昨日から、新型コロナの感染予防対策として半ば義務付けられていたような「マスク着用」が、「個人の意思による着用」という、どことなくボンヤリとした基準に代わった。
そのこと自体、良かったのではないか?と思うのだが、先日エントリした通り「専門家」と言われる方々の意見は、「これまでの感染予防対策の継続」を訴えるような内容のことが、報道されていた。
この報道内容に対して、Yahoo!コメなどでは相当反発の意見が出ていた。
しかし、公衆衛生などの専門家の方々にとっては「なぜ、批判的なコメントが多いのかわからない」という内容だったらしい。
その理由は「感染対策の基本的なこと」だから。
Yahoo!コメで批判する方と新型コロナで注目されるようになった感染症や公衆衛生の専門家との間には、大きくて深い「理解の溝」のようなものがあるのでは?という気がしたのだ。
感染症や公衆衛生の専門家と言われる方々の多くは、「批判される理由」そのものが分かっていないのでは?という気がしたのだ。
「自分は感染症予防の基本を言っているのに過ぎないのに、なぜ批判されるのか?」とか「感染症を拡大させない為の助言が、なぜ理解されないのだろう?」という疑問を持っている、ということになるだろう。
一方Yahoo!コメなどで批判する方の多くは「なぜ現実の生活を見ないのか?」、「これ以上コロナ禍による生活の不便さ、不都合さを強要するのか?」とか「現実的ではないコトを言う、机上の空論ばかり」という気持ちがあるのでは?という気がしている。
例えば、「三密を避けるように」と言われても、満員の通勤電車で出勤をする人達にとっては「そもそも三密を避けるなんて無理!」と思っているだろう。
介護職の方などは、利用者さんの生活介助の為に「三密」に近い状態にならなければ、仕事にもならない。
現実には、専門家と言われるような方々が提言するような生活をすることが、とても難しいということなのだ。
そして「マスク着用も状況に応じて」という文言が、「やっとマスク生活から解放されるのに、専門家がこのようなことを言えば、マスクを外しにくいことになる」という指摘もあったのでは?と、思っている。
実はこのような「言葉の行き違い」のようなことは、日常的に起きていることでもある。
その「行き違い」が一番起きやすいのが、医療現場のような「専門用語」が頻繁に登場する現場なのでは?と、考えている。
いくら医療者側が「わかりやすい説明」をしようとしても、「わかりやすい説明とは何か?」という理解がされていなければ、意味をなさない。
「わかりやすい説明」とは、話す相手の生活背景などを理解し、平易な言葉を使う必要がある。
ところが残念なことに、日本の社会は「パターナリズム」と呼ばれる「父権主義的」な思考が、根強く残っている。
違う言葉で言うなら「マウントを取りやすい社会」であり、「マウントを取る側」は「難しい言葉で、言いくるめる事で優位性を保ちたい」という、潜在的な考えがあるのでは?ということなのだ。
と同時に、「マウントを取られる側」もまた「権威」を必要以上にありがたがっている、という傾向があるために起きる関係性のようなものがると、感じている。
ところが、ネット社会がその「パターナリズム」を、良くも悪くも壊しかけているのだ。
それが今回の「新型コロナ感染予防対策の継続」という専門家とYahoo!コメとの間で起きた、ということに過ぎない。
「専門家が生活者に寄り添え!」という意思表示がYahoo!コメでされた、ということに過ぎない。
通り一遍の言葉ではなく、「withコロナの生活」とは?という、創造力をもっと働かせていれば、使われる言葉も違ったのでは?
これは、今回の「専門家」に限ったことではない、ということは言うまではなく、専門家と言えども専門外のことは素人同然。
常に専門分野であっても「素人である自分」という意識が、これからのコミュニケーションには必要である、ということだろう。