浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-09-16 00:00:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が浄心庵の「心の道場」で瞑想・禅定を
しているところですが、ご覧のように道場全体が綺麗な紫紅色に輝いています。


恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

        無償の行為とそれに伴う現象


先の続き・・・

又、よく金が現象として出て来ますね。
昭和五十二年七月に泉大津の市民会館でお話させていただきましたら、
その会場一面に金が降りました。
私の体などはキラキラになりまして、その時見えた方は、
皆合掌してひれ伏しておられました。
その会場にいた一人が、自称偉いお方の所に迷い込んだのです。
そこで「大阪の長尾先生という人からこんな金が出ます」いいますと、
偉いお方は、「いや、それは動物霊です」と言ったのです。
そして、その人が又私のところに、
「いや、あんな金がでるのは動物霊だと言われましたよ」と告げにくるのです。
だから私はその人に言ったのです。

「そうです。動物霊もそれぐらいのことはできます。
しかし私をよく見て下さい。私が動物のような生活をしておりますか。
もし私が動物のような生活をしておって、こういう現象が現れたのなら、
それは動物霊の力です。
私がもし、見ていただいて間違いが少なく、良き行いを積んでおりましたら、
私に現れる現象は神の力です。
私の行いを見て判断してください。
私の生活はいかがですか」とその人に聞きましたらね。
「それはそうですな」と言って帰られました。
このように、その人の行いを見て、その人に現われる霊的現象が正しいか、
間違いかを判断したいいのですね。
そうすれば、はっきりと分かります。




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「御垂訓」

2020-09-14 23:58:40 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演をカメラに収めたものですが、
ご覧のように恩師のお姿も演台の置かれている花々も視認できません。
歓喜にすべてが踊っているようです。


恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

         無償の行為とそれに伴う現象


先の続き・・・

それはみな、その行動、行為に対して見えない世界から
ご協力を頂くからです。
それがエネルギーとなって私の体を運んで下さいます。
だからよく新幹線で山口や広島に行かせてもらうのですけど、
その道中、自分一人で静かに列車の中で瞑想しておりますと、
ほんとうに自分というこの肉体が、今、神様のご指示によって、
その目的地に運ばれているのだなあということがはっきり分かります。
私の意志ではなしに、神のご意志によって
私の肉体を運んでいただいている、
これは、至らない私ですけれど、その私の想念行為によって、
神様が私を使って下さっているのです。

そして、行く先々で信じられない現象を現わしていただきます。
講演の時に会場一面に金が降ってきたり、
或る会場がピカピカになったり、
あるいは生けて下さったお花が全部、
突然にしてパアーッと一度に開いてくれたりという現象が起こります。
これは私にできることとは違います。
神様がして下さるのです。
その法の正しさ、その教えの正しさの証明として、
信じられないようなそういう現象を
現わして下さいます。

過去世の名称にとらわれて、
今生に自分を見失っている方がありますけど、その方に、
ある人が私のことを尋ねたら、
「ああ、あれは霊的なことばかりやっているから駄目です」
と言われた、とって私に話してくれました。
過去世の名称にとらわれることが霊的である、
と気が付かないでいるのです。
しかし私はお話の中で、
霊的なことに囚われてはなりませんといつも言っております。
この世の中で私ほどあの世の世界の方との体験を
豊富にさせてもらった者も数少ないと思うほど、
いろいろと体験させてもらっています。
迷っている霊の方をこの世の方の中に入っていただて、
その方と皆さまの前でお話をして救い上げます。
しかしそんなものに囚われてはなりません。



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「御垂訓」

2020-09-14 00:08:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が白衣の着物を身に着けられてカメラにとられた時、
お体から発っする光によって白衣の着物が黄金に変化しました。
この時のお写真に恩師の御言葉「あなた様の幸福をお祈り致します」と恩師ご自身が書かれた
ハッピーカードです。今でもこのカードをお守りとして沢山の方がお持ちだと思います。


恩師のご著書「講演集」より

          講演集、 二

     無償の行為とそれに伴う現象


先の続き・・・

世の中には天からの啓示、又は霊示を受けて、
次から次へと無限に言霊が出て来る方もあります。
又霊が乗り移って話す人もあります。
私は、そういうものはいっさいないのでございます。
全くの凡夫でございますので、
私の場合は天からも教えてくれませんし、
違う世界からも教えを受けることができません。
又声を聞くこともできません。

自分のこの肉体を使って、求める心なしに、
この肉体を最大限に使わせていただいて、
人さまの為に生きさせてもらった時、
その実践を通していろいろなことを学ばせていただけます。
人との出会い、そこに起こる出来事の中から学ばせていただく、
これが実践を通して学ぶということですね。
自分の体を動かして良き行いをすることです。
私の一年間にはたった一日のお休みもございません。
しかも、昼夜一睡もしないで飛び回ることもあります。
これが不思議でございまして、私と一緒に行っていただきますと、
その方々も疲れが出ないのですね。

二、三年前、私のところのK先生と一緒に岐阜・愛知と
回らせていただきました。
土曜日の朝から出まして岐阜に先に行かせてもらい、
それから愛知の大山に行きましてお話をしました。
その夜中に変な迷える霊の方が出て来まして、
そういう方を救わせてもらったりしていますと、もう夜中の二時です。
さあ、これから帰りましょうかといって、車に乗って帰ってきました。
ちょうど栗東あたりで夜が明けて、
岸和田へ七時頃に帰り着いたのですね。
同行の方は一睡もされていないのですが、
その足で奈良の当麻に牡丹を見に車で走られました。
私はお人が見えましたから、少し遅くなってお昼前から出掛けまして、
当麻でお話会をさせてもらいました。

こうして全く一睡もしないで飛び回っているのです。
ところが眠たくもなければしんどくもなりません。
ひどい時は三日間で三時間ぐらいしか寝ない時もありましたね。
あちらこちら飛び回っていますと、寝ている間がないのですね。
それでも次に迎えにきて下さる方が
「先生の目は欄々と光っていますね」と言われます。
一睡もしていないのに欄々と光ってくるのです。


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「御垂訓」

2020-09-12 23:49:57 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が法友から贈呈された白衣を着けて
カメラに収まったお姿ですが、ご覧の様にカスミがかかったようになっています。


恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

        無償の行為とそれに伴う現象


先の続き・・・

今、皆さまの心に「ああ、私は幸せだ、私には何の苦しみもない、
本当に幸せだ」という方がおられますと、
その幸せは結果として現れていますから、
過去に喜びの原因をお作りになっていて、
今がその喜びの中にあるのです。
では、不幸にして今、苦しい、なぜ私は苦しいのだろう」と
いう人がございましたら、
それは苦しみの原因を過去において積んだから、今、
結果として苦しいのです。
原因があるから、結果が現れております。
ただ、させていただくのみ。一切の報酬を求めないで、
ただ、させていただくことです。
世の中に偉いといわれる人は数多くおられますが、
自らを捨てて他を生かそうと実践されている本当の偉い人は、
砂の中からダイヤモンドを捜すようなもので、
なかなかお見かけできません。

神理、正法を口にはしましても、思いにおいて、
言葉において、行いにおいて、
何とかして会員を増やそう、会員が減らないようにしよう、
或いはお金に困っているから寄附をしてもらいたい、長生きしたい、
などと言ったり思ったりしておりますと、これはもう正法
神理とは違います。「私こそ法の後継者、正法を伝えるのは私一人だ」と
自分のことを自分で先生、先生と言ったり、はっきりと嘘とわかっていて、
知らない会員を騙したり自らを正当化する為に人さまを非難中傷しながら、
「私は悪口は言ったことがはない」などと言っておれば、
これはもう帳消しですね。
教えの中にも誤りが出て来ます。
行いが間違っておりますと、正しい教えは説けません。
自分を捨てた、自己を犠牲にした、他の人への奉仕、
その行為の中に正しい教えが沸き上がってきます。


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「御垂訓」

2020-09-12 01:19:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」の喜びの旅でフランスのサンジルタール修道院を
訪問した時、化粧箱に入れられて院内の一室に安置されているお亡くなりになられて
150年以上たった今もその肉体が腐敗されていない聖処女ベルナデッタ様をカメラに
収めたものですがご覧の様に化粧箱の下に青い光線が写っています。


恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

      無償の行為とそれに伴う現象


そこで間違ってはならないことは、
人さまの為に尽くさせていただいて、
一生懸命心底から尽くした時に、人から裏切られた場合です。
この時、私たちは自分の心を傷つけます。
「ほんとうになんという憎い人だ。あれだけしてやったのに、
あの恩知らず。

ようあんな恩知らずの人があったものだ」と言って、
自分が尽くした人の裏切りによって、
夜も寝ないで苦しんでいるのですね。
この苦しみが、せっかく良い行いをしながら自分を
不幸におとしいれている
一つの大きな原因となっています。

「あの人は神か仏のような方で、
あんないい人がなぜあんな不幸な一生を送ったのか、
あんないい方がなぜあんなえらい病気になったのだろうか」と
思うような方がたくさんおられます。
それは全部、自分の心を苦しめたという原因が、
苦しみという不幸な結果として現れているのですが、
案外このことに気が付いていません。

「裏切った人が悪い、私は一生懸命尽くしたのに、
あの裏切り者が悪い」と言って、
人を恨みます。
しかし苦しんでいるのは自分の心です。
恩を忘れて裏切った人の心は苦しんでいません。
裏切られた人は夜も寝られないで腹を立てて怒っていますが、
裏切った当人は、そんなことには関係なくぐうぐう寝ています。



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「御垂訓」

2020-09-11 00:05:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」のご講演を法友がカメラに収めたものですが、
ご覧の様に幽体離脱(肉体離脱)から復帰されたようなお写真になっています。


          恩師のご著書「講演集」より

             講演集、 二

        良心(神我)とエゴ(偽我)


神様は、人間をお造りになった時、
「ああ、私の最高傑作ができた」と喜んで下さったそうです。
自分に似せて、その心まで私たちに注いで下さったのです。
しかし肉体というものを頂きますと、この肉体から沸き上がる心は、
自己保存、自我我欲です。
自分のこの肉体をまもらなければならないと思い、病気をすれば痛い、
苦しいので、何とか救われたいと思って、自分をかばう心が出て来ます。
それがだんだん高じますと、他の人はどうでもいい、
自分さえ良ければいいという心になってきます。

そして神から与えられた心、それは神我(良心)です。
どんな立派なお方の心の中にも、必ず神と悪魔、或いは仏と邪気が住んでおります。
そしてどんな小さなことをしようと思いましても、
心の中で神我(良心)と偽我(エゴ)の葛藤がおこります。
一番分かり易いのは今日ここへ来ていただくのに、肉体から沸き上がるエゴの心は、
「暑いのにもう止めておこうか。
あんなところに行くよりも、家でゆっくり休むほうが楽でよい」と思います。
しかし神からの心は、「いや、やっぱり行って法の話を聞いたほうがいい」と思い、
心の中で葛藤しているのですね。
行こうか、止めておこうかと、一時葛藤します。
そして「いや、やっぱり行こう」と心に決めてくださった時、
皆さんの肉体はここへ向かいます。
しかし自分本位、肉体本位のエゴの心が勝ってしまいますと、
「ああしんどい、もう止めた」
と言って、ここへはお見えになりません。

そのように朝起きるにも、早い話が「もうちょっとゆっくり寝たいなあ」と
思うのがエゴです。
「いや、はやく起きてご飯の支度をしなくてはいけない、
皆に迷惑をかけてはいけない」と思うのが良心です。
ちょっとの間戦いまして、そしてエゴの勝った人もあります。
その人は行いがどうしても自分勝手なものになっていきます。
自分勝手な生き方をした時、周りに迷惑をかけます。
迷惑をかけるから嫌われます。
ところが人さまの為に生きさせてもらいますと、
昔から「働く」ということは「はたを楽にする」といいますように、
他の人を楽にすることができます。

楽にしてもらうと、してもらった人は喜んでくれます。
「ああ、あの人は良い人だ、良くしてくれる。
あの人の為に、私も良くさせていただかなくてはいけない」といって、
自分のところに幸せが返ってきます。
エゴの生活をするのも、良心の生活をするのも、これは全く自由です。
神様からその選択の自由を与えられています。
どちらにしてもよいけれど、しかしそれは「その結果として
自分が収穫するもの」ですね。
エゴの生活をしますと必ず不幸になるということです。
そして良心の生活をすると必ず幸せになれます。


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「御垂訓」

2020-09-10 00:11:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は大阪講演会で浄心庵へ伺った際、恩師より直接頂いたお釈迦様の
涅槃像のお顔の部分をカメラに収めたものですが、ご覧のようにお釈迦様の目が
半眼に開いております。
これは恩師が涅槃像にお祈りをしておられた時、閉じておられた目が半眼に開かれたそうです。
涅槃像ですから、目は閉じている状態で造られるものです。
目が開かれた奇跡はこれ以外にも恩師がタイかどこかで石仏に祈られた時も同様の奇跡が
起こっています。この時はこの旅で同行された数人の方々がご覧になられています。
その時のことがビデオにも録音され、話しが記録されています。


恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

       神理は時空を超え且つ人は進化する


「正しい法、神理の法は実践の中に生命が宿ることを知れ」と、
「心行」の中に書かれていますが、
「正しい教え、正しい神理の法」を自分が実践すれば、
必ず功徳が現れます。
自分が行えば即、現れます。
例えば、人様に優しい言葉をかけた時、その方から即、
喜びの表情、喜びの態度が返ってきます。

逆にもしその人の心を傷付けるような言葉を口にしますと、
それは行為にしなくても言葉として出しただけでも、
その人は大変な苦しみの中にはまってしまいますね。
神理、正法というものは、いつの時代においても適応するものです。
しかも、人間は真理、正法のもとに時代と共に
進化の過程にあることも事実であります。
私たちの意識も、大きくなれば、やはり法の深さも異なります。
それは理解度が違ってくるからです。

理解度に応じて私たちの毎日に神理、
正法が示されてくるわけであります。
高度なものが突然私たちの前に来ることは決してありません。
あくまでもその法が理解できる範囲以内に限られます。
ほんとうの宗教も、本来の私たちも、
一日一日が進化の過程の中にあります。

その過程こそが神の完全さの現れであります。
したがって、一日一日実践を通して、
その秘密が私たちの前に示されるのです。
こんな素晴らしいことはございません。
毎日毎日あらゆる万象万物は進化しており、
一日たりとも休日というものはありません。
すべてが進化の真っただ中にあります。

正法を実践する者は、実践することによってのみ、
法の理解度が深まることを忘れてはなりません。
私たちの意識はいくらでも大きくすることができ、
際限というものはないのです。
なぜならば、神は自分の姿に似せて人間をお造りになりました。
同じように意識も神に似せて無限大なるものを持たせて下さいました。
神様が私たち人間を造って下さる前に、万象万物をお造りになりました。
空も海も陸も草も木も動物も、或いは目に見えない空気も、
神様がお造り下さったのですね。


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「御垂訓」

2020-09-09 00:14:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」が学びの友の方から贈呈された白衣を着けて
カメラに収められたものですが、お体全体から光が出ているので白衣が
黄金に輝いています。


恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

   人は生まれにより、その行いによって尊さが出る――イエスの生誕


先の続き・・・

結婚前に身重になってできた子は「神のみぞ知る」であって、
普通の人々は何と言ったでしょう。
恐らく父なし子不倫の子呼ばわりをしたはずです。
婚約者ヨセフは貧しい大工左官の職人だったそうです。
イエスは世のあざけりとさげすみの中で成長されたのだと思います。
逃避と苦難の成長期に間違いありません。
後にイエスは言われました。
「私は世の人々のすべての苦しみを理解することができる。
それは、私はそのすべてを体験してきたからである」と。

人間イエスは生まれた時から、
普通の我々の味わい得ない苦しみ悲しみの十字架も背負っておられました。
生まれは貧しく、非難中傷を受け易い環境を選ばれ、
その中であらゆる苦しみ悲しみを体験して、愛を学んでいかれたのです。
自然界の法則では、
天と地と、プラスとマイナスと、陰と陽、雄と雌、男と女が縁に触れて和合し、
初めて種の保存が成立するようになっています。
尤も最下等の動物では雌雄両性を持つものもあり、
雌雄どちらにも変性するものもあり、
細胞が分裂して種の保存をするものもありますが、
自然の法則では、人間は男女の縁に
よって子供が授かるのが当然です。
ゴータマ・ブッダ釈迦牟尼仏が摩耶夫人の腋の下からお生まれになって、
その場で七歩歩かれて、片手を天上に挙げられ片手は地を指して
「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと仏典に書かれています。

これも普通の常識では考えられないことです。
では、なぜこんな非常識なことが仏典や聖書に書かれているのでしょう。
洋の東西を問わず遠い昔から、
人間離れした偉大なるお方は普通の人間のような生まれ方は
されないという言い伝えがあり、
偉大な方を神格化する思想がありました。
人々は皆そのように思っていたのです。
そこで、その思想のままに書き残されたものだと思います。
信じる信じないは人それぞれの自由です。
しかし自然が神のみ姿であり、自然が神御自身であれば、
自然に背いて神の御使いが現れるはずがありません。

このようにしてイエスは、
人間社会において最も厳しい環境を自ら選んでお生まれになりましたが、
その生涯を通して、思いにおいて、言葉において、行為において、
神御自身の愛をお示しになりました。
人は生まれによって尊いのではなく、
その人の生きざまによって尊いのであることがよく分かります。
私たち人間は生まれによって尊いのではありません。
その人の行いによって尊さが出て来るのですね。
だから、たとえ総理大臣であろうと、
この世のどんな素晴らしい家柄に生まれた方であろうと、
その人の行為、想念、言葉が正しくなかったら、
その人には何の尊さもありません。
逆にどんなに貧しい家柄に生まれても、
処女懐妊でも非処女懐妊でも関係なく、
その方が神の愛を行った時、その行為がその人を尊くします。
「法は実践の中に生命が宿ることを知れ」です。


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「御垂訓」

2020-09-08 00:37:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」を学びの友の方がカメラに収めたものですが、
ご覧のようにカスミがかかったようになっています。

恩師のご著書「講演集」より

           講演集、 二

     人は生まれにより、その行いによって尊さが出る――イエスの生誕


イエス様の生誕についてよく質問を受けます。
「聖書には処女懐妊と説かれていますが、現実はどうだったのでしょうか、
母マリアはヨセフと婚約をしていたが、
まだ一緒にならない前に聖霊によって身重になった、と書かれています。
先生はどう思われますか」と。
信じる信じないはその人その人の自由です。
皆様もよくご存じことと思いますけれど、聖書について、
ちょっとお話をしましょう。

その時代のエルサレム統治者ヘロデ王の代にユダヤのベツレヘムで
イエスがお生まれになりました。
東方から博士たちがエルサレムに来て、
「ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにおられますか。
私たちは東のほうでその星を見たので、その方を拝みに来ました」
と聞いて回ったので、人々の噂がヘロデ王の耳にも入ったのです。
王も人々も不安を感じすにはおれません。

自分が今、王として君臨しているのに、
予言者の書にベツレヘムにユダヤの王が生まれると書かれてあることを知り、
自分の地位が危なくなると思ったのでしょう。
なんとかしてその子を見つけ出して殺してしまおうと思ったのです。
そこで、東方の博士たちを呼んでその子をうまく捜し出すように命じます。
博士たちは星に導かれて、ある家に入りました。

そこで母マリアとそばにいる幼子に会い、
ひれ伏してその御子を拝み、贈り物をささげて、
そのまま他の道を通って自分の国へ帰ってしまいました。
マリアの夫のヨセフは身の危険を感じ、
マリアと幼児を連れてエジプトへ逃げてしまいました。
ヘロデ王はその子が見つからないので、
ベツレヘムとその地方の二歳以下の子を全部殺してしまえば、
王といわれる子も殺せると思い、実行してしまったのです。
これは、自己保存の恐ろしい心の現れといえます。
自分を守ろうとして幼い男の子を全部殺したとしても、
時が来れば人は死ななくてはなりません。

ヘロデ王が死んだ後、ヨセフは家族でイスラエルへ帰って来ますが、
王の息子アチラオが
ユダヤを治めていることがわかり、
イスラエルから離れたガリラヤ地方のナザレの町に住み着くことになります。
この話の中で、何度か神の使いが導いています。
しかし現実の人間社会の中で、
ヨルダン川でヨハネよりバプテスマ(洗礼)を受けるまでのイエスを、
神の御子と誰が信じたでしょうか。



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「御垂訓」

2020-09-07 03:49:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」を始めとして多くの学びの友の方々と
イエス様に関係する遺跡を見学していた際に学びの友の方のビデオに
撮影されていたものです。


恩師のご著書「講演集」より

         講演集、 二

    「心行」の朗読


先生が書き表して下さったこの「心行」を、
毎回お話に先立ちまして朗読させていただいております。
これはたいへん心が休まります。
では読ませていただきます。

心行

心行は 宇宙の神理 人間の心を言霊によって表現したものである
それゆえ心行は拝むものでも暗記するものでもなく
これを理解し行うものである
正法は実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ
われいま見聞し正法に帰依することを得たり
広大なる宇宙体は万象万物の根元にして
万象万物相互の作用により転生輪廻の法に従う
大宇宙大自然界に意識あり意識は大宇宙体を支配し
万象万物をして調和の姿を示さん

万象万物は、広大無辺な大慈悲なり
大宇宙体は意識の当体にして意識の中心は心なり
心は慈悲と愛の塊にして当体意識は不二なることを悟るべし 
この大意識こそ大宇宙大神霊・仏なるべし
神仏なるがゆえに 当体は大神体なり
この現象界における太陽系は大宇宙体の小さな諸器官の一つにすぎず
地球は小さな細胞体なることを知るべし
当体の細胞なるがゆえに細胞に意識あり
かくの如く 万物すべて生命にして
エネルギーの塊なることを悟るべし

大宇宙体は、大神体なるがゆえにこの現象界の地球も神体なり 
神体なるがゆえに 大神殿なるべし大神殿は 万象 魂の修行所なり 
諸々の諸霊 皆ここに集まれり諸霊の輪廻は三世の流転
この現象界で己の魂を磨き
神意に添った仏国土・ユートピアを建設せんがためなり 
さらに 宇宙体万象が 神意にかなう調和のとれた世界を建設せんがため
己の魂を修行せることを悟るべし 
過去世 現世 来世の三世は生命流転の過程にして
永久に不変なることを知るべし 
過去世は 己が修行せし前世すなわち
過ぎ去りし実在界と現象界の世界なり 

現世は、生命・物質不二の現象界この世界のことなり
熱 光 環境 一切を含めてエネルギーの塊にして
われら生命意識の修行所なり
神仏より与えられし慈悲と愛の環境なることを感謝すべし
来世は次元の異なる世界にして
現象界の肉体を去りし諸霊の世界なり 
意識の調和度により 段階あり
この段階は神仏の心と己の心の調和度による
光の量の区域なり 
神仏と表裏一体の諸霊は 光明に満ち実在の世界にあって
諸々の諸霊を善導する光の天使なり

光の天使 すなわち諸如来 諸菩薩のことなり 
この現象界は神仏より一切の権限を光の天使に委ねしところなり 
光の天使は慈悲と愛の塊にしてあの世 この世の諸霊を導かん
さらに 諸天善神あり
諸々の諸霊を 一切の魔より守り正しき衆生を擁護せん 
肉体を有する現世の天使は諸々の衆生に正法神理を説き
調和の光明へ導かん
この現象界におけるわれらは過去世において
己が望み 両親より与えられし肉体という舟に乗り
人生航路の海原へ己の意識・魂を磨き
神意の仏国土を造らんがため生れ出でたることを悟るべし
肉体の支配者は 己の意識なり己の意識の中心は心なり
心は実在の世界に通じ己の守護・指導霊が
常に善導せることを忘れるべからず

善導せるがために 己の心は己自身に忠実になることを知るべし
しかるに 諸々の衆生は己の肉体に 意識・心が支配され
己が前世の約束を忘れ自己保存 自我我欲に明け暮れて
己の心の魔に支配され 神意に反しこの現象界を過ぎ行かん 
また 生老病死の苦しみを受け己の本性も忘れ去るものなり
その原因は煩悩なり 
煩悩は
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり 
六根の調和は 常に中道を根本として己の正しい心に問うことなり 
己の正しい心に問うことは反省にして反省の心は
己の魂が浄化されることを悟るべし 
己自身は孤独に非ず意識のなかに己に関連せし
守護・指導霊の存在を知るべし 
守護・指導霊に感謝し さらに反省は
己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし 
六根あるがゆえに 己が悟れば菩提と化すことを悟るべし 
神仏の大慈悲に感謝し万象相互の調和の心が
神意なることを悟るべし

肉体先祖に報恩供養の心を忘れず両親に対しては孝養を尽くすべし 
心身を調和し 常に健全な生活をし平和な環境を造るべし
肉体保存のエネルギー源は万象をふくめ 動物・植物・鉱物なり
このエネルギー源に感謝の心を忘れず
日々の生活のなかにおいて己の魂を修行すべし
己の心、意識のエネルギー源は調和のとれた日々の生活のなかに
神仏より与えられることを悟るべし己の肉体が苦しめば 心脳乱し
わが身楽なれば 情欲に愛着す
苦楽はともに正道成就の根本にあらず
 
苦楽の両極を捨て 中道に入り
自己保存 自我我欲の煩悩を捨てるべし
一切の諸現象に対し
正しく見 正しく思い 正しく語り 正しく行い 正しく生き
正しく道に精進し 正しく念じ 正しく定に入るべし 
かくの如き正法の生活のなかにこそ
神仏の光明を得 迷いの岸より悟りの彼岸に到達するものなり 
このときに神仏の心と己の心が調和され心に安らぎを生ぜん
心は光明の世界に入り三昧の境涯に到達せん 
(この諸説は末法万年の神理なることを悟り、
             日々の生活の師とすべし)


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「御垂訓」

2020-09-05 00:16:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓


添付のお写真は恩師「長尾弘」の舞台上での癒しの御姿を学びの友の方がカメラに
収めたものですが、恩師が幽体離脱(肉体離脱)から復帰されたようなお写真に
写っています。

恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

     仏陀、イエス、高橋信次先生の一番身近な弟子に


先の続き・・・

高橋信次先生は当初、「釈迦、イエスの教えの原点に返れ」と説かれました。
私はやっぱり日本にうまれていますから、
仏教、お釈迦様の教えこそがほんとうの正しい教えであると思えますし、
そのお釈迦様の教えを分かり易く説いて下さったのが
高橋信次先生だったのですね。
今の私たちによく分かるように説いて下さいました。
「お釈迦様が仏教の経典を、馬や驢馬の背中に積んで歩かれましたか、
八万何千巻とある膨大なお経をね。

そんなものは何も持ってはおられません。
そして、お釈迦様はどこの仏教大学を出られましたか、
又イエス様はどこの神学校をでられましたか、
そんな学校は出ておられません。
私たちは日々の生活の中で自分自身が自然に従った生活、
つまり自然に背かない生活をして、自然を理解し、そして自然を慕い、
大自然こそ神御自身であることを認めて、
その神の御心を我が心に頂いて日々の生活の中でこれを行なった時、
神の子として自ら自覚します。
そして、自分が望むことなしに見えない世界からのご協力が頂けます。
いろいろと不思議な事をもって現象として現わしていただけます」

このように説かれた高橋信次先生の教えを頂きまして、
全く仕様のない人間だった私が、
今日こうしてあちらこちらへ回らせていただく
ご縁を作っていただいたのです。
では、私が高橋信次先生の教えを直接受けたのかと言いますと、
一回も指導は受けておりません。
しかしご指導を受けることはできなくとも、
その先生の教えをよく理解させていただき、
「私の身近にあっても遠い弟子、遠くにあっても身近な弟子、
それは実践の中にある」と
言う先生の言葉をかみしめて、
私は日々の生活の中で先生のいちばん身近な弟子にしてもらおうと思いました。
いちばん身近な弟子になるには、その教えを行えばいいのです。
だからその当時、先生の後を追いまわして日本国中
ついて歩いていた熱心なお方もありあしたが
先生が亡くなられたら、又迷っておられます。
それは実践が足りなかったからです。



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「御垂訓」

2020-09-05 00:16:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」を学びの友の方がカメラに収めたものですが、
最初は光だけで姿が全然写っていなかったものをカメラの現像の光を絞っていって
今の姿が現れてきたそうです。
恩師の頭と肩の部分が微かに視認できるかと思います。


恩師のご著書「講演集」より

            講演集、 二

  仏陀、イエス、高橋信次先生の一番身近な弟子に


今日の私の存在は、高橋信次先生とのご縁があってこそで、
先生とのご縁がなければ、とても今の私はございません。
高橋信次先生はご存命中に、このようにおっしゃいました。
「私の身近にあっても私から遠く離れた弟子もある。
また巡り合うことが出来なくても、私の最も身近な弟子もある。
それは、私の説いた法を実践してくれる人である」と。
この教えを頂きまして、先生は忽然とあの世にお帰りになりました。
その後、私はほんとうに精神的に路頭に迷いました。
泣いて泣いて、泣き叫びました。

未熟な私が心から頼りにしているお方が、
突然この世を去られましたから、一体何を頼ったらいいのか、
私はどなたの教えを受けて学ばせていただいたらいいのかと、
途方にくれてしまいまして、
三日間というものは馬鹿のように大声をあげて泣きました。
私の家内が「頭に狂ったのと違うだろうか」といって、
すごく心配してくれたそうです。
しかし、泣き叫んだあとで、
「先生はちゃんと御著書を著わして下さっている、
又声を聞きたければ、テープも全部残して頂いている、
誰にも頼らなくともその先生の教えを頼りに学んでいこう」と、
自ら心に思い決めました。



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「御垂訓」

2020-09-04 01:19:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」のご講演をカメラに学びの友の方が
収めたものですが、ご覧の様にお姿が真っ白になっています。


恩師のご著書「講演集」より

       講演集、 一

 恩師のオリジナル「神の御心」


いとしき我が子よ、いとしき我が子よ
そなた達は幸せに生きよ、健やかに生きよ
己自身を苦しめることなかれ
己を愛し、己を愛するが如く他を愛せよ
汝らの喜びは我が喜びなり
汝らの苦しみは我が苦しみなり
いとし子よ、自らを苦しむることなかれ
汝らは我がいとし子であることに目覚めよ
自らの神我に目覚めよ
我は愛故にそなた達を

形として現わせし厳しき現象界に旅立たせし者なり
いとおしきが故に旅に出させし者なり
いとし子よ、そなた達がこの地上に肉の身を持ち
旅立し日より今日までをよく振り返り見よ。
我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ
もし我が心と離れし箇所に気付かば
それを悔い改めよ
その時、汝らの魂は清まれり

我が与えし、その肉の身を持ち
我が思いをこの地上に示し現わせよ
我が心を地上に具現せよ
汝らは我がいとし子なるが故に我は汝らの父なり
父はただ、子の幸せを願う
自らを浄め、自らを高め、自らの神我に目覚め
我が胸の中に帰るべし
我はただ、汝らの帰りを待ち望むものなり




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「御垂訓」

2020-09-03 00:16:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は先に投稿したお釈迦様の涅槃像に空間から舞い降りた金箔を
恩師ご自身が掌にのせてこの時インド旅行に同行された学びの友の方に
見せているところです。


~ 恩師のご著書「講演集」より ~


           講演集  一

  恩師のオリジナル「神の御姿」

我は姿あって姿なし
姿あっては天地自然・万象万物の中に我が姿を見よ
姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ
汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ
姿なき汝らの神我となりて、我は証しせん 


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「御垂訓」

2020-09-02 00:04:06 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

インドのクシナガラに建立されている涅槃堂内に安置されてるお釈迦様の涅槃像です。
恩師「長尾弘」先生の祈りにより沢山の金粉・金箔が涅槃堂の空中から雨の如く降り
その幾らかが涅槃像の上にも降り下りています。
恩師はインドへは七回ほどお釈迦様の足跡を訪ねて訪問していますが、
この涅槃堂で恩師がお祈りになれはいつも必ず金粉・金箔が降ります。


~ 恩師のご著書「講演集」より ~

           講演集  一

           神の御姿


我は姿あって姿なし

姿あっては天地自然・万象万物の中に我が姿を見よ

姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ

汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ

姿なき汝らの神我となりて、我は証しせん 

神の御姿  (改訂版)

私は形あって 形なし

形あっては 天地自然に現わせし 姿これなり

形なくては 汝らを生かさん 力これなり

汝らを形あるものとして この地上に生じせしめ

形なき 汝らの良心の囁きとなって

我は証せん


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