はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

朴鉄柱 1967

2011年11月10日 | はなし
 〔 韓国から日本をながめていると、日本が“心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と“心”という字に並んでいるのではないか。
   …(中略)… 
 “八紘為宇”という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的に世界に知らせる必要がある。 〕



 〔 日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。それに日本神話は檀君神話より四百年も前にまとめられた。私が日本神話に内面親しみを感じるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。 〕





 〔 現在の日本人の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。平和的外交交渉によって、事態を打開しようと最後までとり組んだ。それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。“事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし”というのが、開戦時の心境であった。それは日本の武士道の発露であった。日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。日露戦争と大東亜戦争――この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。 〕



 朴鉄柱(1922-1990)
 韓国人。釜山に生まれ、日本の学校に学んだ後、釜山の龍頭山神社、下関の住吉神社に奉職。終戦後、韓国に帰り「日本文化研究所」を設立。その活動が韓国国家の法に触れるということにより投獄されるなどの境遇にあうも、「韓日文化研究会」と名称を変えて資金難や不遇の状況のなか活動を続けた。

 この文は、名越二荒之助『日韓共鳴二千年史』からの抜粋。
 1965年、日韓基本条例が締結され、国交が樹立されました。その2年後1967年の11月1日、名越二荒之助(「なごし・ふたらのすけ」と読むらしい)が学生たち7名を連れて訪韓した際に、朴鉄柱(「パク・チョルジュ」と読むみたいです)が彼ら日本人に向けて発した言葉です。
 訪れた朴鉄柱の「韓日文化研究会」の建物は荒廃してそれは目も当てられぬほどだったとありますが、しかし朴会長の目は爛々と輝いていたということです。


 なお、1967年のこの名越二荒之助と7名の訪韓では、ソウル大、梨花女子大、高麗大、慶北大、その他、中・高校の学校訪問を行いました。当時の“ 反日感情の根深さは予想を超えるものがあり ”、彼らに対しても訪問先で、“ 豊臣秀吉、加藤清正、「日帝三十六年に及ぶ侵略」などについての攻撃があった ”そうです。 つまり、“謝罪せよ”というわけです。
 しかし名越はこう書いています。
 “ それに対して我々は「謝罪」をせず、当時の極東アジアの状況を語り、反日怨念だけでは健全なる愛国心は育たないことを強調しました。”

 「謝罪」だけでは良い日韓関係は築けない、と十分に知っていたんですね、この当時の日本人は。
 (「国際交流」ってのは要するに、「闘い」なんですね。 「仲良くするための闘い」…。)





 さて、朴鉄柱の言葉の続きです。

 〔 大東亜戦争で日本は敗れたというが、負けたのはむしろイギリスを始めとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって、植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝ったか負けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦争に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、“聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万の戦死者はたしかに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖國神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである。 〕



 これから生まれてくる日本人のために、良い「日本」を残したい。 「TPP」はやめてください!

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