え~っと、今って自民党だっけ?別に自民党とかどこの党でもいいんだけど、安倍さん、辞めてほしい!だって、全然良いことやってないじゃん!税金あげるとか戦争できるとか、好き勝手なことばっかりしてるじゃん」
おそらく、朝のFM番組で名古屋の街頭インタビューということもあって、このような放送ができたのかもしれない。
話し方から察すると、普段は政治に関心がなさそうな若い女性という印象。
しかし、なかなかの核心をついている。
一部では若い世代の保守化、ということが言われ、その保守的な若者たちは安倍さん支持というメディアなどの報道もある。
確かに、生活志向などでは「保守的」になっていると思われるところが多い。
たとえば、このインタビューに答えた20代の女性の半数は「専業主婦になりたい」と、思っているといわれている。
その理由の一つとしてあげられるのが、今の40代以上の働く女性たちを見てきて「働くことの意義は十分理解しているけど、男性のような働き方を求められ、そのうえに家事や子育てがのしかかってくる」という現状を、見ているからだといわれている。
安倍さんが打ち出した「子育て3年抱っこし放題(だったか?)」のような政策では、とてもではないが今の若い女性に「働きながらの子育て」などは理解されない、ということだろう。
「保守化」と言いながら、本当のところは「リスク回避志向」ということなのかもしれない。
そう考えると、「若者の保守化=安倍支持」というほど、単純ではなさそうだ。
確かに、勇ましい発言をする安倍さんの姿は民主党政権時の鳩山さんや菅さんとは、ずいぶん違う印象がある。
「グイグイ、国民を引っ張って行ってくれそう」な雰囲気があるようにも、見える。
問題なのは、安倍さんが国民を引っ張っていきたい方向だ。
選挙では「アベノミクスの継続、経済の発展」ということを掲げる安倍さんだが、すでに国内外から「アベノミクスは失敗であった」という声が出始めている。
「円高誘導で、輸出産業の推進・・・」という、それこそ「昭和40年代」の輸出産業を中心とした、経済モデルの再来を考えたように思われる「アベノミクス」。
しかし現実は、バブル崩壊後それまでの主要輸出産業であった自動車産業や電器産業などは輸出先での「現地法人」による生産体制へと切り替え、日本国内の生産拠点を減らしていってしまっている。
「輸出産業の大幅黒字」というのは、それこそ「数字のマジック」でしかなく、その内容がわかれば「アベノミクス」は、決して成功し、継続できるものではない、ということがわかる。
にもかかわらず「アベノミクス」にこだわるのは、安倍さんがこの2年間で行った他の政策に、目を向けさせないためだろう。
そういう安倍さんや自民党の姿勢を、国民は敏感に感じ取っているのではないだろうか?
少なくとも、インタビューに答えた20代と思われる女性の「安倍さん、辞めてほしい!」という言葉には、そう感じさせるものがあった。
12月に入り、寒い日が続く。
こんな時食べたくなるのが、「鍋料理」ではないだろうか?
最近では「ひとり鍋」が流行だというが、やはり鍋料理の王道は大人数で食べるコトだと思う。
そんな「鍋料理」にも、様々なトレンドが生まれている。
韓流ブームにのってヒットしたのは、「キムチ鍋」だったと思う。
昨年は、カゴメが仕掛けた「トマト鍋」だろうか?
今年は「大根おろしアート鍋」ではないだろうか?
昨年あたりから、話題になりはじめた「大根おろしアート」だが、元々は「豚バラと白菜のミルフィーユ鍋」にちょこんと乗っている大根おろしのしろくまの姿の可愛らしさがTwitterで話題になったのが切っ掛けだった。
そんな「大根おろしアート」の料理本を見ていたら、「大根おろしアート」にまつわるいくつかのエピソードが気になった。
例えば、素材そのものは、大根おろしなのでとても身近で手軽(というのは、十分わかっている)。整形に失敗してもやり直しが利くだけではなく、食べる人みんながワイワイ言いながら形を作ったりして参加できる。
何より、みんなで作った鍋を食べるその時の会話が、「大根おろしアート」を切っ掛けに盛り上がる、という内容だった。Amazon:「大根おろしアート」
確かに、写真で紹介されている様な可愛らしい動物が鍋の蓋を開けた瞬間に出てきたら子どもだけではなく、大人だって「ワ~」と盛り上がるだろう。
具材が煮えて食べ頃になるまでの時間も、大根おろしアートの形が変わっていく変化を見る楽しみがある。
「大根おろしアート」を切っ掛けに、思わぬ話が出るかも知れない。
それくらい「ゆる~い」気軽さと見た目の楽しみがある。
考えて見れば、山形の「芋煮会」なども同じだろう。
一つの大きな鍋を、大人数で囲みながらいろいろな話をする、というのはとても大切な情報交換の場であったり、コミュニケーション力を付ける場だったのかも知れない。
「同じ鍋で他の人と食べる」というコトに、抵抗感を感じるという方もいらっしゃるのは知っている。
ただ、その様な人が増えるにつれ、コミュニケーション力が低下し始めている様にも感じている。
冬の寒いこの時期だからこそ、暖かい鍋料理を家族や仲間と囲んで、いろいろな話をしてみると意外な発見があるのではないだろうか?
少なくとも、暖かい鍋の湯気を囲めば、ケンカをする人はいないと思う。
「大根おろしアート」が流行しているのは、そんな「人と楽しく過ごしたい」という気持ちの表れかも知れない。
先日、久しぶりに派遣で一緒だった友人と会った。
一緒に仕事をしたのは1ヶ月ほどだったのだが、同世代ということもあり話があい仕事を離れてからも時々会う。
その友人と話しをしていて「最近、欲しいモノがないよね~」という話になった。
彼女は決して物欲が無い、という訳ではない。
食品や日用品の様に、日々生活のために必要なモノは別にして洋服などのように「何かあれば買う」という様な、商品に「解体ものが無い!」というのだ。
正しく言うと「自分が欲しい!と思えるデザインや色の服やバッグがない」というコトなのだ。
男性諸氏からすれば「そんなに、服やバッグが必要なの?」と思われるかも知れないのだが、女性の場合「TPO+その日の気分」で、その日の服装を決めるコトが多い。
バッグは、どんなトコロへ出掛けるにしても女性の場合は必須。
美術館に出掛ける時のバッグとチョット郊外に紅葉や桜を見に出かける時とでは、服もバッグも違うモノを選ぶのが、普通だろう。
もっと言うなら、食事に出掛けるだけでも、行く場所+会う相手によって、すべて変わってくる。
しかし、最近のファストファッションの台頭?で、ファッションそのものに「個性」がなくなりつつあるのだ。
例えば、この秋流行している「フレアースカート(「サーキュラースカート」と言う場合もあり)」。
ハイウエストで、フレアータップリというデザインばかり。
50代の半ばにもなれば、流石にハイウエストは(お腹周りが)厳しい。
何より、スカート丈が短い。
ファストファッションのお店だけではなく、いろいろなお店を廻ってみても大体のスカート丈は50㎝~55㎝。
膝が隠れるか、隠れないかという微妙な丈。
20代の若い女性なら、膝が見えても可愛らしいと思うのだが・・・やはり年齢には抗えない。
ならば、そのくらいの年齢の女性を対象にしたショップに行けば!と思われるかも知れないが、「おばさん体型をカバーする為」に要らぬデザインとなっている場合が多いのだ。
当然、色も!
50代女性向けのファッション雑誌などが、ここ数年創刊され話題になっているのに実際には、その様な世代の女性が気軽に手に取れるファッションは、ほとんど見かけ無い。
街中のお店を覗いてみても、街中には沢山の人がいるのにお店で買い物をしている人は、本当に少ない。
「アベノミクス」で景気が良くなっている!と、安倍さんは胸を張るかも知れないが現実はほど遠い感がある。
では、何故「欲しいモノが無い」という状態になるのか?と考えると、「商品の回転の早さ」を考えるからかも知れない。
ファストファッションであれば、その時時の流行がセールスポイントになってくる。
しかし、その様な商品はよくよく見ると縫製が雑であったりして、本当にワンシーズンのファッションなのだ。
「ワンシーズンファッション」で経済が廻るのか?というと、甚だ疑問になる。
そしてファッション産業だけではなく、様々な企業が「ワンシーズン」でモノごとを捉えている様になってきているのでは?という、気がしてきたのだ。
その様な「ワンシーズン思考」は、高度成長期にはフィットしていたかも知れないが、今のように「成熟した社会」には似つかわしいとは思えない。
経済そのものの考えだけではなく、もう少し長期的で複眼的な見方をしないと、本当に「欲しいものがない」と生活者が感じていることを見逃してしまうのではないだろうか?
今度の日曜日は、早くも衆議院選挙。
何となく、盛り下がっているように感じる。
その大きな理由の一つは、「争点がない(というか、わからない)」というコトだと思う。
与党、特に自民党は「アベノミクスの効果」を言っているが、その言葉が空々しいと感じている人も少なく無いのでは?
むしろ「アベノミクス効果」ばかりを言う、というコトは他の都合の悪いコトは指摘されたくないのかな?という気もしてくる。
一方、野党側は「アベノミクスは失敗だった」という趣旨のコトは言うが、では「どんな政策があるのか?」という話はなかなか聞こえてこない。
そんなイマイチ盛り上がらない選挙だからこそ、各党にとって「組織票」が頼みの綱になる。
その「組織票」が強い党というと、宗教団体をバックに活動している公明党の名前が挙がってくると思う。
しかし、最近はかつてのような「組織票の勢い」は余りないようだ。
私の住んでいる「愛知1区」から、候補者が立候補していないコトもあるかも知れないのだが、以前は随分見た様な気がする公明党のポスターが随分減った気がしている。
しかし、そう簡単でもなさそうな記事がYahooのトピックスに取り上げられていて、驚いた。
Yahoo!トピックス:公明党へ協力要請=衆院選でグループ2社にーJTB
記事を読むと「JTBは任意での協力を要請している」とのことだが、現在の国交大臣が公明党の太田さんであるコトと関係している、というのは想像がつく。
監督官庁の大臣に対する配慮、というコトだと思うのだが、いかにも「昭和的選挙発想」という気がした。
確かに昭和の頃は、労働組合と政党が結びつきが強く、それが組織票にもなった。
時代の変化とともに、労働組合の力が弱くなるに連れ政党との結びつきが弱くなったように思う。
その一例が「民主党(旧民社党)と連合」の関係だと思う。
以前なら、会社側がこの様な要請をしたことが労働組合側に判った時点で、相当の反発があったと思う。
ところが、この様なニュースとなって報じられるというコトは、労働組合の力が弱くなりつつある、というコトだと思うし、何より企業側が政治家頼みの経営をし始めているという印象も受ける。
この様な「政治家頼みの経営」という印象を、生活者に与えてしまったコトは、JTBにって余り良いコトでは無いと思うのだが、それだけ企業そのものに閉塞感があるのかも知れない。
いずれにしても、この様な「組織票」で政治が決まる様な「昭和の選挙」は、そろそろ辞めませんか?
組織に属さない有権者が増えているのだから、政治家としてその様な「組織に属さない有権者」に向けて、「できるコト・できないコト」を含めた「政策ビジョン」を誠実に話すべきではないだろうか?
先ほどFBをチェックしていたら、右側に表示される広告が、一つだというコトに気がついた。
通常は、複数の広告が表示されていたと思うのだが・・・。
その表示されている広告とは、自民党の選挙広告。
あえて「広告」と表現させてもらうのは、FBの表示が「広告」となっているからだ。
FBをされている方ならおわかりだと思うのだが、自分のタイムラインにはいわゆる「お友達」がコメントした内容だけではなく、「広告」が表示される。
多くは、ダイエット商品であったりスキンケア商品や通販で、時折「占い」や怪しげな出版社の時もある。
同様の広告が、右側の「広告表示スペース」にも表示されるのだ。
当然のコトながら、複数の広告が表示されていたという印象があるのだが・・・。
今回の選挙で、自民党の議席が300に迫る(または300超え)という報道がある。
といっても、多くの有権者はまだ決めかねているようで、50%を超える人達は「未定」と回答をしているようだ。
そんな報道があったのが、昨日。
そして今日、FBを開いて表示された「広告」が自民党の選挙広告。
当然「公平さ」という点から考えれば、民主党や共産党など野党も「広告」掲載をさせる必要があるとは思うのだが、その様な気配が全く無い(と言うか、全く無かった)。
これって、「選挙の公平性」という点では、どうなのだろう?
現在与党である自民党は、今回の選挙の前に「報道の公平さ」を各メディアに文書で通達した、という話がある。
自民党ではなく、政府が通達した、というコトであっても「政府=与党=自民党」と考えると、随分な態度という気がする。
その様なメディア規制のようなコトをしながら、今月10日には「特定秘密事項保護法」が施行される。
今の与党にとって、都合の悪いことはもちろん、都合の良いコトばかりが「広告」として登場しそうな気がして、とても気持ちがわるい。
マーケティングという仕事をしている関係上、どうしても「広告」に対しては様々なコトを考える習慣があるのだが、今回のFBに表示された、自民党の選挙用広告に関しては、ただただ「気持ちが悪い」ということしか無い。
イメージ戦略として、この様な広告をFB好きな?安倍さんがはじめたとすれば、申し訳無いが見当違いというしかない。
今日、名古屋大学でチョット変わったイベントがあり、出掛けてきた。
テーマは「社会イノベーションデザイン」。
主な内容は「若手音楽家トリオによる演奏会」。
名古屋大学が得意とする「理工学系」と、クラシック音楽とどう結び付くのだろう?というコトなのだが、クラシック音楽と「社会イノベーションデザイン」とは、直接的には全く関係が無い。
全く異質なモノ・コトがぶつかり合うトコロで「イノベーション」が起きるのでは?というコトらしかった。
もちろん、演奏会そのものは十分に楽しむコトができた。
ただ、それよりも「なるほど!」と感じる内容があったのは、演奏会後の濱口名大総長とこのシンポジウムを主催した「未来社会創造機構」所長の齋藤永宏先生、ピアノ演奏をされた村田千佳さんを交えてのトークショーの時だった。
テーマの中心は「感性」。
この「感性」というモノほど、理工学系が苦手とするコトは無い(らしい)。
というのも「感性」というのは、数値で図るコトができないからだ。
当然、「平均値」を出すコトもできない。
実験を繰り返し、検証をしようとしても「感性」そのものは、とても個人的なものなので一つの出来事に対して、感じ方は人それぞれ。
違う言い方をすれば「正解はない」というコトになる。
現在名古屋大学の総長をしていらっしゃる濱口先生は、医学部出身で「医学というのは、人を診るのが仕事。同じ病名の患者さんが複数いても、患者さん一人ひとり違う。面白いコトに世間で言われる人相の平均値を集めてモンタージュを作ると、「こんな人、いそうでいない」という人相が出来上がる」というお話をされていた。そして齋藤先生に「その意味では、今までの日本のものづくり(主に工業製品)は「平均的ものづくり」を目指してきている」という指摘をされたのだった。
確かに「平均的ものづくり」というのは、作業効率の良さがあり、圧倒的多数の人が「特別素敵だとは思わないが、悪いとも思わない、ある程度売れることが見込めるものづくり」だと言える。
だからこそ、新興国が既存の技術を使って安価な商品を作り出すことが容易になり、日本の家電メーカーがその技術力を保持しきれない、という状況になってしまうのだ。
それが良い・悪いのではない。既に成熟した市場での「平均的ものづくり」では、新興国と勝負をしても勝てる要素がほとんど無い、というコトなのだ。
考えて見れば、ソニーの「ウォークマン」は、「カセットテープの再生しかできません」というモノだった。
その後、様々な機能が付加されたが、「ウォークマン」のヒットは「再生しかできないが、自分の好きな音楽を持ち歩くコトができる」という「個性」があった。
もちろん工業製品なので、「ウォークマン」としての品質の高さは保持されてはいたが、多くの若者が「ウォークマン」を買った大きな理由はその「個性」に魅力を感じていたからではないだろうか。
今、その様な「個性」を発揮している「モノ」は何か?と考えると、やはりAppleというコトになるのかも知れない。
その一方、今日本で個性があるのは何処だろう?と、考えると、案外「地方」なのでは?という気がした。
特にその地方で育まれた、様々な伝統手工芸やそれを支えてきた、生活文化などは「個性そのもの」ではないか?
そのエッセンスから、何かを感じる様な「感性」がこれからの「ものづくり」には、必要になってくるのかな?という、気がしたのだった。
昨日、「流行語大賞」が選ばれた。
日本エレキテル連合会の「いやよ~いや!いや!」と「集団的自衛権」が大賞を受賞した様だ。
他にも大ヒット映画「アナと雪の女王」の主題歌「ありのままで」などが選ばれている。
今年大ヒットした映画、といえば「アナと雪の女王」ということになると思うのだが、当然のコトながら「アナと雪の女王」あやかり商品というモノも、随分見かける。
先日、スーパーで買い物をしていると、乳製品売り場にこの「アナと雪の女王」のパッケージ商品が並んでいた。
こんな商品にまで「アナ雪か・・・」という気がしながら見ていたのだが、丁度その時小さなお子さんが「ママ!アナ雪買って、買って」と、おねだりをしていた。
この様な状況だと、渋々購入するお母さん方が多い様に感じるのだが、そのお母さんは「アナ雪の絵が描いてあるけど、中身はあなた(お子さんの名前だったと思う)が飲まないものだからダメ!」と即答、却下。
その後もしばらくは、「ママ~買って!」とおねだりをしていたのだが、「飲まないから買わない」と売り場を後にするお母さんの姿を見て、「確かに、パッケージと中身は全く違うモノですからね」と納得をしたコトがあった。
ただ、この様なお母さんは少ないのでは?という気がした。
というのも今年大流行している「妖怪ウォッチ」関連の商品なども、お子さんにとっては「妖怪ウォッチ」というだけで欲しくなる。
中身などは関係が無い。そして単価が安いので「仕方無い」という気持ちで、購入される親御さんは多いと思う。
「アンパンマン」や「ドラえもん」などは、今でも大人気でこれらのキャラクターが描いてある菓子パンや子ども向け飲料などは、お子さん達が大事に抱えて離さない、という場面をよく見かける。
この様な場合、お母さん達は「お家にあるでしょ」が決め台詞となっているようだ。
ボックスティッシュペーパーや食品などは、消えていく商品なので人気が一段落して家にあっても「あ~~~、大ヒットした映画の関連商品だったな~」程度で済むと思うのだが、このクリスマス商戦に向けて発売されている「消えていかない商品」などは、ブームが去った後、どうなるのかな?と、要らぬことを考えてしまう。
確かに、大ヒット関連商品は、その時の話題としては面白いと思う。
ただ、上述した通り「消えていかない商品」の行方が、とても気になるのだ。
安価なモノであれば、いずれは処分!というコトになると思うのだが、広告などで見かけるモノの中には案外高額なモノもある。
購入された方々は、一体どうしているのだろう?
是非、教えていただきたい。
お昼、ネットでニュースをチェックするためYahoo のトピックスを立ち上げたら、菅原文太さんの訃報が報じられていた。
既に、家族葬を済まされていたとのこと。先日亡くなられた高倉健さんも、同じ様に密葬が終わってからの発表だった。
葬儀が終わってからの、発表というのは故人の遺志によるモノだと思うのだが、その生き方にも共通する様なトコロを感じる。
ご存じの方もいらっしゃると思うのだが、菅原文太さんは随分前に「膀胱がん」に罹患され、治療を受けられていた。
「膀胱がん」が見つかった時、「大掛かりな手術が必要になる」といわれ、「立ションベンが出来なきゃ、菅原文太じゃねぇ」と言って、セカンドオピニオンで放射線治療を選ばれた、という話を聞いたコトがある。
放射線治療を担当されたドクターのお話なので、おそらく本当のお話だと思うのだが、「立ションベンが出来なきゃ、菅原文太じゃねぇ」という言葉に、俳優・菅原文太の生き方というか、心意気のようなものを感じた記憶がある。
一方、先日亡くなられた高倉健さんも、以前「前立腺がん」を患われていた、という話を聞いた。
「前立腺がん」そのものは、中年期を過ぎた男性であれば、誰しもがそのリスクがある「がん」で、早期発見・早期治療が出来れば、他のがん種に比べれば進行そのものも比較的ゆっくりなので、適切な治療によって「がんと共存」しながら人生を全うすることができる、とも言われている。
事実、天皇陛下も「前立腺がん」に罹患され、現在も「ホルモン療法」を継続的に受けられ、ご高齢にも関わらずご公務に励まれている。
菅原文太さんの場合は「膀胱がん」から肝臓への転移が原因となり、「肝不全」で亡くなられているのに対し、高倉健さんの場合は、「悪性リンパ腫」という「前立腺がん」による転移ではない、「がん」で亡くなられている。
ただ、菅原文太さんも高倉健さんも、ご自分の病気は随分前からご存じだったのでは?という気がしている。
上述した通り、菅原文太さんは「膀胱がん」からの転移なので、転移が判ったときにはそれなりの覚悟をされていたかも知れない。高倉健さんも「前立腺がん」の経過検診の過程で「悪性リンパ腫」が判った、という話を聞くので、その時点で担当主治医から専門医を紹介され、治療法を検討されていたのではないだろうか?
残念に思うことは、抗がん剤などを使用した場合、一般的に言われる様な「脱毛」など容姿が著しく変わってしまう様な治療は、俳優という職業がら選択するコトはできなかったのでは?という気がする。また天皇陛下が受けれらている「ホルモン療法」も、容姿に影響する様な副作用があり、手術や放射線治療は受けられたと思うが、「ホルモン治療」などは受けられていたのだろうか?と、考えてしまった。もちろん、治療開始時の状況によっては「ホルモン療法」そのものを必要としない場合もあるので、何とも言えないのだが・・・。
そう考えると、お二人とも「俳優」という職業人としての人生を全うされるために、それなりの覚悟のようなものを持って「がん」という病気と向き合われていたのでは?という気がしている。
それは、病気を公表するコトも良しとしない、「俳優としての美学」のようにも思える。
お二人のご冥福をお祈りいたします。