調べモノをしていたら、センセーショナルな見出しを見た。
文春オンライン: 「死体を煮て溶かしている」『ごんぎつね』の読めない小学生たち・・・
友達ではなく「ヒマつぶしの相手」中1男子をカッターで何度も切りつけ・・・
どちらもタイトルが長いので、途中省略をさせていただいたのだが、「死体を煮て溶かしている」という言葉そのものが、センセーショナルで児童書の「ごんぎつね」とどのような関係があるのか?と、数多くの疑問が起きた。
その次のタイトルは、1の「ごんぎつね」に続く発展した内容なのだが、「ヒマつぶし」で他人をカッターで切りつけ、殺人まで犯すというのは世間一般的に言われる「サイコパス」以上の異常さを感じるタイトルだった。
まず、「ごんぎつね」の話は、とても有名な話なので内容を云々するのは、意味がないと思う。
ただ、最初に感じたことは「ごんぎつね」の話が書かれた時代と、今とでは「死」の存在が違うのではないか?という点だった。
というのも、今多くの高齢者は病院で死を迎え、そのまま葬儀場へと移され、法要が行われた後荼毘に付される。
この間、一度も自宅に戻ることもないし、ご近所の方々が集まって遺族の代わりに食事などの支度をすることも無い。
おそらく現在でも、このようなご近所の方々が集まって大鍋で遺族の為に料理をする、という地域そのものは激減しているのではないだろうか?
都市部であればあるほど、「人の死」が遠くになり、一連の法要の儀式が「他人事」のように見える様になってしまったのでは?という、気がしている。
流石に「大鍋で死体を煮て溶かす」という発想には、驚きを隠せないのだが、それほど「死」というモノが遠くになっている、という事実は大人として理解する必要があるだろう。
とすれば、ここで重要な大人からの問いかけは「なぜ、そのように思ったの?」ということだろう。
子ども達にとって、ディズニーのアニメや映画に登場する「魔女が大鍋で何かを煮ている」のと同じ感覚だったのだとすれば、物語の違いをキチンと説明しなくてはならないし、その背景にある社会的文化の違いを理解させる必要がある。
ましてや「ごんぎつね」のこの場面は、上述したように「死」を扱っている。
「死」そのものが、遠いモノとなってしまった現在では、「死」そのものが「恐怖」であり、「触れてはいけないモノ(=穢れに近い感覚か?)」となっている。
「家族そろって看取りをする」ということが無くなってしまった現代だからこそ、「ごんぎつね」は小学生向けではなく、「死生観」を学ぶための中高校生向けになってしまったのかもしれない。
この記事で取り上げているのは「死」ということだけではなく、「文脈」から「登場人物の気持ちを想像する」ということができない子供たちが増えている、という懸念だ。
マークシートのようなテストは、出題量も多く時間との闘い、という一面がある。
それに反して、「心を読み、自分の考えを客観的に述べる」ということは、時間と労力、何より体験的要素が加わる問題だ。
もう一つ懸念していることは、明日投開票される参院選で最注目政党となった党の候補者や支持者の多くが、自分が話している言葉の意味やその言葉に含まれている時代的背景や、結果として何が起き、どうなったのか?という組み立てができていない、という点だ。
そこには「自己益」にしか関心を持てなくなってしまった人達の姿の様でもある。
とすれば、「失われた30年」で「失ったモノは『他利』」ということであり、政治も官僚、企業人も「自己益」ばかりを求め続けた結果、子ども達の「国語力の低下」に結びついているのだとしたら、この30年の時間を取り戻す為にはどれほどの労力と時間が必要なのだろう?と、考えてしまうのだ。