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池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

思い出

2010-08-29 10:50:49 | つぶやき
昨日から、24時間テレビを放送している。
毎年この番組を見るたびに、私は大学生のころを思い出す。

当時、私は社会福祉を学ぶ大学生だった。

ちょうど、24時間テレビの第1回目の放送の日、私は初めての実習に行っていた。

これからは福祉の時代。「世の中を変えてやる」と息まいて学生運動に青春を費やしていた私が選んだのは、児童相談所の一時保護所施設の3週間実習だった。今では結構マスコミを賑わしている虐待や親に捨てられた児童を、その後の処置が決定するまで、一時的に預かる施設だった。当然、緊急避難的に保護された児童がほとんどで、多くの子どもたちは虐待の傷を身体にも心にも深く受けやってくる子どもたちばかりだった。

月曜日から土曜日までずっと泊まりこみで、日曜に帰宅。そしてまた月曜から1週間泊まりこみ、という超ハードな3週間の実習。

たばこで身体を焼かれ、食事を与えられず放置され、殴られ蹴られ・・・そうした子どもたちを目の前に、何をどうしたらいいのかさえもわからず、1週間続く夜勤をただただ無力にこなして、1週間ぶりに帰った下宿。

空腹の感覚すらなくなり、理想とはかけ離れた現実の間で、自分の無力さに打ちのめされ、ただただ眠りにつきたくて、何も考えずに眠りたくて、テレビのスイッチを入れた時、この番組が放送されていた。

「確かに愛は地球を救うかもしれない」でも現実には「今日の命すら救えない子どもたちもいる」

そんな腹立たしさや悔しさ、もどかしさを心に抱えながら、このテレビを見ていたことを思い出す。

いえ、見ていたのではなく、「見ながら寝た」が正解。泥のように寝た!丸一日何も食べずに寝続けて、そしてまた2週目の実習に向かったのだ。

3週間の実習を終えて、私に残されたものは、ただ無力感しかなかった。

先輩たちのそれなりの生き方や考え方には、正義感の塊で、年若く純粋だった自分はどうしてもなじめなかった。

24時間テレビを見るたび、その当時の映像がはっきりと脳裏によみがえり、心が凍るようなある種の動揺を今でも感じてしまう。

たくさんの人を救えなくてもいい。

ただ今、自分の目の前にいる人を救いたいという今の想いに、いつの間にか繋がっているのかもしれない。

「救う」というのは、やはり少し違うかな。

「一緒にいたい」という気持ちかな。

不安とともに生きる子どもたちと、ただずっと一緒にいたい、そんな気がしていたのかもしれない。何も言わずにただ、ずっと。

あの、親に捨てられた子どもたちの心細げで不安げな弱弱しい瞳が、年に一度、この番組とともに私の心にはっきりとよみがえってくる。

そんな、

心の痛む若い時代の思い出。
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毎日を積み重ねること

2009-04-13 23:17:25 | つぶやき
今日は、「池さん」から離れて、ちょっと独り言。

市議会議員の選挙の声が響く今日。

4年前は、私も選挙カーに乗り、「よろしくおねがいしま~す」と叫んでいた。何をお願いするのか、疑問に思いながら・・・

短い期間だったが、私は「したいことを実現するため」に、議員という立場に立つことを自ら選んだ。

そして、私なりに充実感のある日々だったことも確かだ。

私を応援してくれた人たちは、手弁当で集まってくれた人たちで、この町の将来について熱い夢をもっていた人たちばかりだったのは、唯一救われるところだった。地盤もお金もない私が、議員を続けられたのも、この人たちの支えがあったからこそだと思っている。

しかし、「選挙」を経験するたびに、車での連呼・禁止されているはずの戸別訪問・・・挙句の果てに、公然と要求される金銭や見返り・・・

「正当に選挙を行いたい」「なぜ、納得できないその場限りの訪問や、握手をするのか」・・・私の心の中で、今の選挙の在り方に対しての疑問が、山のように積み重なっていくのを覚えた。そのたびに、応援してくれる人たちに、叱咤されながら、「疑問など考えず、とにかく今の選挙を戦わなければ、先は見えない」と自分自身を納得させながら、選挙期間を過ごしていた4年前。



送迎中の車の前を通り過ぎていく選挙カー。

4年間という日々は、私の人生を大きく変え、今私は多くのお年寄りや子どもたちと共にいる。

季節を感じ、天気を感じ、純粋に人の心に接して生きることができる。

疑問を抱きながら、ストレスを抱えながら、駆け引きや交渉に明け暮れた以前の日々を振り返る時、

命の重さや尊さに向き合うことができる今の日々を、心から幸せだと感じることができる。

4年の日々の積み重ねの大きさは、

私を、明らかに変えてくれたように思う。

与えられた運命のままに、ただひたすら毎日を積み重ねて生きることの大切さを、ありのままに生きることを、「池さん」という場所につながる人たちの深い人生を、教えてくれた。





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久しぶりに、スケートボード!

2009-04-06 20:57:47 | つぶやき
久々、池さんから離れて・・・

ずっと、関わってきたスケボー。

議員時代に、一人の青年が私の所へやってきて、「スケートボードをする場所が欲しい」と言った時からのお付き合い。

当時は、ちょっと、はみ出た子どもたちが好んだこの遊び。

でも、結構私は惹きつけられた。

野球だのサッカーだのという団体スポーツではなく、武道みたいにちゃんとした伝統あるスポーツでもない。ただ、ダラダラっと集まり、ダラダラっとやってるみたいな、でも、やってる子どもたちはそれなりに真剣で、技をマスターすることに一生懸命になってる・・・そんな感じの彼らに、結構夢中になってしまった・・・というよりも、「応援したい」と思うようになっていた。

当時、小松町はハイウエイオアシスという高速道路に関連した施設の整備に予算をかけ、計画を進めていた。

これらの施設は、オートキャンプ場だとか、公園などの関係施設の計画が主だったが、私は常設のスケートボード場の建設を町へ提案して、案外あっさりと認められて、建設がおこなわれることとなった。

町とすれば、建設後の管理面で人件費がかからなかったことや、県内初の施設ということで、それなりのメリットが考えられたからかもしれない。当時の職員が熱心に後押ししてくれたことも一つの要因だと思う。

建設後何度かは、私が主催していたクラブで、大会を行った。四国大会などという結構大きな大会も開催した。

その後、小松町のライオンズクラブが、青少年の健全育成という視点から、賛同してくれて、大会開催は今回で6度目となる。(最初の大会から数えると、10回は開催したかな)

2・3年前、一時この大会自体、参加人数が減り、開催の見直しが提案される危機になったことがある。その時、「なんでスケボーの人口が減ったか?」という私の問いに、一人の子供が答えた。「おばちゃん、こんなケガするような外遊びは、誰もせんようになっとるんよ。パソコン相手に、涼しい所におるほうがええということよ」と言ったことを覚えている。

そして、今また、スケボーをする子が増え、今年の大会は、香川・徳島・広島・大阪・和歌山といった県外からの参加者で、賑わった。

私は、また訪ねた。「どうして、こんなに参加者増えたんやろ?」松山でこういったスポーツの開催に携わっている人が答えてくれた。「今はパソコンとブログの時代なんです。ここにいる子どもたちは、ほとんどがブログを書いてる。そして、そのブログには、ネタが必要なんです。彼らは常にブログのネタを探してる。スケボーの大会の写真は、明らかに彼らのブログのネタなんです。」

PCを使いこなし、PCによって日常を公にし、その楽しみを共有する彼ら。

時代は刻々と変わっていると、改めて感じる。

時代は変わっても、最初の頃と同じように、彼らは純粋にスケートボードというスポーツを楽しみ、技を競い合っている。高校へ行きながら、あるいは学校という枠からはみ出して、ぶつける場のないストレスを、スケートボードという場へ発散させていた彼らも、今は、社会人として一人前になってきた。毎年参加する彼らを見ていると、高校生だった子も、彼女と一緒にやってきたり、子ども連れで参加したりするようになった。

青少年の健全育成という視点で、後援を始めたこのスポーツだが、結局彼らは、好きなスポーツを貫いて、時代とともに生き、明らかに・健全に・成長した!

ボードを抱え、ダボダボズボンはそのままだが、毎年、必ずこの大会にやってきて「今年も来たよ」と挨拶してくれる。

「一生懸命になれる何か」が見つかった子は、悩んでも・回り道をしても、必ずいい大人になるように思う。

子どもたちはやがて成長して、私たちの、次の時代を担っていくのだから・・・




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51回目の誕生日を迎えて

2008-08-25 22:56:05 | つぶやき
久々に、池さんから離れて・・・

24日は誕生日。
幼い頃は、夏休み中の誕生日故に、友人の誰からも思い出させることもなく・・・というよりも、友達作りの苦手な子だったから、あんまり友達もいなくて、誕生日の思い出はあまり記憶にない。

22歳の時、結婚し四国へ来て、知り合いも親戚もいない土地で今日まで生きてきた。

23歳で長女を産み、25歳で長男を産み、28歳で次女を産み、西条の地で子育てをした。舅はやさしい人で、孫ほども年の離れた若い嫁を本当に大事にしてくれた。何かと言えば小松からオートバイに乗って子守りに来てくれて、他に頼る人にいなかった私は、いつも舅を頼りにしていた。

長女が小学校の2年の時、舅姑の暮らす土地に、今池さんで使っている家を建てて引っ越すことになった。

あれから、21年かな。

PTAのお世話も長いことした。女で始めてPTA会長もした。結構大きな役もした。議員もした。小松町議会でも、結構頑張ったと思う。2期務めたけど、PTA念願の歩道橋も作ったし、四国初の常設スケートボード場も作ったし、絶対に無理だと言われた中学校も建て替えた。お金もツテも親戚もいない土地でよくやったと思う。合併し西条市になって、自主解散と共に行われた選挙で落選し、人生が変わった。

娘時代が最初の人生だとすれば、結婚し子育てをしている間が第2の人生。そして、2年前(もうすぐ3年)池さんを作って介護の仕事を始めてからが、私の第3の人生。

第3の人生は、まだまだ始まったばかり。

11月、池さんは3周年を迎える。なんとか潰れることもなく、ここまでやってこれた。応援してくれた皆のおかげ。

「池さんじゃないとダメ」と言ってくれる人たちと共に、今こうして生きている。

長い人生を生きてきた人たちと共に、これから人生を生きる幼い子供たちと共に、いろいろな苦しさを背負って生きる人たちと共に、また新しい1年を紡いでいけたらと思う。




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しだれ梅

2008-02-11 21:47:23 | つぶやき
次女の結婚が決まった昨年。
元気な赤ちゃんが生まれるように願いを込めて、木を植えた。

ちょうど、母屋の玄関の前に植えていたハナミズキが枯れていたのを期に、しだれ梅を植えることにした。

濃いピンクのしだれ梅。

今年一番のかわいい花が咲いた。

今、娘は元気な子どもを授かり、福岡で暮らしている。

私が3人の子どもを産んだ時、義父が記念の木を庭に植えてくれた。
10月生まれの長女はサザンカ・4月生まれの長男は八重桜・7月生まれの次女は(夏であまり木が育たなかったので秋になってから)サザンカ。

玄関の脇にある大ちゃんの八重桜は、もうすっかり大きな木に育っている。

元気で大きくなるように、義父が願いを込めたそれぞれの木。
子ども達は、義父の願いどおり元気で大きくなり、それぞれの道を歩いている。

しだれ梅のつけた小さな花を見て、その時の義父の気持ちを想う。

私の子ども達の誕生を祝い、健康で成長することを願ってくれた義父。
11年の寝たきりの生活を送った義父だったけど、身体が不自由になってもいつも3人の子ども達を心配してくれる優しいおじいちゃんだった。

孫ほど年の離れたヨメである私を、
本当の娘のように大事にしてくれて、

私の子ども達を、大切に優しくかわいがってくれた。

(私がヨメに来たのは、義父が70歳の時。私のほうが大分若いけど)
孫を持つ年になって、
義父がどんな気持ちでそれぞれの木を植えていたのか、
わかるような気がする。

おじいちゃん、ありがとう。










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50歳の誕生日

2007-08-25 19:21:35 | つぶやき
人生半世紀終了!
昔むかし、50歳なんて聞くと、「超おばさんやん」な~んて思っていたけど、自分が50歳を迎えてみると、「な~んだ結構若いかも~~!」と思ったりもする。

ま、ワガママな私だから、自分勝手な理由をつけて、自分で納得すりゃあいいか!

50年か!
なんか、すごい長いこと生きてるような気がするけど、まさこさんのほんの半分の人生しか生きてないんだもんな~。

大学入って学生運動に命を燃やし、「福祉を変えるんなら社会を変えな~」って頑張ってたのに、どういうわけか4年生の時、見合い結婚で嫁入りして、次の年に長女が生まれ、知らん土地での子育てにあたふたしてる間に、長男が生まれ、次女が生まれ・・・旦那は単身赴任でこりゃ大変と思っていたら、義父が倒れて介護生活の始まり。子ども達はまだ中学生と小学生だったと思う。6ヶ月の入院生活の後、介護生活11年。まだ介護保険も無い時代。病弱だった義母に代わり子どもよりもおじいちゃんを優先させる毎日が続き、辛い時期も確かにあった。

丁度その時期と重なって、PTA活動で段々大きな役を引き受けるようになり、13年の活動を下地に、子ども達の教育環境に疑問を持ち町議に立候補。合併を挟んで、市議と合わせて5年半の議員生活を経験した。

そして選挙での落選が2年前の夏。大きな人生の転機となった年。

会社の設立とデイサービスの開始で、悩みながら迷いながら、走り続けてきたこの2年。特に2月にみよちゃんのお泊りを受けてからの半年は、今までの人生で一番働いた毎日。夜の会は全てキャンセル。友人と話す時間もなく、ただひたすら走ってきた。

そして、迎えた50歳の誕生日。

四国に嫁に来てから、27年。
本当にいろんなことがあったな~と改めて思う。
一生懸命走ってきたな~と思う。

いろんな人に出会い、助けられ、今日まで生きてこれた。

今まで出会った人みんなに、ありがとう

今日まで、心配ばかりかけた遠く離れた母親へ、がんばってるからね。ありがとう

あんまり手をかける暇もなく育ててしまった3人の子ども達。3人とも立派に自立してくれた。今年は母となる2人の娘。娘を支えてくれるよき伴侶。共に夢を追いかけてくれる息子。そして将来嫁となるだろう息子の彼女。ありがとう

27年ともに生き、いつも最期は私のわがままを聞いてくれ、支えてくれる夫。ありがとう

大きな人生の転機に、とことん悩んだ時、湯浪のじいちゃんが言ってくれた。

「血の小便ひるまでやってこそ、見えてくるもんがある。ええかげんにやっても、な~んも見えん。辛かっても、まっとうに生きとったら、神さんは後ろ姿を見よるんぞ」

じいちゃん、本当に血の小便でそうなくらい頑張っとるよ。
もう一花咲かせたいけんね。

女50
まだまだこれから。

夢を詰め込んで立ち上げたデイサービスが、「他の施設介護と全然違うんよ」といくら説明しても、なかなかわかってもらえず悔しい思いをした2年間。池さんに必要なのは、「実績」と言う歴史。

最近やっと、わかってもらえるようになってきた。でも、まだまだ「小さいから、設備もないんでしょ。」と言われ、悔しい思いをすることもある。

私自身が50年の歴史を重ねてきたように、
池さんもこれから先、歴史を重ねて、福祉の現場に名前を残せるようになるのが今の私の希望。

池さんみたいな小さな「家」が、地域のいろんなところに増えることが夢。

年寄りも子どもも、学校へ行けん子どもも、体や心にハンディのある子どもも、一緒に過ごして、いろんな人達が「人」として大切にされる場所が増えたらいいと思う。

もうひとふんばり。

娘の友人からいつかもらった額の言葉のように

「人生これからがおもしろい」

と笑って、年をとっていきたいと思っている。























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母より

2007-05-15 22:17:49 | つぶやき
3人の子ども達を授かって、早や27年。

長女は、結婚して5年。
オーストラリアで暮らした月日の中で、同じスタンスで一緒に生きられる人と出会い、結婚した。
そして1年前、小松に2人で帰って来てくれた。
ありがとう

長男は今、一緒に「池さん」で働いている。
決して勉強が得意だったわけではない。
でも、池さんという場所を誕生させ、自分よりはるかに年上の職員と共に、管理者という責任のある立場を今生きている。
いろいろと悩むことも多いと思うが、この1年で大きく成長してくれたと思っている。
日々重ねる経験と共に、自信をつけ、穏やかに信念を貫いている。
がんばれ

末の娘。
家族の溢れる愛を一身に受けて、ちょっと頭でっかちの娘に成長してくれた。
そして
日曜日
お嫁に行った。

夢を追いかけて、悩んだこともあった娘。
細かいことを何も言わない子だから、母もあまり聞く事もせず、ただ元気で過ごしていればと思っていたら、いつの間にか彼氏ができて結婚したいという彼女。

色白の小さな娘には、淡いベージュのウエディングドレスがよく似合った。

披露宴の間中、溢れんばかりの笑顔の娘。
華やかで嬉しそうで、
やっぱり
人生の中で、一番綺麗なときなのだと思った。

私がお見合い結婚で、嫁いだのが22歳の時。
2人の娘も同じ頃に嫁ぎ、新しい家庭をつくってゆく。

愛する人と共に、
貧しくても、心温まる家庭をつくってほしい。

支えあえる友人を大切に
きちんとした家庭を作って欲しい。

自らの生きる道を、見定めて
小さくてもいい、一歩ずつ足跡を残せるように生きて欲しい。

幸せは
誰かに望むものではない。
自分自身が生きていく中で、
作り上げるもの。掴み取るもの。

今から
2人で同じ方を向いて
しっかり歩いていくんですよ。
しっかりとね。
がんばれ








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「学ぶ」喜び

2006-12-10 20:20:57 | つぶやき
久しぶりにちょっと池さんから離れて・・・

最近、夜のリラックスタイムをNHKを見て過ごすことが多い。
で、ちょっと前に「知るを楽しむ」という番組で、夜間中学校のことを取り上げていた。

見城慶和先生が語る夜間中学校の様々な生徒達は、学校へ行くことができなかったという想像もできないくらい厳しい過去を背負い、読み書きができない苦しさを背負い、また国籍によるハンディや不登校という現実を背負った人々。

ただ一筋に、夜間中学の教師として人生を生きてこられた見城先生の穏やかな顔。
先生の口から溢れる生徒達への情愛。
心を揺り動かされるような、温かいまなざし。

そして、何より心を揺さぶられたのが、
「ここには学ぶ喜びがある」という一言だった。

「学ぶ」ことは本来「喜び」であるべきことなのだと、改めて思い知らされた。

だとすれば、一体、今の義務教育の現場に「学ぶ喜び」があるのだろうか・・・

少なくとも、学校へ行き、授業を受けることは、「今まで知らなかったことを知る」こと。

そこには、できなかった問題が解けたとか、知らなかった漢字が読めるようになったとか・・・「喜び」に繋がるべき瞬間が存在するはず。

しかし、現実の学校は、そうではない。
時間を惜しんで詰め込み、受験へ向けて指導要領の内容をこなすことに懸命で、生徒の「喜び」などに気付くゆとりすらない。

指導要領によると、義務教育を終えるまでに、学校で覚える常用漢字数は1945字。
しかし、新聞の内容をほぼ75%理解するために必要な漢字数は381字。

義務教育とは、少なくとも中学校を終えて社会で生きていくために必要な最低限を補償する学力であるはずなのに、これほど現実の生活とはかけ離れた学習内容になっているわけ。

国語だけではない。他の教科もしかり。

つまり、生徒達からすると、生活するために必要もないめちゃくちゃ難しい問題を、毎日学ばされ、できなければ落ちこぼれるしかない恐怖と共に暮らさなければならないのだ。

なんのための義務教育なのかと思ってしまう。

夜間中学校へ通う人々は、みな「学校へ行くことが楽しい」という。
そして、「学び、知ることが楽しい」という。

圧倒的に多くの生徒が通う昼間の小・中学校の生徒は、どう思っているのだろうか?




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誕生日

2006-08-27 16:33:49 | つぶやき
アレルギーが原因で、ちょっと過労と重なって、気管支喘息を起こしてしまい、長いことPCからご無沙汰でした。

夜になると咳き込み、明け方近くになると息が出来なくなり・・・ダ・ダ・ダレカダジゲデグレ~~~!!!てな感じで1ヶ月。

なんとか咳も少なくなり、夜明けに咳き込んで目が覚めるということが大分少なくなってきました。

その間に、50歳まで残り1年という貴重な誕生日を迎えたわ・た・し

遥か昔、私をこの世に送り出してくれたおババから「旨い物でも食べろ」と小遣いが届き、心配の種の末娘からはお祝いメールが届き、運良くもらったコンサートのチケットと花束を夫からもらい、池さんでは例の合唱隊のハッピーバースデイの歌や「おめでとう」が書いてあるケーキや記念写真をもらって、名人やみよちゃん、けんけんにもお祝いしてもらって、そして昨日は、久しぶりのお休みの前日だったので、長女夫婦や息子や息子の彼女にお祝いの綺麗な服をもらって、居酒屋で皆でまたまた大宴会。

屈強な鉄の女もウルウル・・・となった次第。

やっぱ生きてるっていいな・・・とか、お祝いしてくれる家族や皆に囲まれて幸せものだわ・・・とか、人生っていろんな事があるけど、いいもんだわね・・・とか思いつつ、いつものように咳き込み始めて・・・気がつけば朝。

あと1年。
50までにしたいことが一杯あることに改めて今日気がついた誕生日の3日後。
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暑い!!!

2006-08-13 21:57:17 | つぶやき
本当に暑い毎日!
PCのある部屋にはクーラーがない!
その上、いつものアレルギーと夏風邪に負けて、ダウン気味!
しかも、例の宮崎に住んでいた賑やか長女夫婦がIターンで同居!

したがって、最近の私の生活・・・

仕事が始まるとパワー全開!
一日笑顔で働き、終了と同時に冷蔵庫から冷えたビールを出して酒盛り!
そして、居間でダウン!
すっかり見るはずだったテレビが終わり、皆が消えた頃に起き出してシャワー!
それから、布団にもぐりこむ。
でも暑くて寝苦しく、結局扇風機とクーラーのお世話になって、寒い寒いと布団をかぶる夫の横で、暑い暑いと言いながら、鼻水出して暴れてる・・・

そんな色気たっぷりの日常を送っております。

どうか皆様、ご安心を
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おとめちゃん

2006-06-07 22:03:25 | つぶやき
おとめちゃんが死にました

今朝、犬のきなこを散歩につれていった夫が、冷たくなったおとめを抱いて帰ってきました。学校の校門の前で死んでいたのです。たぶん車にはねられたのでしょう。そういえば夕べから姿がみえなかったなと思い返し、夜中の3時ごろ、にゃん吉が2階の窓から入ってきて、やけに私や夫の腕を頭でつついて起こそうとしていたのを思い出しました。

にゃん吉は食いしん坊だから、夜中に帰ってきて、またお腹がすいたのだと思い、朝まで待ちなさいと言って、また寝てしまった私。今思えば、おとめを見つけて起こしにきたのかもしれません。

以前「ごん」というネコを飼っていました。とっても頭のいいネコでした。その「ごん」が死んだあと、み~んな寂しくて、知り合いから生まれたての子猫を2匹もらいました。一匹がオスでにゃん吉。もう一匹がメスでおとめ。

2匹はチンチラとペルシャのあいの子で、毛糸玉のようにふかふかでした。まだ小さかった末の娘は、パーカーの帽子に2匹を入れて、良く遊んでいました。

本当に本当にかわいらしくて、ネコの性格そのままで、気ままで甘えん坊のおとめちゃんでした。人懐っこいくせに、気分が向かないと引っかいたり、噛み付いたり。食べるのはフードをほんの少しだけ。でも、ケーキのクリームや牛乳は大好き。コーヒーに入れたミルクのカップを舐めるのが大好きで、いつもねだって小さな入れ物をペロペロしていました。
中でも、大のお気に入りは、小松町の名物の「よしのもち」・・・の、「あんこ」
 お皿に入れていても、上手に手で引っ張り出して、これまた上手に包装紙を破り、おもちの中の「あんこ」を食べるという特技を持っていました。

一緒に生まれたネコ、いたずらっこのにゃん吉は、今日一日、ずっと家で寝ていました。食いしん坊なのに何も食べずに。今も、寂しそうに寝ています。きっと分かるのでしょうね。

犬のきなこも、今日はとっても静かです。

かわいかったおとめ。私たちにとって、おとめはかけがえの無い家族でした。いつも私たちは、ふかふかの温かいおとめに心を癒されていました。

おとめちゃん、さよなら。
たくさんの思い出を、ありがとうね。

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最愛の娘へ

2006-06-02 23:11:35 | つぶやき
しばらくご無沙汰していました。
この間、嵐のようにいろいろなことがありました。

これでも母なので、うすうすは気付いていたけれど。

大きな夢と希望を胸に、社会へ飛び立った娘。
その娘が、思いもかけないほど心に大きな傷を負い、出口のない迷路に迷い込んだようにストレスを抱えて過ごしていました。

何もかも息子とスタッフ、夫に任せて、福岡行きを決めた母。

博多駅で見た娘は、まるで幽霊のように見る影もなく、力なく笑っていた。母、思わず涙がこぼれそうになったけど、ぐっと我慢。・・・笑顔で対面。

そして、中心部にある彼女の1ルームマンションへと。
ご飯を食べに行くためにお化粧した娘は、やっと娘らしくなったけれど、でもやつれてかわいそう。

寝られんかった、食べると吐く、弱いから、もっと強くならんと・・・
彼女から出る言葉は、すべて自分の弱さゆえ、と自らを責める言葉ばかり。

一緒に少しビールを飲み、博多名物の焼き鳥を食べていっぱい話しをした。

明日も仕事があるから、と早めに寝た娘は、次の朝5時には職場へと、重い体を引きずるように出かけて行った。

それから1週間。一日中、ただひたすら娘の帰りだけを待った。
あちこち食材を求めて知らない町を歩き、狭い台所で、少ない調理用具で、娘の好きな茶碗蒸しや魚の煮付け、お味噌汁やおすしを用意して待った。

日を追うごとに、食欲も出て、夜もぐっすり眠り、休みの日には2人で賑やかな場所にも出かけ、美味しいケーキを食べたり、いっぱい遊んで気分転換をした。

そして・・・
区切りを自分自身できちんとつけた娘。

最愛の娘へ

人間は、もともと弱いものです。
そして、1人では生きられないものなのです。
時として、悩むことも必要です。
でも、すべて1人で解決しようとしないで。
周りを見渡せば、きっと悩んでいるあなたの気持ちをわかってくれたり、助けてくれる人は必ずいるはずだから。

強くなるということは、
1人で生きていくことではありません。

強くなるということは、
自らの弱さを知るということ。弱いからこそ、素直に助けを求め、方向転換や軌道修正を繰り返しながら、自分の生きる道をしっかり考えて、歩いていくことだと思います。

人生は長いのです。
そして、どんな経験や失敗も、人生に決して無駄なことなどないのです。

出会った人たちに感謝して、しなやかに、生きてくれることを願っています。

まだまだ人生はこれからです。
いつもの笑顔いっぱいで、元気に帰ってきてくれることを願っています。

母より




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タイミング

2006-05-12 23:54:47 | つぶやき
ちょっとだけ、最近、めげ気味な私。
勢いと理想と信念と夢と現実のハザマで立ち止まった感じのする今日この頃。

多分、関わったことのない「経営者」という立場に、ストレスを感じているのかもしれない・・・と思う。

いろいろな想いがめぐり、いろいろな葛藤の中にいた私に、まさに絶妙のタイミングで1人の訪問者があった。

朝6時半。ピンポーンと玄関の方で聞こえた音に、まだ布団の中にいた私は、頭ボウボウで飛び起きて開けて見ると、夕浪のじいちゃんが「おう」と笑顔で立っていた。(・・・正確には、腰をまげて座っていた)

以前、
1年前、
選挙に落ちて落ち込んでいた時にも
本当にタイミング良く、塩付けのタシッポを持って大雨の中を来てくれた。

「人生、まっとうに生きることが大切なのだ。その場限りの生き方をしてはいけない。あんたは、まっとうに戦ったのだ。」
と励ましてくれた。

そして、今日もまた、めげていた私に「何事も辛抱が肝心。誰にも器というものがある。器を大きくして待っていれば、必ずその器に見合う結果が訪れるものだ。」

と話してくれた。

思わず、涙が出そうになった。

私がめげていることを、じいちゃんは知らない。知らないで、たまたま来てくれただけなのだ。でも、そのタイミングの良さと飾らない人柄と、苦難の中を生き抜いてきた人生の重みが、今の私の心に沁みた。

そして、「人を励ますこと」は、決して言葉の綺麗さや学歴などではなく、その人が生きてきた人生によってこそ、重く心に響くものになると改めて知った。

じいちゃん、ありがとう。
器の大きな人間になれるよう、がんばってみるからね。

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責任を負う

2006-04-26 22:49:26 | つぶやき
今日の愛媛新聞の記事「ヤンキー先生のきょういく論」
「親や教師は、子どもたちの○○に対して責任を持って向かい合わなければならない」この文の中の○○に何が入るか、という話。

教職課程の学生のうち、もっとも多くの支持を集めた意見が「人生」であったという。もっともらしい答えに見えるが、しかし、所詮誰かがかわりに全人生に責任を持てるほど人生は軽いものではない、とヤンキー先生は述べている。
大人が子ども達に対して持たなければならない最も重要で明確な責任は、「成長」に対する責任であるとみごとに言い切っている。(・・・同感!)

成長に対して大人には責任があるからこそ、優しさと甘えをすり替えたり、転ぶ前に杖をあたえるようなことをするべきではない、と。

子どもたちが変わってきている。それは世の中が変わったからという単純な理由だけではなく、親のありようや教師の姿が変わってきているからだと思うことがしばしばある。

生まれた子どもを、「社会で生きることができる一人前の人間」に育てていくことは、社会の文化や価値観がいかに変化しようと、古代から続く「大人」に与えられた使命である。その責任を放棄している大人たちのいかに多いことか・・・。

・・・とすれば、この善家先生の言葉は、親だけでなく、教師だけでもなく、社会に生きる全ての大人たちが心に刻まなければならない重い言葉であると思うのだ。

更に今の我が身に思いを寄せてみる。

善家先生のこの言葉を、「介護に携わる人たちは、介護される側の○○に責任を持たなければならない」と置き換えてみると・・・

もちろん「人生」などという大それた答えはあてはまらない。子どもではないから、「成長」でもないだろう。

私が思うのは・・・「暮らしの質」
残存している身体機能を維持したり、より身体的な状況がベターになるように、いろいろと援助すること、は確かに大切ではあるけれど、人間はそうした身体的なレベルでのみ判断されるべきものではない。
毎日の暮らしを、少しでも豊かなものにしていくという目的で、リハビリや訓練は行われるべきものであるといつも思っている。

年老いても、穏やかで笑いの絶えない心豊かな生活を送り、充実感に溢れた日々を過ごすことができるよう、私たちは援助するべきであると考えている。

名人の池さんでの一日が、笑顔いっぱいの素敵な一日になるように、今日も楽しい一日だったと思ってもらえるような、そんな責任の持ち方をして、向かい合って共に生きていきたいと思う。

もし、これを読んでくれているあなたが、同じ仕事に就いている人ならば、あなたは何と答えますか?





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生きること

2006-04-25 23:55:06 | つぶやき
れいこさんのおばあちゃんが亡くなった。
千原の山で暮らし、千原の山と共に生きたおばあちゃん。

何度か、畑を見に千原に行った時に、お会いしたけど本当に千原の風景と一体化した素敵なおばあちゃんだった。

入退院を繰り返していたけど、千原に帰って春を迎え、桜の中を病院へ。
そして、ご家族の手厚い看病を受けながら、皆に囲まれて、とうとう召されてしまった。

私の父もおばあちゃんと同じく癌で69歳で亡くなった。

私が幼い頃は、ずいぶん私のことをかわいがってくれたらしいけれど、物心つく頃から、いろいろな事情があって、私も父にどう関わっていいかわからず、父も私にどう愛情を表現していいかわからず、お互いがギクシャクした関係で、ずっと過ごしていたように思う。

そして、父が癌でもう長くないとわかった時、私はこの地で、3人の小さな子どもを育てながら寝たきりの夫の父を介護していた時期だった。
看病は、母が1人でするしかなかった。
今思えば、大変だったと思うが、その時私には時間もゆとりもなく、最後に入院した時に、末娘を保育園に預け、義父の食事の支度を終えてから、急いで倉敷へ車を飛ばし、ちょっとの間、母と交代して、また3時頃にはこちらへ帰るというくらいの事しかできなかった。

そして、いよいよ危篤という状態の時、初めて母と弟と共に一晩を病室ですごした。父は、痛み止めの薬のせいで、夢と現実が交差する中で、最後まで残される母を気遣い、微笑み、次の朝、主治医の先生や看護婦さんにもお礼を言い旅立っていった。

父との間にはいろいろな想いがあり、最後まで素直になれなかったが、この病室で過ごした一晩に、それまで遠かった父との距離が一瞬にして消えたように感じた。

父は長い間患ったが、愚痴や弱音を吐くことも無く、周囲の人に感謝し、お礼を述べ、笑顔で「すばらしい死」を迎えることができたと思っている。

父の「生き様」と「死への道のり」の日々は、明らかにその後の私自身の生き方の目標となっている。

誰にでも平等に「死」は訪れる。
その「死」をどう迎えるか、その時初めて、人のそれまでの生き方が明らかにされると思う。

父や千原のおばあちゃんのように、大切な家族に付き添ってもらい、お世話になった人たちにお礼を言って、笑顔で旅立てたらいいなと思っている。

千原のおばあちゃん、長い間お疲れさま。
ゆっくり眠ってくださいね。
おばあちゃんがつくってくれたお大根、本当に美味しかったよ。
ありがとうございました。




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