木村升田戦6手
[升田幸三が死にかけた話]
高熱にうなされて、そりゃ苦しいもんです。なんかこう石垣の間にでも押し込まれたようで、息苦しいのに息ができん。必死に抜け出そうと、脂汗を流してもがく。それがあるとき、急にスーッとらくになる。神経が作用しなくんるんで、これがいわゆる危篤の状態なんですね。
「鬼才・升田幸三五段倒る」
という原稿を用意し、あとは何日の何時何分に死亡と、数字だけ入れればいいようにしとった。
先生(注;師匠木見金治郎)はあらゆる神仏に祈願をかけ、いよいよダメだと聞かされると、
「升田こそはと頼みにしとったのに、わてほど不幸なものはおまへん」と、大声で泣かれたという。広島から母と兄もかけつけましたが、兄はすっかり観念し、
「幸三よ、成仏せいや、成仏せいや」
と繰り返すばかり。
そんな中で、母だけが望みを捨てなかった。医者にすがりつくようにして、せめて鯉の生き血を飲ませてやってくれ、と懇願した。危篤の病人が飲めるはずもないのに、ともかく鯉の生き血を取って、飲ませようとした。
私が奇跡的に命をとりとめたのは、この母の愛としか考えられません。
もう一つ不思議だったのは、昏睡状態でおる間に、私の脳裏に、汽車で乗ってくる母の姿が鮮明に映ったことです。それが一人でなく、見知らぬ五、六歳の女の子を連れておる。
意識が戻って目をあけたら、その女の子が母のそばにちゃんとおるんだ。一番下の妹で、名前は芳子だという。ぜんぜん知らん顔の子が、無意識のうちにはっきり見えるんだから、肉親の情ってのはおそろしい。
そういえばおなじ時分、海軍に行っとる二番目の兄から、
「幸三になにか変わったことはありゃせんか」
と、田舎に電報があったそうです。私が苦しんどる夢を見た、いうて。
念力ちゅうのは、確かにあるんですな。とくに肉親には、他人にはわからんテレパシーってものがあるんだと思う。
(升田幸三『名人に香車を引いた男』から)
この高熱で倒れ死にかけた話は、升田幸三が19歳の時の話。
升田と木村義雄名人の初対局はその2年後21歳の時で、場所は大阪、名人が大阪の関西社交クラブ将棋部に師範代として招かれたときに組まれた対戦。木村名人の「香落ち」である。升田は六段だった。持ち時間はわからない。
木村義雄は34歳、まだ名人になって1期目であった。次の第2期の名人戦の挑戦者を決める「名人リーグ」が進行中だったが、このリーグには70歳の阪田三吉も参加していた。阪田は升田青年に目をかけ、応援してくれていたそうだ。「あんたの将棋はええ将棋や。木村を倒すのはあんたや」
あの「南禅寺の決戦」(木村義雄-阪田三吉戦)は1937年のことで、木村義雄の名人襲位は翌1938年のことである。木村はだからこの対局時、ピカピカの大スターであった。
この1939年の香落ち戦は、升田幸三が快勝した。「香落ち」で勝ったとなれば、「平手」でどうかということになる。「平手」となれば、“同格”に近い実力をもつと認められたことと等しい。
しかし対局が終わった時、木村名人は余裕の態度だったという。そのことがまた、升田は気に入らなかった。木村名人はこうも言ったという、「負けたって、たかが座興じゃないか。」
(その将棋の記事→『無敵木村美濃とは何だったのか3』)
升田幸三が木村義雄名人に「平手」でついに対戦することになったのは、その4年後の1943年である。4年、かかっている。
この間に、3年間、升田幸三は兵役に就いている。(これがなければ、おそらく升田は八段にまでなっていたのではないか)
上にあるような急性肺炎の体験をし、健康面で少しばかり不安のある状態でもあったため、升田青年は「補充兵」であり、本来ならばこの兵役も1年くらいで帰されるところだった。ところが、“軍医のエラいの”に将棋の大好きなのがいて、除隊が延期され、だんだんと健康面でも元気になってきて、ついに丸3年を軍隊で過ごすことになってしまった。内地勤務なので危険な目にあうことはなかったが、軍隊生活で精神的には、だめになってしまったという。
この間に、将棋も弱くなってしまって、将棋観と闘志とを取り戻すのに半年かかった。
もしこの3年間の兵役がなかったら、当時無敵にちかい状態の升田であったから、八段まで昇り、八段になれば、名人挑戦権を争う「名人戦リーグ」にも参加できていただろう。それを勝ち抜けば、名人挑戦だ。名人は木村義雄である。
3年間の軍隊生活の間、升田は新聞欄で、弟弟子の大山康晴の将棋や、木村名人の将棋も見ることができた。大山の昇段は嬉しかったし、木村名人が名人位を防衛し続けていることも嬉しかった。自分が木村を倒すまでは、名人でいてくれなくては困るのである。
それにしても升田幸三の木村義雄へのこだわりは、阪田三吉が「木村を倒すのはあんたや」と魔法にかけたせいなのだろうか。あるいは、“闘志”に火を点けないと人生を面白く感じられない、元々そういう性質なのかもしれない。
当時の名人戦は2年で1期である。1940年の第2期名人戦七番勝負の挑戦者は土居市太郎、1942年第3期は神田辰之助、木村義雄はいずれも強さを見せつけて、名人位を防衛した。“不敗の名人”であった。
土居市太郎――升田幸三が13歳の時、将棋棋士という道があるじゃないか、と気づかせてくれたのはこの土居市太郎のエピソードを兄の持っていた本で読んだからであった。土居が将棋で身を立てる決心をしたのは、カリエスという病気で脚が不自由だったから。そういう話が書いてあった。そして木村時代の前、実力日本一といわれていたのが土居市太郎である。「日本一」というのが升田少年の心を揺さぶったのであろう。 そして物差しの裏に書置きを残し、升田幸三は広島の田舎を飛び出して行ったのであった。
また神田辰之助は関西の人気者であったが、この1942年の名人戦で敗れ、その1年後に病没した。
1943年、ついに木村義雄との対決が実現した。初の「平手」戦である。
升田幸三はこの時六段であったが、すでに七段に昇段する権利を得ていた。この木村との「平手」戦に勝てば、名人に「平手」で勝って棋戦優勝というわけで、八段に昇段できるのである。八段になれば、「名人リーグ」入りである。名人戦への入口がそこにあるのだ。
この棋戦は朝日番付戦という棋戦で、東の優勝者が木村義雄、そして西の優勝者が升田幸三、その東西の優勝者が決勝で闘うというしくみである。持ち時間は各10時間。今度は、勝った後「座興じゃないか」などと言えないはずだ。
だから、升田は、なにがなんでもこの将棋を勝ちたかった。
なにがなんでも勝ちたい、その将棋は次のようなオープニングで始まった。
升田木村戦3手
▲7六歩 △8四歩 ▲7五歩(図) △8五歩 ▲7七角 △7二金
この将棋は「7六歩、8四歩、7五歩」という出だしである。このオープニングは、今も昔も、使う人がほとんどいない。
いま、先手で「石田流(早石田)」が流行っているが、それは「7六歩、3四歩、7五歩」という出だしである。 先手の7六歩に、後手が8四歩ときた場合には、石田流はあきらめて、現代では振り飛車党なら、5六歩と突いて、中飛車か向かい飛車をねらう指し方が多い。
三間飛車にしたいなら、3手目に7八飛と指し、以下8五歩、7七角となって、3四歩には6六歩で角道を止める。状況をみて後で7五歩と突くことを考える――それがふつうの指し方である。
だが、昔も今も、「7六歩、8四歩、7五歩」というのはほとんどやる人がいない。理由は簡単で、4手目に8五歩と飛車先の歩を伸ばされると、7七角とするしかなく、この形がさえないと、多くの人は見ているからだ。「7五の歩」がねらわれてしまうし、プロ的には「形を決めすぎ」となる。いや、プロでなくても、それはわかる。
ところが、升田幸三だけは、この形を「わるくない」と見ているようで、時に採用しているのだった。
升田幸三だけがよくやる戦法といえば「陽動振り飛車」がある。升田幸三は妙にこれが好きで、おそらくは50局くらい「陽動振り飛車」を公式戦で指している。飛車先の歩を突いて、居飛車をやるように見せながら、振り飛車にする戦法だ。(加藤治郎が「陽動振り飛車」と名付けた)
升田幸三-山田道美 1965年
たとえばこんな形になる。この将棋はこの後、7七金から8八飛と「向かい飛車」になっている。
この3七玉から2七玉と飛車の頭に玉を乗せるこの珍妙な「陽動振り飛車」、実は大山康晴も真似して採用したことも何度かある。しかし彼らよりも若い棋士はだれも真似しなかった。
〔 7六歩、8四歩に次ぐ三手目、私は7五歩と突いた。これを見た木村名人、内心ムラムラとしたと思う。この戦法は石田流といいましてね、しろうとダマシのハメ手という程度にしか、評価されていなかったんです。なぜそんな戦法を用いたかといえば、名人には『石田撃退法』という著書があり、その本には、
「石田流なんて問題にならん。簡単にやっつけられる」
と説明してある。
だが私は独自の見解で、石田流とて捨てたもんじゃない、指し方によっては立派に通用する、と変化の手順を研究しておった。それにしても、この重大な一番に、あえて危険な戦法を採用したのは、私が名人に向かって、
「あなたが悪いと断定した石田流で、私はあなたに勝ってみせる、サァいらしゃい」と挑発しとるわけで、のっけからケンカ腰で行っとるんだ。 〕
(升田幸三『名人に香車を引いた男』)
木村義雄名人との初の「平手戦」に、あえてこれを採用したのだ。
この時代、そもそも「平手」の将棋で振り飛車をやるものはいなかった。「相掛かり」全盛の時代である。振り飛車の天才と呼ばれた大野源一(升田幸三の兄弟子)もまだ振り飛車は始めていなかった。大野源一が振り飛車を始めたのは1950年頃で、プロ棋界全体で振り飛車がふつうに指されるようになったのは大山康晴名人(大野、升田の弟弟子)が振り飛車党に転身した1960年頃からである。
そういう時代に振り飛車で、しかも先手番(振り飛車は受け身のリアクション戦法なので平手でやるなら後手番がやるものとされ、升田は先手で振り飛車を指すと師匠の木見に叱られたという)、しかも木村名人が「恐くない」という「石田流」である。
升田の7五歩、それを見て、後手番の名人は、6手目7二金である。木村義雄は、ケンカを買った。
升田木村戦6手
▲7八飛 △8三金 ▲9六歩 △8四金 ▲8八角 △6二銀 ▲6八銀 △5四歩
▲6六歩 △4二銀 ▲6七銀 △5三銀左 ▲7六銀 △3一角 ▲6五歩
この木村名人の7二金は、石田流退治の金上がりである。この後、8三~8四~7五と金を進出させ、升田の3手目7五歩を「悪手」にしてやろうという、そういう手である。だとしても、6手目に、つまり「居玉」でというのが、名人の“気持ち”を感じさせる。升田の闘志を受けて立った、そういう熱い手なのである。
対局場は、大阪だった。
大内延介-中原誠 名人1 1975年
ちなみに、こういう金上がりは昭和の時代によく見られた。若き日の中原誠(十六世名人)は、三間飛車に対してのこういう棒金戦法を得意にしていた。たとえば、1975年の「大内延介-中原誠」の名人戦七番勝負の第1局がそうであった。(この第1局は後手大内勝利。大内延介名人戦初登場初勝利の一局となった。)
あの1937年「木村義雄-阪田三吉戦」(南禅寺の闘い、阪田の2手目9四歩が有名)では、後手番阪田の振り飛車(向かい飛車から3五の位取り)に、先手の木村義雄は左金を5八~4七~3六とし、この金を攻めに使っている。これも同様の位取りに対する反応である。(『南禅寺の決戦4』)
振り飛車に対するこうした金上がりは、木村名人の“本気の証し”なのかもしれない。
この6手目7二金の図は、若き升田幸三の闘志が、木村の闘志を呼び込んだ、そういう面白い図なのである。
升田木村戦21手
△6四歩 ▲4八玉 △6三銀
序盤から、これはもう、「勝負どころ」を迎えている。
焦点は、升田の「7五」の位(くらい)である。この位を、後手は奪おうとしている。玉を囲うこともせず、左の銀を4二~5三とし、角を3一に引いた。ねらいははっきりしている。銀を6四に出て、7五銀とするねらいだ。
ということで、升田は21手目、6五歩。
6五歩を突くと、6四が争点になる。すると先手は、7筋と6筋の両方を守らねばならなくなり、負担が増える。しかしそういうことを承知の上で、研究して、升田はこの将棋を選んでいるのだ。木村名人の「7二金」からの棒金を見た時、升田は、やっぱりそう来たか、と思ったのだろうか。
21手目6五歩の、この手では、4八玉とし、6四銀に、9七角とするのもある。そこで9四歩なら、6五歩、5三銀、8八角となる。その場合も結局は6五歩を突くことになる。
升田木村戦24手
「居玉」のまま、金銀3枚と角でもって、「7五」の位(くらい)を奪取しようというのだから、後手も相当“本気”である。
この局面図、実は、『将棋世界』の鈴木宏彦氏の「新・イメージと読みの将棋観」で採り上げられたことがあるのだ。
ところが現代プロ棋士の評判は先手側にきびしい。たとえば佐藤康光は、「先手が押さえ込まれそうで自信がない。そもそも▲6五歩とつっかけるようでは自信がない。この局面は先手が忙しい。」という。森内俊之も、「形勢は後手良し。先手勝率イメージは45パーセントくらいです。」という。
面白いのは、升田幸三ただ一人は、「これで先手有利じゃ」と考えていることである。
つづきは「part39」で。
ところで――
21世紀の将棋観では、「三間飛車位取り」に対しての後手のこの「棒金」(7二~8三~8四)は、あまり好まれないと思う。今は金銀をできるだけ上がらないで戦うという傾向になってきている。
ではこの「三間飛車位取り」にこられたら実際にどう対処するのがよいか。「棒金」はその答えの一つなのだが、それをしたくないなら、どうすればよいか。
大山康晴-中原誠 名人1 1972年
こういう風に組むのが良いですよ、と、やはり、『将棋世界、新・イメージと読みの将棋観』の中で郷田真隆がこの図を示してくれていた。24歳の中原誠が49歳の大山康晴に挑戦し、4-3で名人位を奪取した歴史的名人戦七番勝負の、その第1局の将棋である。5四歩と5筋の歩を突く前に先手が7五歩とすると、後手に5四銀型にするという選択肢ができるわけだ。
郷田によれば、これで後手有利なのだという。実戦も後手中原が勝利している。
[升田幸三が死にかけた話]
高熱にうなされて、そりゃ苦しいもんです。なんかこう石垣の間にでも押し込まれたようで、息苦しいのに息ができん。必死に抜け出そうと、脂汗を流してもがく。それがあるとき、急にスーッとらくになる。神経が作用しなくんるんで、これがいわゆる危篤の状態なんですね。
「鬼才・升田幸三五段倒る」
という原稿を用意し、あとは何日の何時何分に死亡と、数字だけ入れればいいようにしとった。
先生(注;師匠木見金治郎)はあらゆる神仏に祈願をかけ、いよいよダメだと聞かされると、
「升田こそはと頼みにしとったのに、わてほど不幸なものはおまへん」と、大声で泣かれたという。広島から母と兄もかけつけましたが、兄はすっかり観念し、
「幸三よ、成仏せいや、成仏せいや」
と繰り返すばかり。
そんな中で、母だけが望みを捨てなかった。医者にすがりつくようにして、せめて鯉の生き血を飲ませてやってくれ、と懇願した。危篤の病人が飲めるはずもないのに、ともかく鯉の生き血を取って、飲ませようとした。
私が奇跡的に命をとりとめたのは、この母の愛としか考えられません。
もう一つ不思議だったのは、昏睡状態でおる間に、私の脳裏に、汽車で乗ってくる母の姿が鮮明に映ったことです。それが一人でなく、見知らぬ五、六歳の女の子を連れておる。
意識が戻って目をあけたら、その女の子が母のそばにちゃんとおるんだ。一番下の妹で、名前は芳子だという。ぜんぜん知らん顔の子が、無意識のうちにはっきり見えるんだから、肉親の情ってのはおそろしい。
そういえばおなじ時分、海軍に行っとる二番目の兄から、
「幸三になにか変わったことはありゃせんか」
と、田舎に電報があったそうです。私が苦しんどる夢を見た、いうて。
念力ちゅうのは、確かにあるんですな。とくに肉親には、他人にはわからんテレパシーってものがあるんだと思う。
(升田幸三『名人に香車を引いた男』から)
この高熱で倒れ死にかけた話は、升田幸三が19歳の時の話。
升田と木村義雄名人の初対局はその2年後21歳の時で、場所は大阪、名人が大阪の関西社交クラブ将棋部に師範代として招かれたときに組まれた対戦。木村名人の「香落ち」である。升田は六段だった。持ち時間はわからない。
木村義雄は34歳、まだ名人になって1期目であった。次の第2期の名人戦の挑戦者を決める「名人リーグ」が進行中だったが、このリーグには70歳の阪田三吉も参加していた。阪田は升田青年に目をかけ、応援してくれていたそうだ。「あんたの将棋はええ将棋や。木村を倒すのはあんたや」
あの「南禅寺の決戦」(木村義雄-阪田三吉戦)は1937年のことで、木村義雄の名人襲位は翌1938年のことである。木村はだからこの対局時、ピカピカの大スターであった。
この1939年の香落ち戦は、升田幸三が快勝した。「香落ち」で勝ったとなれば、「平手」でどうかということになる。「平手」となれば、“同格”に近い実力をもつと認められたことと等しい。
しかし対局が終わった時、木村名人は余裕の態度だったという。そのことがまた、升田は気に入らなかった。木村名人はこうも言ったという、「負けたって、たかが座興じゃないか。」
(その将棋の記事→『無敵木村美濃とは何だったのか3』)
升田幸三が木村義雄名人に「平手」でついに対戦することになったのは、その4年後の1943年である。4年、かかっている。
この間に、3年間、升田幸三は兵役に就いている。(これがなければ、おそらく升田は八段にまでなっていたのではないか)
上にあるような急性肺炎の体験をし、健康面で少しばかり不安のある状態でもあったため、升田青年は「補充兵」であり、本来ならばこの兵役も1年くらいで帰されるところだった。ところが、“軍医のエラいの”に将棋の大好きなのがいて、除隊が延期され、だんだんと健康面でも元気になってきて、ついに丸3年を軍隊で過ごすことになってしまった。内地勤務なので危険な目にあうことはなかったが、軍隊生活で精神的には、だめになってしまったという。
この間に、将棋も弱くなってしまって、将棋観と闘志とを取り戻すのに半年かかった。
もしこの3年間の兵役がなかったら、当時無敵にちかい状態の升田であったから、八段まで昇り、八段になれば、名人挑戦権を争う「名人戦リーグ」にも参加できていただろう。それを勝ち抜けば、名人挑戦だ。名人は木村義雄である。
3年間の軍隊生活の間、升田は新聞欄で、弟弟子の大山康晴の将棋や、木村名人の将棋も見ることができた。大山の昇段は嬉しかったし、木村名人が名人位を防衛し続けていることも嬉しかった。自分が木村を倒すまでは、名人でいてくれなくては困るのである。
それにしても升田幸三の木村義雄へのこだわりは、阪田三吉が「木村を倒すのはあんたや」と魔法にかけたせいなのだろうか。あるいは、“闘志”に火を点けないと人生を面白く感じられない、元々そういう性質なのかもしれない。
当時の名人戦は2年で1期である。1940年の第2期名人戦七番勝負の挑戦者は土居市太郎、1942年第3期は神田辰之助、木村義雄はいずれも強さを見せつけて、名人位を防衛した。“不敗の名人”であった。
土居市太郎――升田幸三が13歳の時、将棋棋士という道があるじゃないか、と気づかせてくれたのはこの土居市太郎のエピソードを兄の持っていた本で読んだからであった。土居が将棋で身を立てる決心をしたのは、カリエスという病気で脚が不自由だったから。そういう話が書いてあった。そして木村時代の前、実力日本一といわれていたのが土居市太郎である。「日本一」というのが升田少年の心を揺さぶったのであろう。 そして物差しの裏に書置きを残し、升田幸三は広島の田舎を飛び出して行ったのであった。
また神田辰之助は関西の人気者であったが、この1942年の名人戦で敗れ、その1年後に病没した。
1943年、ついに木村義雄との対決が実現した。初の「平手」戦である。
升田幸三はこの時六段であったが、すでに七段に昇段する権利を得ていた。この木村との「平手」戦に勝てば、名人に「平手」で勝って棋戦優勝というわけで、八段に昇段できるのである。八段になれば、「名人リーグ」入りである。名人戦への入口がそこにあるのだ。
この棋戦は朝日番付戦という棋戦で、東の優勝者が木村義雄、そして西の優勝者が升田幸三、その東西の優勝者が決勝で闘うというしくみである。持ち時間は各10時間。今度は、勝った後「座興じゃないか」などと言えないはずだ。
だから、升田は、なにがなんでもこの将棋を勝ちたかった。
なにがなんでも勝ちたい、その将棋は次のようなオープニングで始まった。
升田木村戦3手
▲7六歩 △8四歩 ▲7五歩(図) △8五歩 ▲7七角 △7二金
この将棋は「7六歩、8四歩、7五歩」という出だしである。このオープニングは、今も昔も、使う人がほとんどいない。
いま、先手で「石田流(早石田)」が流行っているが、それは「7六歩、3四歩、7五歩」という出だしである。 先手の7六歩に、後手が8四歩ときた場合には、石田流はあきらめて、現代では振り飛車党なら、5六歩と突いて、中飛車か向かい飛車をねらう指し方が多い。
三間飛車にしたいなら、3手目に7八飛と指し、以下8五歩、7七角となって、3四歩には6六歩で角道を止める。状況をみて後で7五歩と突くことを考える――それがふつうの指し方である。
だが、昔も今も、「7六歩、8四歩、7五歩」というのはほとんどやる人がいない。理由は簡単で、4手目に8五歩と飛車先の歩を伸ばされると、7七角とするしかなく、この形がさえないと、多くの人は見ているからだ。「7五の歩」がねらわれてしまうし、プロ的には「形を決めすぎ」となる。いや、プロでなくても、それはわかる。
ところが、升田幸三だけは、この形を「わるくない」と見ているようで、時に採用しているのだった。
升田幸三だけがよくやる戦法といえば「陽動振り飛車」がある。升田幸三は妙にこれが好きで、おそらくは50局くらい「陽動振り飛車」を公式戦で指している。飛車先の歩を突いて、居飛車をやるように見せながら、振り飛車にする戦法だ。(加藤治郎が「陽動振り飛車」と名付けた)
升田幸三-山田道美 1965年
たとえばこんな形になる。この将棋はこの後、7七金から8八飛と「向かい飛車」になっている。
この3七玉から2七玉と飛車の頭に玉を乗せるこの珍妙な「陽動振り飛車」、実は大山康晴も真似して採用したことも何度かある。しかし彼らよりも若い棋士はだれも真似しなかった。
〔 7六歩、8四歩に次ぐ三手目、私は7五歩と突いた。これを見た木村名人、内心ムラムラとしたと思う。この戦法は石田流といいましてね、しろうとダマシのハメ手という程度にしか、評価されていなかったんです。なぜそんな戦法を用いたかといえば、名人には『石田撃退法』という著書があり、その本には、
「石田流なんて問題にならん。簡単にやっつけられる」
と説明してある。
だが私は独自の見解で、石田流とて捨てたもんじゃない、指し方によっては立派に通用する、と変化の手順を研究しておった。それにしても、この重大な一番に、あえて危険な戦法を採用したのは、私が名人に向かって、
「あなたが悪いと断定した石田流で、私はあなたに勝ってみせる、サァいらしゃい」と挑発しとるわけで、のっけからケンカ腰で行っとるんだ。 〕
(升田幸三『名人に香車を引いた男』)
木村義雄名人との初の「平手戦」に、あえてこれを採用したのだ。
この時代、そもそも「平手」の将棋で振り飛車をやるものはいなかった。「相掛かり」全盛の時代である。振り飛車の天才と呼ばれた大野源一(升田幸三の兄弟子)もまだ振り飛車は始めていなかった。大野源一が振り飛車を始めたのは1950年頃で、プロ棋界全体で振り飛車がふつうに指されるようになったのは大山康晴名人(大野、升田の弟弟子)が振り飛車党に転身した1960年頃からである。
そういう時代に振り飛車で、しかも先手番(振り飛車は受け身のリアクション戦法なので平手でやるなら後手番がやるものとされ、升田は先手で振り飛車を指すと師匠の木見に叱られたという)、しかも木村名人が「恐くない」という「石田流」である。
升田の7五歩、それを見て、後手番の名人は、6手目7二金である。木村義雄は、ケンカを買った。
升田木村戦6手
▲7八飛 △8三金 ▲9六歩 △8四金 ▲8八角 △6二銀 ▲6八銀 △5四歩
▲6六歩 △4二銀 ▲6七銀 △5三銀左 ▲7六銀 △3一角 ▲6五歩
この木村名人の7二金は、石田流退治の金上がりである。この後、8三~8四~7五と金を進出させ、升田の3手目7五歩を「悪手」にしてやろうという、そういう手である。だとしても、6手目に、つまり「居玉」でというのが、名人の“気持ち”を感じさせる。升田の闘志を受けて立った、そういう熱い手なのである。
対局場は、大阪だった。
大内延介-中原誠 名人1 1975年
ちなみに、こういう金上がりは昭和の時代によく見られた。若き日の中原誠(十六世名人)は、三間飛車に対してのこういう棒金戦法を得意にしていた。たとえば、1975年の「大内延介-中原誠」の名人戦七番勝負の第1局がそうであった。(この第1局は後手大内勝利。大内延介名人戦初登場初勝利の一局となった。)
あの1937年「木村義雄-阪田三吉戦」(南禅寺の闘い、阪田の2手目9四歩が有名)では、後手番阪田の振り飛車(向かい飛車から3五の位取り)に、先手の木村義雄は左金を5八~4七~3六とし、この金を攻めに使っている。これも同様の位取りに対する反応である。(『南禅寺の決戦4』)
振り飛車に対するこうした金上がりは、木村名人の“本気の証し”なのかもしれない。
この6手目7二金の図は、若き升田幸三の闘志が、木村の闘志を呼び込んだ、そういう面白い図なのである。
升田木村戦21手
△6四歩 ▲4八玉 △6三銀
序盤から、これはもう、「勝負どころ」を迎えている。
焦点は、升田の「7五」の位(くらい)である。この位を、後手は奪おうとしている。玉を囲うこともせず、左の銀を4二~5三とし、角を3一に引いた。ねらいははっきりしている。銀を6四に出て、7五銀とするねらいだ。
ということで、升田は21手目、6五歩。
6五歩を突くと、6四が争点になる。すると先手は、7筋と6筋の両方を守らねばならなくなり、負担が増える。しかしそういうことを承知の上で、研究して、升田はこの将棋を選んでいるのだ。木村名人の「7二金」からの棒金を見た時、升田は、やっぱりそう来たか、と思ったのだろうか。
21手目6五歩の、この手では、4八玉とし、6四銀に、9七角とするのもある。そこで9四歩なら、6五歩、5三銀、8八角となる。その場合も結局は6五歩を突くことになる。
升田木村戦24手
「居玉」のまま、金銀3枚と角でもって、「7五」の位(くらい)を奪取しようというのだから、後手も相当“本気”である。
この局面図、実は、『将棋世界』の鈴木宏彦氏の「新・イメージと読みの将棋観」で採り上げられたことがあるのだ。
ところが現代プロ棋士の評判は先手側にきびしい。たとえば佐藤康光は、「先手が押さえ込まれそうで自信がない。そもそも▲6五歩とつっかけるようでは自信がない。この局面は先手が忙しい。」という。森内俊之も、「形勢は後手良し。先手勝率イメージは45パーセントくらいです。」という。
面白いのは、升田幸三ただ一人は、「これで先手有利じゃ」と考えていることである。
つづきは「part39」で。
ところで――
21世紀の将棋観では、「三間飛車位取り」に対しての後手のこの「棒金」(7二~8三~8四)は、あまり好まれないと思う。今は金銀をできるだけ上がらないで戦うという傾向になってきている。
ではこの「三間飛車位取り」にこられたら実際にどう対処するのがよいか。「棒金」はその答えの一つなのだが、それをしたくないなら、どうすればよいか。
大山康晴-中原誠 名人1 1972年
こういう風に組むのが良いですよ、と、やはり、『将棋世界、新・イメージと読みの将棋観』の中で郷田真隆がこの図を示してくれていた。24歳の中原誠が49歳の大山康晴に挑戦し、4-3で名人位を奪取した歴史的名人戦七番勝負の、その第1局の将棋である。5四歩と5筋の歩を突く前に先手が7五歩とすると、後手に5四銀型にするという選択肢ができるわけだ。
郷田によれば、これで後手有利なのだという。実戦も後手中原が勝利している。