はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか

2013年06月30日 | しょうぎ
 この図は2008年の女流棋戦倉敷藤花戦(三番勝負)の第2局の将棋。
 先手番、里見香奈(当時16歳)の、“初手5六歩”。


 今日は“初手5六歩”がテーマです。

 里見さんは第1局と、この第2局を勝って、2―0で「倉敷藤花」のタイトルを奪取、、初タイトル獲得となったのでした。(里見さんはこのタイトル戦の前までは清水市代に勝てず、4戦全敗だったのです。)
 “初手5六歩”の将棋で初タイトルを決めたのでした。以後の活躍はご存じのとうりです。

 その2年後に甲斐智美さんがやはり初タイトルを獲得します。そのマイナビ女王戦五番勝負の第1局に指した甲斐さんの手が、やはり、“初手5六歩”でした。

 また、昨年、16歳の、女流プロになったばかりの長谷川優貴さんがマイナビ女王戦五番勝負の挑戦者となりました。上田初美女王には勝てずタイトル獲得とはなりませんでしたが、これは前途洋々たる未来を感じさせてくれます。その長谷川さんの先手番の得意戦法は、“初手5六歩”から始まるのでした。

 振り飛車の棋士の中では、“初手5六歩”はもう、「ふつうの手」になってきました。
 居飛車党だった矢内理絵子さんまでが“初手5六歩”を今では指すという事実! 

  
 しかし今から22年前、林葉さんがその手を指した時には、彼女にしか指せない、“異端の手”に思われたのです。指す人はまずほとんどいなかったためです。

 女流棋士では、“初手5六歩”を指した最初の棋士は、林葉直子さんです。
 前々回記事でもお伝えした通り、その“初手5六歩”を指した女流名人戦五番勝負に3―1で勝った林葉さんは、4年ぶりに「女流名人位」に返り咲き、「女流王将」も連覇中でしたから「二冠王」となったのでした。
 1991年のことでした。

林葉直子-清水市代 1991年 女流名人3
 これは女流名人戦五番勝負の、その第3局の初手でした。ただしこの将棋は清水さんのうまく指した将棋になり、林葉さんの負けになっています。
 林葉さんはこの対局を初めとして、“初手5六歩”を3回、女流プロ時代に指しています。


 さて、では男子プロを含めた一般プロ棋士ではどうなのでしょう?
 実は、大正時代にも、戦後の昭和にも、“初手5六歩”を指した棋士はいることはいます。そう多くはありませんが。そしてその手の「意味」もそれぞれ時代、人物によってかなり違いがあります。それについて、今日は触れていきたいと思います。


 ところで―――

菅井竜也-阿部健次郎 2013年
 これは、先日に行われたC級1組順位戦の1回戦、「菅井竜也-阿部健次郎戦」の将棋ですが、この将棋の初手が菅井竜也五段の“5六歩”でした。
 菅井さんは振り飛車党ですから「中飛車」に振りますが、対する後手の阿部さんは「三間」に飛車を振って「相振り飛車」となりました。
 ここまでは驚きはありません。見たことのある将棋です。
 僕があっ!と驚いたのは、この後の展開です。


 先手の菅井さんの「玉」を見てください!! 「左穴熊」です!!
 この将棋は菅井竜也の勝ちとなりました。穴熊に囲った菅井玉が堅く、どううまく戦ってももう後手はかなわない、そういう棋勢にすでになってしまっているのでした。菅井さんの新構想が優れていたのです。


 いったい、“初手5六歩”の世界に、何が起こっているのでしょうか!?



坂田三吉-土居市太郎 1921年
 “初手5六歩”は約100年くらい前から、指されています。江戸時代に“初手5六歩”の棋譜はなさそうですが、大正時代には見られます。
 たとえばこれは、坂田三吉の“初手5六歩”の将棋です。
 しかし、坂田さんは「中飛車」を指すつもりで“初手5六歩”を突いているわけではありません。これは4八銀から5七銀として、早く中央に銀を進出させたい、という意図からくるものなのです。


 大正時代から昭和の戦前・戦中の時代の平手の将棋は、「5筋を突く相掛かり」が主流戦法で、“中央での戦い”が非常に重視されました。
 ということで、「坂田-土居戦」は、このようになりました。しかし先手も後手も中央に駒を集めた結果、中央でのお互いの力が拮抗して、そこからもう攻めることができなくなっています。そこで図から、後手は8筋に飛車を戻し、先手は角を7七から6八へと転換し、そこから2六飛として3五歩から開戦――という将棋になっています。
 当時も、“初手5六歩”は少数派の手ではあったのですが、5六歩を突きたくてしかたのない当時の将棋の流行からしても、不思議でもなんでもない自然な手だったと言えそうです。
 この将棋「坂田-土居戦」は“指しかけ”で終わっています。関根金次郎が十三世名人に襲位するためのその式典で指された将棋のようです。


根岸勇-木村義雄 1921年
 これは上の「坂田-土居戦」の1か月ほど前の対局。後手は木村義雄(後の名人)で、この当時16歳。
 この将棋もまた、先手の根岸勇という棋士が“初手5六歩”を突いて始まった将棋です。
 ここで先手の手番ですが、6八銀上とか、2六歩ならまだ駒組みがゆるやかに進められたのでしょうが、ここで根岸氏が5五歩(同歩に同角)と指したので、後手の木村さん、6四銀~5二飛として攻勢の形を取った。


 木村、角を切って銀を取り、5七に打ち込む。
 このようになった時、中央での戦いになりますから、初手に「2六歩」などと突いていても無駄手になります。だから2六歩よりも5六歩の方が価値が高いと考えるのは、当時としては「一理ある考え」となりますね。


 こういう戦いというのは、だいたいあっさり短手数で決着するのですが、この将棋はここから約100手続く熱戦となりました。

投了図
 木村義雄の勝ち。



 戦後になりますと、「5筋を突かない相居飛車」(相掛り、角換わり、矢倉)が指されるようになりました。5筋を突く手も廃れたというわけではないです。しかし、そういう風潮になると、あんまり早く5筋の歩を突いて「形を決める」のはどうもよくないという感じになるわけです。だから“初手5六歩”なんて人はまず、いなくなった。「棋譜でーたべーす」を調べても、戦後の棋譜で“初手5六歩”の棋譜は、1990年まで、現れない。たった一つの棋譜を除いては。
 その、たった一つの“初手5六歩の棋譜”というのが、間宮久夢斎の指した“初手5六歩”から始まる棋譜なのでした。

間宮純一-加藤恵三 1950年
▲5六歩(図) △3四歩 ▲7六歩 △8八角成 ▲同銀 △5七角
 後に自ら間宮久夢斎(まみやきゅうむさい)などという玄妙な名前で名乗っていたのが、本名は間宮純一という棋士。間宮久夢斎ってなんだか昔の古い漫画の中の悪役キャラみたいな名前ですね。
 間宮純一は升田・大山時代の将棋棋士。ずっとC級順位戦で指していた棋士で、そこから上がることはなかった。勝率は3割くらいだったらしい。
 この間宮久夢斎、かならず“初手5六歩”を突いたという。
 この棋譜は将棋雑誌に掲載されたもので、それで棋譜が残り一般にも知られている。この時代の棋譜は新聞等に掲載されたもの以外はすべて陽の目を見ずおそらくは日本将棋連盟の倉庫に眠っている。面白い棋譜も色々とあると思われるが一般の私たちには見るすべがない。

 間宮久夢斎が“初手5六歩”と初手に突くのはなぜか。それは彼の将棋は「入玉ねらい」だからなのである。「入玉」をするのに最も最善の方法が、“5六歩”である、と間宮久夢斎は考え、それを実行していたということだ。勝率は3割だが、その信念の強さだけはどうやら筋金入りだったと見える。
 だれがなんと言おうとも、“初手5六歩”で「入玉」をねらう。それが彼の「最善手」なのだった。
 「5六歩、これは“久夢流”の絶対の着手。香落ちだろうが、角落ちだろうが、何でも私の第一着手は中央の歩です。


▲4八銀 △2四角成 ▲6八金 △2二銀 ▲7七銀 △6二銀 ▲6九玉 △5四歩
▲7八玉 △4二馬 ▲5七銀 △3三銀 ▲4六歩 △4四歩 ▲6六銀右 △7四歩
▲5五歩 △同歩 ▲5八飛
 5七角と後手に打たせる指し方。この戦法は古くからあるようだ。
 戦後、8八角成に同銀と取るところを、「同飛」に変えて、以下、5七角に、6八銀、2四角成、7七桂という指し方を大野源一(振り飛車の天才と呼ばれた棋士)が編み出し、これで勝ち星をよく稼いでいた。これは余談。 


△5二金右 ▲5五銀 △3二金 ▲5四歩 △3五歩 ▲3八金 △4三金右 ▲4七金 △3四銀
▲2六歩 △5二歩 ▲6六歩 △8四歩 ▲6五歩 △8五歩 ▲6七金 △4一玉
▲6六金 △9四歩 ▲3六歩 △同歩 ▲同金 △3五歩 ▲3七金 △3一玉
▲1六歩 △1四歩 ▲4七金 △2二玉 ▲3七桂 △3三桂 ▲5九飛 △8四飛 ▲5六金上
 いよいよ先手から動いた。5五歩、同歩、5八飛。
 とにかく、中央を制圧する。そして玉が敵陣をめざして進んでいく。そういうことのようだ。
 「だから端の歩なぞは突いたことがない。」
 その方針は面白いが、そんなこと、うまくいくのだろうか。
 久夢斎が言うには、「敵陣ほど堅固な要塞はない」のだと。なるほど、それはそうかもしれない。
 さらに、言う。「美濃囲いや矢倉を堅陣と思うのは錯覚。金銀三枚が玉にくっついて遊び駒になっている。」


△3六歩 ▲4五歩 △同桂 ▲同桂 △2四馬 ▲2五歩
 いま、4七の金を5六に上がったところ。後手3六歩が気になるがそれは承知の上こと。3六歩に、4五歩と突く。なるほど、3七歩成なら、4四歩がある。それで後手は、4五歩を同桂として、同桂に、2四馬と馬を使う。
 間宮、2五歩。


△2五同銀 ▲4四銀 △同金 ▲5五金左
 2五同銀と銀をそっぽのに行かせて、4四銀、同金、5五金左。これを同金と後手に取らせて――


△5五同金 ▲4四角 △1二玉 ▲5五金 △6六銀
 4四角と打つのが間宮のねらい。これは彼にとって「作戦成功」らしい。
 しかし、これ、「入玉」できるのか?
 たぶん、6二角成から後手の歩を払っていくということなのだろうが、入玉は無理じゃね?
 この将棋は間宮の玉は「二段目」だが、正式な“久夢流”は本来は玉は「三段目」に
置いておくらしい。


▲6六同銀 △6八金 ▲7七玉 △5九金 ▲3五銀 △7九飛 ▲6七玉 △6九飛成 ▲6八金
 6六銀は、同銀と取る。
 雑誌では、間宮久夢斎、「△6八金と大事な金を使わせては先手方負けのない棋勢となったようです。」と述べているようだ。
 ほんとかよ…。とてもはっきり先手良しとも思えないが。 
 後手は7九飛の手で、なにか他の良い手はなかったかなあ。


△3五馬 ▲同角 △5八銀 ▲5六玉 △3四銀 ▲5七角 △8九龍
▲4四金 △4五銀 ▲同玉
 6七玉と一段上がった。これが“久夢流”。
 これで優勢だといい切るセンスが凄いね。


△4三歩 ▲3四金 △3三桂 ▲3六玉 △4四桂 ▲2六玉 △4七銀不成
▲4一角 △3六銀成 ▲1七玉 △2二玉 ▲2四桂
 ついに玉は五段目に。
 けれども、やっぱ「入玉」は無理だ。

投了図
まで105手で間宮純一の勝ち
 でも勝った。
 この将棋は間宮氏いわく、「(入玉ねらいの)“久夢流”を紹介するのには適当ではない」とのこと。(入玉はしてないからね。)
 かなうなら、真の“久夢流”の棋譜を見てみたいものです。


 この間宮久夢斎に関するものを少し読んで、喋らせると話のとても面白い、その反面、うそとはったりの上手な人物かな、という印象を僕は持ちました。将棋のような“遊び”は、まあ、こういう人物がいると話題になっておもしろいかも、ですけどね。
 この将棋も、これ、たまたま勝てただけだろ~、って感じました。実際はよくわからないです。

 間宮純一氏、結構な資産家の家に生まれて、しかし甘やかされて育ったために困った大人になったというような兄弟の回想もあり、そして晩年はアル中だったようです。そして70年頃に亡くなった。
 原田泰夫(近藤正和の師匠)の著書の中に、この間宮久夢斎のエピソードがあるらしいのですが、読んでみたいです。機会を見つけて図書館で探して見ます。
 ネット情報によれば、およそこういう話のようです。
 間宮がお金の無心に升田幸三の家に行った、その時升田は留守で夫人がいて、その夫人からもらった金が少なかったので腹が立って升田家の家の表札を踏みつけた。そこへ升田幸三が帰ってきて、事情を聴くと、家の表札を踏むとは何ということだと怒り、日本刀を持って間宮を追いかけた。(升田は日本刀が好きで所持していた。)間宮はあわてて逃げた。升田は大山康晴に電話をして、間宮が金を借りにそっちに行くかもしれないから気をつけろと連絡した。大山は家のカギを掛けて間宮を入れなかった。間宮が大山家から離れると、大山は原田泰夫に連絡をしてあんたもカギを掛けときなさいという。それでも原田は間宮を家に入れたという。そんな話。
 まあそういうこととかあって、この間宮純一(久夢斎)、将棋連盟から勧告を受けて1957年に退会となったようです。
 また、加藤治郎氏が70年代に、間宮純一のことを回顧して次のように記しています。
 〔将棋も性格も型やぶり、こういうのを面白いという人物もいた。が、管理社会の今日となっては生存不能であろう。〕

 この間宮純一、溝呂木光治の弟子なのですが、さらに溝呂木光治という棋士は、小野五平十二世名人の唯一の弟子。間宮さんが将棋界から離れていったことで、小野名人の系譜はこれで途絶えました。
 その小野五平名人の師はwikipediaでは天野宗歩となっていますが、これは違うと思います。僕は天野宗歩の弟子ではないとそう書いてある文献を読みまして(たぶん『日本将棋体系』の山本亨介氏の文章)、そっちのほうが正しいように思いました。では誰の弟子なのかというと、ちょっといまは思い出せません。天野宗歩に小野名人が教えを受けていたことは事実かもしれませんが、小野五平氏が、「わしは天野宗歩の弟子で」とそう言ってておいた方が当時の世間的に受けが良く、かっこいいから、それで本人が勝手にそう名乗っていたのではないでしょうか。小野五平という人も、ちょっと妖しいところのある人物です。
 (「溝呂木光治-木村義雄戦 1927年」→『1937 木村新名人誕生の一局』)
 

 本題に戻って、“初手5六歩”のこと。
 間宮久夢斎のそれは、「初手から入玉をめざす」という彼個人の信念によるものでした。実際にはこの間宮純一の指したであろう“初手5六歩”の棋譜はいくつもあって、将棋連盟の倉庫に眠っているということです。



 さて、1990年になって、「河口俊彦-佐藤大五郎戦」、「木下浩一-淡路仁茂戦」で“初手5六歩”が現れています。(「棋譜でーたべーす」で調べました。)
 その次が上でも述べた「林葉直子-清水市代戦」(1991年女流名人戦第3局)になります。
 それは2月の対局でしたが、そのすぐ後、4月に、こんどは王将戦三番勝負の舞台で、林葉直子は二度目の“初手5六歩”。

林葉直子-斎田晴子 1991年 女流王将2
 5六歩、3四歩、5八飛、3二飛――から始まりました。「相振飛車」です。
 このオープニングは重要です。
 実はいま、初手5六歩”に対するもっとも有効な後手の指し方として、この手順が考えられています。斎田晴子さんとしては、自身は振り飛車しか指さない純粋振り飛車党ですから、この将棋では自然に指してこうなっただけなのですが。しかし歴史的事実として、この「初手5六歩」に対する「3二飛からの相振飛車」を最初に指した棋士は誰かと問われれば、それは、斎田晴子、なのです。


 これは第2局ですが、第1局も「相振飛車」でした。第1、2局共に勝利を得た林葉直子が「女流王将」を防衛しました。なんと10連覇の達成となりました。女流王将10連覇を“初手5六歩”の将棋で決めたのでした。
 林葉直子さんは、振り飛車党でしたが、相手が振り飛車党の時は、基本、自分は居飛車で指す、というタイプの棋士でした。なので「相振飛車」は少ないのですが、この時期は、新しい将棋に意欲的でした。居飛車の相掛かりなどもこの頃に指し始めています。



 林葉直子さんが“初手5六歩”の将棋を指したりしていた頃、近藤正和さんはまだ奨励会員でした。(林葉は、近藤より3つ年上で、羽生より2つ上。)
 林葉さんが日本将棋連盟を突然に退会したその1年後、近藤さんは奨励会三段リーグをついに勝ち抜いて、奨励会卒業を決めました。
 近藤さんは1996年10月にプロ棋士デビュー。「ゴキゲン中飛車」で暴れまわります。
 「ゴキゲン中飛車」は基本、後手番の戦法です。これを先手でやるにはどうすればよいか。端歩を突いて一手パスをすればよい。いや、もっと良い方法がある、初手に“5六歩”と突くことだ。
 近藤さんはこの“初手5六歩”から始まる先手番の中飛車を「新ゴキゲン中飛車」と名付けて本の題名にもして解説しています。(2003年)

近藤正和-木村一基 1999年
 近藤正和は“初手5六歩”の中飛車を1998年から指し始めている。その頃“初手5六歩”を指すのは近藤のみだったが、2000年から、“初手5六歩”党に加わったのが、田村康介と、女流のベテラン蛸島彰子だった。

 「ゴキゲン中飛車」は2002年に佐藤康光がタイトル戦で採用していよいよ脚光を浴びるようになった。これを多くの棋士が積極的に使うようになっていったのは、2004年頃からのこと。
 それまで人気度の高かった振飛車の戦法は「四間飛車」だったが、それが徹底的に研究され、「藤井システム」で思うようには勝てなくなって、それで振り飛車党が「ゴキゲン中飛車」にしかたなく流れたという面がある。
 ところが、実際に使ってみると、これが思った以上に優秀で変化に富んでいて面白いということに、やっと、プロ棋士たちは気づきはじめた。
 そうなると、後手番の戦法「ゴキゲン中飛車」を先手でも使えたらいいのに、と考える者があらわれるのは自然な流れだろう。そうして、徐々に“初手5六歩”の使い手も増えていった。



 久保利明さんが“ゴキゲン中飛車組合”に本格的に仲間入りするのは2006年です。久保さんにとって2005年は最悪の成績で、勝率は4割を下回ってしまいました。ところが「ゴキゲン」を使いこなすようになって、久保さんの調子はどんどん上がりました。そして2009年には初タイトル「棋王」を獲得し、2010年にはついに羽生善治から「王将」を奪取。どちらのタイトル獲得も、決めた将棋は「ゴキゲン中飛車」でした。

久保利明-郷田真隆 2005年
 この将棋は久保さんの“ゴキゲン組合”本格参入前の2005年の対局(王将リーグ)の将棋ですが、“初手5六歩”と指しています。
 初手から、5六歩、8四歩、7六歩、8五歩、7七角、5四歩、で、この図。
 初手5六歩に8四歩と後手が指せば、だいたいこうなる。後手が5四歩としなければ、先手は5五歩と突けて、これはまさしく「先手番ゴキゲン中飛車」。そうはさせない(5五歩はゆるさん)ということで5四歩と後手は指す将棋が多い。これは「ゴキゲン中飛車」と少し違うので「先手中飛車」と呼ばれることになる。

 ただし、この「久保-郷田戦」は、先手の久保さんがここで中飛車にせず8八飛として、序盤からちょっと動きの多い展開になりました。まだ久保さんは“ゴキゲン中飛車組合”の正式会員になっていなかったので、中飛車を遠慮したんですかね(笑)。
 この時の久保さんの“初手5六歩”は、「ゴキゲン中飛車」をやるためではなく、角交換から成角をつくらせるいわゆる「力戦模様」のねらいですね。

 8八飛、3四歩、2二角成、同銀、5三角、5七角、9六歩、8四角成、5八飛、6二銀。 


 久保さんが9六歩と突いたのは、6二銀と角を追われた時に、9七角成とここに角を成るため。
 この将棋は総手数203手という熱戦になりました。

投了図
 久保利明の勝ち。 2八にいた久保玉は9七まで逃げています。


 それにしても、「ゴキゲン中飛車」はこうしてみると、皆がが考えていた以上の、ものすごい“宝の山”だったようですね。
 なにより、“6六歩を突かない振り飛車”というのが、思った以上の面白さだったということです。


 
 次は、女流棋士編です。


里見香奈-清水市代 2008年 倉敷藤花2

 里見香奈。なかなか勝てなかった清水市代に“初手5六歩”で勝って、初タイトル。
 里見香奈が生まれたのは1992年3月。林葉直子が女流タイトル戦で“初手5六歩”を指したのは、里見の誕生のその1年前1991年のことだった。


甲斐智美-矢内理絵子 2010年 マイナビ女王1
 甲斐智美。26歳で初タイトル。マイナビ女王戦5番勝負、優勝賞金は500万円。
 この第1局が“初手5六歩”からの中飛車だった。


長谷川優貴-甲斐智美 2011年
 そして、ついに、プロの将棋指しになって、その最初に指した手が“5六歩”という女流棋士が現れた!
 16歳長谷川優貴(はせがわゆうき)は2011年10月に3級から2級となった。それは正式に女流プロ棋士として資格を得たということ。
 マイナビオープントーナメント。長谷川の初対局の相手は強敵、甲斐智美。
 “5六歩”!
 
 この将棋は、両者振り飛車党なので、「相振飛車」となった。 


 そしてその対局は195手、持将棋となった。引き分けであり、これは指し直しとなる。もう一局!
 その「指し直し局」も「相振飛車」。 これを長谷川優貴が制して、プロ初勝利!


長谷川優貴-清水市代 2012年 マイナビ挑決
 プロ入り数か月で長谷川優貴はマイナビオープンの挑戦者決定戦にまで登ってきた。(予選にはプロになる前から参加して勝ち抜いてきていた。)
 清水市代を倒せば、プロ入り半年でタイトル戦の挑戦者という快挙となるという対局。
 この一戦で16歳の少女の長谷川の指した初手は、やはりここでも、“5六歩”!

 長谷川優貴、清水を倒して、マイナビ女王戦五番勝負の挑戦者となる。


 なぜ今、女流プロ棋士に“初手5六歩”が多いのでしょうか。
 単純に、「ゴキゲン中飛車」を得意とする振り飛車党が女流プロの中に多いからですが、それにしても、多い。今後ますます増えていくのでしょうか。



 そもそも、なぜ“初手5六歩”なのか、そこを考えてみましょう。
 初手7六歩ではなぜいけないのか。

参考図
 これは初手から、「先手7六歩、後手3四歩」とした図です。
 こうなると…これは中飛車にはできませんね!
 5六歩とここで突くと、角交換から△5七角がある。(後手番ならこの手がない。) 5八飛には、やはり角交換されて今度は△4五角と打たれていけない。
 先手7六歩に、後手8四歩の場合は、以下5六歩、8五歩、7七角、5四歩、5八飛となる。これはいわゆる「先手中飛車」でこれなら先手、望むところ。
 つまり、「初手7六歩」に後手が「8四歩」なら先手は中飛車にできるけれど、「3四歩」の場合は、中飛車は指せない、ということになります。

 振り飛車党が、角道を止めない振り飛車をめざすようになって、浮かび上がった困った問題がこの図なのです。「7六歩、3四歩」のとき、次の指し手に先手の振り飛車党は困ってしまうのです
 (先手の人が)居飛車党の場合ならば、まったく困らない。「2六歩」と突く。自然な手です。
 先手が「振り飛車を指したい」場合、「2六歩」以外の手を指すことになるが、その手が、ないのである。(正しくは、「多くない」。)
 以前なら、「6六歩」でよかった。ところが今の「ゴキゲン中飛車党」は、“角道を止めないまま振り飛車にしたい”と思っている。ということなら、「6六歩」もない。
 「1六歩」や、「9六歩」はどうか。これはいちおうある。あるけれど、「1六歩」には1四歩、「9六歩」には9四歩とされると、次に何を指すかという問題はそのまま残ってしまっている。
 では、「ある手」は何なのか。
 答えは2つあって、一つは「7五歩」、もう一つは「6八飛」である。
 いま、プロ棋士の振り飛車党の中でよく指されているのがこの2つなのです。(10年前とずいぶんな変わりようですよね。)
 一番有力とされているのが「7五歩」で、たとえば久保さんが先手なら「石田流(7五歩)」、後手なら「ゴキゲン中飛車」というスタイルで指しているのですが(里見香奈さんや甲斐智美さんも同じです)、「7五歩」以外、他に先手で有力なスタイルが見つからないという意味でもあるのです。
 しかし、先手番の時、いつもいつも「7五歩石田流」というのも単純すぎる。相手に事前研究されやすいし、同じ将棋ばかりでは息苦しい感じになる。この石田流の対策が進みすぎてしまったら振り飛車党は困ってしまう。なのでもうひとつ別の有力戦術がほしい。
 ということで、じゃあ“初手5六歩”から「先手のゴキゲン中飛車」をやればいいのでは、という考えに至るわけです。これが“初手5六歩”を彼ら彼女らが指している理由だと僕はとらえています。
 
 “初手5六歩”に、「後手3四歩」だったら、先手は「5八飛」とすればよい。(2手目8四歩なら7六歩と指す。)
 これで先手は相手が2手目に、「3四歩」でも、「8四歩」でも、どちらでも中飛車がさせますね。ということで振り飛車党は、先手番の時、「石田流(3手目7五歩)」と「ゴキゲン中飛車(初手5六歩)」の二つの戦法を、いつでも指せるようにできる、そういう自由を手に入れたのです。(もう一つ、最近は「角交換振飛車」がある。それに「6六歩型」のノーマル振飛車もダメというわけではない。)


 ちょっと横道にそれますが、この参考図(7六歩、3四歩)から3手目に「5八飛」と公式戦で指した棋士が一人だけいます。
 林葉直子さんです。

林葉直子-斎田晴子 1991年
 上で紹介した、“初手5六歩”の翌日の同じカードの対戦。
 この3手目「5八飛」は、常識的には“ない手”です。8八角成~4五角があるからです。もちろん林葉さんはわかっていてこう指したのです。4五角、やってみなさい、と。
 (この将棋は別記事でまた紹介するつもりです。これがまた面白い将棋なんだ。)

 それにしても、今日紹介した「初手5六歩を指した棋士」の中で、坂田三吉、間宮純一、林葉直子と、将棋連盟を(引退ではなく)途中退会した人物が何人も含まれているというのも、「“初手5六歩”には何かがある」なんて妙なことを思わせられてしまいます。(蛸島彰子さんもそうですね。)



 さて、今年2013年の『将棋世界』4月号の久保利明の連載講座の中で、久保さんは「初手5六歩はいまはもう指すことをやめた」というようなことを述べています。
 なぜでしょうか。
 その答えを言いますと、「5六歩、3四歩、5八飛、3二飛」のその先の展開が先手面白くない、というのがその理由です。(上で紹介した「林葉直子-斎田晴子 1991年」の図面をもう一度ご覧ください)


久保利明-渡辺明 2009年
 これは2009年暮れの対局。NHK杯の対局で、放送は翌年1月だったようだ。
 初手より、「5六歩、3四歩、5八飛、3二飛、5五歩、3五歩、5六飛、3四飛」の展開。
 普段振り飛車を使わない渡辺明が3二飛から振り飛車にしている。つまりこれは、先手の“初手5六歩”には、4手目3二飛からの「相振飛車」がかなり有力と見ているからである。


 後手渡辺の8四飛に、先手の久保は、8六歩と受ける。これが予定の受けで、7八金とはしたくないということ。先手が7六歩と歩を突いていないのは、8六歩で受けるため。
 しかし、8六歩とすれば「8七」に駒の打ち込みの空間ができるし、結局先手は7八金と上がらされた。こうして渡辺は、久保陣の左辺を揺さぶっておいて、1~4筋から攻めた。


 このように、5六飛型の中飛車は、結局、後手にだけ攻め味のつくりやすい展開になるので先手つまらない、というのが久保利明の見解のようだ。
 この図からは、1七同香、同桂不成、4四銀、2九桂成、3三銀不成、8七香、9七桂、6九銀、6八金、8九香成と進み、以下、渡辺明の快勝となった。


 このように、今では、「初手5六歩は、4手目3二飛からの相振飛車で後手指しやすい」が、どうもプロ棋界の常識のようです。
 だから後手が居飛車党であっても、“初手5六飛”には3二飛と振ってくる。



 そこで、“菅井新戦略”です。


菅井竜也-阿部健次郎 2013年
 ここで6八玉!!
 菅井竜也さんは先の25日のC1順位戦の対局で、このように左に玉を運び「左穴熊」に囲う戦略で戦い、これは大成功。 順位戦の昇級をねらうライバル阿部健次郎を降したのです。
 中飛車は飛車が真ん中にあるのだから、冷静に見れば、左に囲っても不自然ではないですね。でも、“初手5六歩”を指す棋士はみな振り飛車党なので、右に玉を囲う意識しかなかった。指されてみれば、“なるほど、この手があった!!”、ですねえ。


 これは、振り飛車党の“初手5六歩”、ますます今後も栄えるかもしれませんね。
 里見さんも甲斐さんも、この菅井さんの新構想を見て、「わたしも早くこれを指したい!」と思っていそうな気がします。久保さんも再び“初手5六歩”の世界に戻ってくるかも。


 
 “初手5六歩”の世界、これからどうなるのでしょうか。




追記: 菅井竜也さんの相振飛車の左穴熊構想、僕は初めて見たので菅井さんのアイデアかと思って記事を書きましたが、この構想はもっと前からあるそうです。

 ということで、ちょっと調べてみました。
 僕の調べた範囲では、プロ棋士の公式戦で先手の“5六歩”に後手が3二飛と飛車を振って相振飛車にして、そこから先手が「左穴熊」という展開は、一番古い棋譜は2012年8月の「今泉健司(アマ)-大石直嗣戦」でした。ただ、それよりも前にすでに奨励会でも指されていて、どうやらこの指し方、アマチュア発の工夫と思われます。(僕が知らなかっただけで、普通に流行っていたんですね。)
 ただ「左穴熊」に限定せず、初手5六歩中飛車からの「左玉」ということであれば、もっと前の2009年11月「佐藤和俊-糸谷哲郎戦」がありました。
コメント (4)
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