リハビリテーションの学校へいくと、骨と筋と神経と血管が関節のところでどうなっていてどう動くか、というような勉強をします。基本中の基本です。
それを習いつつ、ぼんやりと思っていたことがありました。「なまたまご」と「ゆでたまご」の違いのことです。
テーブルの上で「ゆでたまご」を横向きで回転させると、回転しながらたまごは立ちます。でも、「なまたまご」は立たない。そのことを例に、中身が固体と場合と、液体の場合ではちがう、とある本で人体の運動について説明していたのを読んだからです。
リハビリの学校で習う人間の運動力学は、人間の中身が「液体」であることを考えていません。人体を「骨」とか「筋」とかのパーツにわけてその形や可動域をしらべます。それは間違っているわけではもちろんないのですが、人体をひとつの「生命体」としてとらえるという運動力学が欠けているように思っていました。
しかたがない、といえばしかたがないのです。部分に分解してしらべる…それが医療科学の基本なのですから。でもそれだけでは「人は機械と同じかよ」とつっこみたくなります。
読んだ本というのは野口三千三(故人・東京芸術大学教授だった)という人の書いた「原初生命体としての人間」。 この人は演劇の研究者だろうと思うのですが、自身が腰痛になやまされ、それで考え、「野口体操」を考案しました。僕はこの体操のやりかたはまったく知らないのですが、考え方は面白いとおもい自分の身体アプローチの参考にしました。
この本によると「主観」が大事というのです。科学は「客観」を重視します。だけどそれだけでは治らない身体の悩みをどうするか。そこで「主観」重視の登場です。ひらたくいうと「自分の身体に聴け」ということ。
ですから「体操」というのは「自分の身体とのはなしあい」なのです。自分にあった体操は自分の身体が知っているってわけ。
それを習いつつ、ぼんやりと思っていたことがありました。「なまたまご」と「ゆでたまご」の違いのことです。
テーブルの上で「ゆでたまご」を横向きで回転させると、回転しながらたまごは立ちます。でも、「なまたまご」は立たない。そのことを例に、中身が固体と場合と、液体の場合ではちがう、とある本で人体の運動について説明していたのを読んだからです。
リハビリの学校で習う人間の運動力学は、人間の中身が「液体」であることを考えていません。人体を「骨」とか「筋」とかのパーツにわけてその形や可動域をしらべます。それは間違っているわけではもちろんないのですが、人体をひとつの「生命体」としてとらえるという運動力学が欠けているように思っていました。
しかたがない、といえばしかたがないのです。部分に分解してしらべる…それが医療科学の基本なのですから。でもそれだけでは「人は機械と同じかよ」とつっこみたくなります。
読んだ本というのは野口三千三(故人・東京芸術大学教授だった)という人の書いた「原初生命体としての人間」。 この人は演劇の研究者だろうと思うのですが、自身が腰痛になやまされ、それで考え、「野口体操」を考案しました。僕はこの体操のやりかたはまったく知らないのですが、考え方は面白いとおもい自分の身体アプローチの参考にしました。
この本によると「主観」が大事というのです。科学は「客観」を重視します。だけどそれだけでは治らない身体の悩みをどうするか。そこで「主観」重視の登場です。ひらたくいうと「自分の身体に聴け」ということ。
ですから「体操」というのは「自分の身体とのはなしあい」なのです。自分にあった体操は自分の身体が知っているってわけ。
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