はんどろやノート

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カイロの日本人娘

2007年12月18日 | はなし
 ナセルは国民の圧倒的な支持があった。それだけでなく「アラブの英雄」になりつつあった。するとナセルのエジプトを脅威に思い始めた周辺国が、徐々にナセルに背を向けはじめた。彼が1967年にパレスチナ問題を一気に解決しようと行動を起こした時(第三次中東戦争)、これはうまくいかず、政治的失敗を認め責任をとって大統領を辞任すると発表した。すると、「やめないでくれ、俺達を見捨てないでくれ」と泣いて歩く10万人以上の国民のデモが起ったのである。ナセルは辞任を取り消した。
 ナセルはアスワン・ハイ・ダムを建設し、ナイル川を安定させた。しかし何事も良い面と悪い面がある。アスワンダムを造ることで、ナイルの恵みである肥沃土が堰き止められてしまい、その土壌がダムに蓄積してきて憂慮されている。
 ナセルの一番大きな仕事は、エジプト国民に誇りを与えたことだろう。学校の数を増やし、アラビア語への尊厳の自覚を国民にうながした。その当時のエジプトでは、フランス語が一流社会の言葉となっており、アラビア語には劣等意識がつきまとっていたのだ。ナセルは、広場で、「エジプト方言」で演説した。その演説のピークをなすのが、例のスエズ運河国有化宣言である。
 愛された英雄ナセルは1970年に没した。その後をサダトが継いだ。

 さて、その頃、日本で、アラビア語に興味を持った10代の娘がいた。高校生だった彼女は、「アラビア語を学びたい」と思う。その思いはどんどん強くなり、大学に入学した後、ついに両親を説得してエジプトへの留学を決心する。
 しかし、どこの書店にもアラビア語を学べる本はない。それで彼女は、エジプトへ行って、そこで習うことにした。大学は休学ではなく、退学した。退路を断ったのだ。エジプト・カイロで1年間アラビア語を学び、20歳、カイロ大学に入学。アラビア語は、話し言葉はわりと平易らしい。ただし、アラビア語の文語となるとこれが相当難解らしい。1年目の彼女は、授業について行けず、落第。
 だが、この娘、根性が入っている。2年目は進級できた。そうやって進級するたびに、カイロ市のどこか「高いところ」へ登って「やったー!!」と叫ぶことに決めた。最初は187メートルのカイロタワー、次はカイロ一高いノッポビル、それからムハマンド・アリー・モスク。そして、卒業できたら…ピラミッドに登ろう!これはとっておきだ。ギザのピラミッドのそばを通ると、登りたくてうずうずするが、我慢した。
 
 そんなふうに、カイロ大学初の日本人娘が勉強ばかりの毎日を送っている時、エジプト大統領サダトはイスラエルに戦争を仕掛けた。1973年のことだ。これが第四次中東戦争である。OPECは、イスラエルを支援する国の原油価格を4倍に値上げすると発表。こうして日本にも「石油ショック」がやってきた。
 あの「石油ショック」は、経験した人ならよく覚えているだろう。何しろ、新聞の厚さが半分になった。マンガ雑誌も半分の厚みになったのだ。石油から「紙」が作られるから、紙は節約せねばならなかった。
 そんな時に、その日本人娘は、一人中東にいてアラビア語を学んでいたのである。面白いところに目をつけたものだ。「石油ショック」のために、エジプトへ日本のある国会議員がサダトに面会にやってきた。アラビア語の話せる日本人娘は、それに付き合う形でサダト大統領とも話をしている。 
 その娘の名は…、たぶんあなたも知っている「あの人」のことである。 以下、次号。
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