いつのころからか「タイパ」という言葉が、一般的に使われるようになった。
「タイパ=タイムパフォーマンス」の略である、ということはご存じの方も多いと思う。
この「タイパ」が流行するようになった時、「タイムパフォーマンスばかりを追い求める社会って、息苦しくないかな?」という、気がした。
もちろん、Youtubeなどで速度を上げたり、見たくないところを飛ばしたりすることは、「タイパ」という言葉が流行る前から多くの人がやっていた事だと思う。
実際私も、興味のない部分に関しては、飛ばして見ている。
とはいうものの、じっくりと視聴することも多くある。
理由は「興味がある」からだ。
ということは、興味がある部分だけを切り取ってみている、ということでもある。
Youtube程度(と言っては失礼だが)であれば、さほど問題はないのだがこの「自分にとって興味のあるところを切り取る」ということが、仕事などで行われると、それは「タイパ」ではなく、「手抜き」となるのでは?
長じれば、知識を得ることに対しても、表面的な知識に終始することになるのでは?と、感じるのだ。
なぜそのような事を感じるのか?と言えば、様々な人と話をしていて「本質の理解がされていないのでは?」という印象を持つことが増えているからだ。
違う言葉でいうなら「上滑りする言葉や態度」ということになると思う。
これまでは、政治家に多々見られた傾向なのだが、それがどんどん広まってきて、若い人達の中には「めんどくさいから、解答だけで充分」という態度を取られる方、流行りの言葉(多くの場合、カタカナ語)を多用するのに、その話と流行りの言葉があっていないということが増えてきている、と感じることがある。
その背景はなにか?と、考えた時「タイパ」ということに繋がっているのでは?ということに気づいたのだ。
もちろん、「タイパ」だけの問題ではなく、事柄の本質を考えていない、ということが原因なのだが、「本質を考えなくてもよい=人が示した答えで、自分の実績にできれば良い」という、安易さがあるのでは?ということなのだ。
この様な考えの先にあることは何か?と考えた時、「AIに奪われる」ということになるのでは?
ChatGPTをはじめとする、知識の集積がAIの進化だ。
そのAI の知識の集積も、そろそろ限度にきているようで、今後はより高度で幅広い知識を得る為にIT関連の企業が躍起になっている、と言われている。
そのような現状を見た時、「AIと競争しない仕事・生き方」とは、「タイパ」では得られない、体験や知識を得る時間なのでは?ということなのだ。
それらの事柄は、今まで「無駄」と思われてきたのでは?
その「無駄」が今後有益なモノとなり、「タイパ」という言葉で躍起になって得た事柄などは、AIに取って代わられ無駄になっていくのでは?
その「無駄」とは、多角的視座から得られた教養であったり、技術の集積から起きた偶然のような気がするのだ。
特に「偶然」は、AIが一番苦手とするところで、その「偶然」から様々な着想を得たりすることができることこそが「人智」だろ。
今の「無駄」と思われることを、子どもも大人も沢山やってみることが、これからの価値をつくっているのではないだろうか?
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