タクシン首相と、タイの政情不安 (009.04.13.)
タクシン・チナワットと言う人は、1949年7月26日生まれ、チェンマイ出身の中国系タイ人である。
タイ王国警察士官学校を卒業し1973年、内務省警察局に任官、その後アメリカ留学の機会を与えられ、刑事司法博士を取得している。その間に警察中将の娘ポチャマーン・ダーマポンと結婚し警察官僚として勤務し、最終階級は「警察中佐」で退役している。
また、タクシン氏は企業家としての一面を持っている。
最初は数々の企業に手を出したがどれも上手く行かず大きな赤字を抱え込んでしまったが、携帯電話サービスの営業権を政府から獲得し、AISと言う携帯電話会社を立ち上げた事が成功し、タイ国での携帯電話の普及と共にタイを代表するコミュニケーション会社となったのである。
此れによってタクシン一家は、大富豪となり1987年警察を退職した後も警察時代の関連を生かして、現「シン・コーポレーション社」を設立したのである。
政治家としてのタクシンは1994年にパランタム党に入党しその後外務大臣に任命されるが、タイ憲法で大企業の株主は大臣になれないことから辞職するが、その後の株名義の書き換えや、「シン・コーポレーション」の売却等に絡む、所得隠しや、税金工作等々の問題が世間から大きな批判を浴びるようになったのである。
この様にして、タクシンは、金に物を言わせる資金力で政界を牛耳る様になり特に農村はじめ、地方の景気振興など画期的な政策を執ったことから政治的にも確固たる基盤を固めたのである。
一方に警察機構を、もう一方に巨大な資金によって利権を握る事で、官僚機構を丸呑みにした権力基盤が彼の独裁政権を作り上げて行ったのである、此れにはプミポン国王も事態を憂慮し、タクシンを叱責したそうである。
しかし彼は終始強気で、選挙によって国民の信を問うと下院を06年3月解散し選挙を行なうことにしたが、野党は投票をボイコットし退陣を求めるデモが活発に行なわれた。
此れが、クーデターの原因になりタクシンはロンドンに亡命する事になる。
この時の選挙はタクシン派が勝ったが有効票が既定に達せず無効となり、再選挙する事になった。
そして、07年12月に下院選挙が行なわれ「人民の力党」(タクシン派)が圧勝したことから08年2月にタクシンが亡命から帰国を果したが、帰国と同時に汚職防止違反容疑で逮捕されている。
タクシン派の選挙は、農村や地方には強いがバンコク等の都市部では弱い、投票数では勝つが、都市部では負けている。それは反タクシン派の野党は選挙をボイコットするという捨て身の戦術をとり、「不法な選挙」には力で勝負すると言う戦術をとっているからで、プミポン国王もタクシンに反政府派との妥協を迫っているが、タクシンは受け入れようとはしない。
タクシンは、国内では「国家汚職防止法違反」で起訴され、民衆からは退陣を要求するデモ行為に曝され、08年7月北京オリンピックの開会式に参加する事を理由に最高裁判所から許可を得てし出国したが、そのままタイに戻る事は無く、7月の刑事裁判では夫人が脱税罪で禁固3年の実刑判決を受けるという窮地に経たされためか、亡命を決意したようである。
しかし、亡命先であるイギリスの対応も、タクシンの有罪判決に入国ビザを無効にする事になり、イギリスに戻る事も出来ず。中国などを転転とする生活を送っているようである。
今後の行方はどうなるのか、解りませんが、独裁者の行く末を象徴するような事件であると思います。タイ国民の悲劇を早く解消する為に、金の亡者や権力の亡者が国を治めるのではなく、国民が一体となって、助け合える国に成る事が第一であり、タイには国王も居られる事だし、日本も歴史上親しみのある国だけに早くまともな国に成る事を希望したいと思います。
(えびなたろう)
タクシン・チナワットと言う人は、1949年7月26日生まれ、チェンマイ出身の中国系タイ人である。
タイ王国警察士官学校を卒業し1973年、内務省警察局に任官、その後アメリカ留学の機会を与えられ、刑事司法博士を取得している。その間に警察中将の娘ポチャマーン・ダーマポンと結婚し警察官僚として勤務し、最終階級は「警察中佐」で退役している。
また、タクシン氏は企業家としての一面を持っている。
最初は数々の企業に手を出したがどれも上手く行かず大きな赤字を抱え込んでしまったが、携帯電話サービスの営業権を政府から獲得し、AISと言う携帯電話会社を立ち上げた事が成功し、タイ国での携帯電話の普及と共にタイを代表するコミュニケーション会社となったのである。
此れによってタクシン一家は、大富豪となり1987年警察を退職した後も警察時代の関連を生かして、現「シン・コーポレーション社」を設立したのである。
政治家としてのタクシンは1994年にパランタム党に入党しその後外務大臣に任命されるが、タイ憲法で大企業の株主は大臣になれないことから辞職するが、その後の株名義の書き換えや、「シン・コーポレーション」の売却等に絡む、所得隠しや、税金工作等々の問題が世間から大きな批判を浴びるようになったのである。
この様にして、タクシンは、金に物を言わせる資金力で政界を牛耳る様になり特に農村はじめ、地方の景気振興など画期的な政策を執ったことから政治的にも確固たる基盤を固めたのである。
一方に警察機構を、もう一方に巨大な資金によって利権を握る事で、官僚機構を丸呑みにした権力基盤が彼の独裁政権を作り上げて行ったのである、此れにはプミポン国王も事態を憂慮し、タクシンを叱責したそうである。
しかし彼は終始強気で、選挙によって国民の信を問うと下院を06年3月解散し選挙を行なうことにしたが、野党は投票をボイコットし退陣を求めるデモが活発に行なわれた。
此れが、クーデターの原因になりタクシンはロンドンに亡命する事になる。
この時の選挙はタクシン派が勝ったが有効票が既定に達せず無効となり、再選挙する事になった。
そして、07年12月に下院選挙が行なわれ「人民の力党」(タクシン派)が圧勝したことから08年2月にタクシンが亡命から帰国を果したが、帰国と同時に汚職防止違反容疑で逮捕されている。
タクシン派の選挙は、農村や地方には強いがバンコク等の都市部では弱い、投票数では勝つが、都市部では負けている。それは反タクシン派の野党は選挙をボイコットするという捨て身の戦術をとり、「不法な選挙」には力で勝負すると言う戦術をとっているからで、プミポン国王もタクシンに反政府派との妥協を迫っているが、タクシンは受け入れようとはしない。
タクシンは、国内では「国家汚職防止法違反」で起訴され、民衆からは退陣を要求するデモ行為に曝され、08年7月北京オリンピックの開会式に参加する事を理由に最高裁判所から許可を得てし出国したが、そのままタイに戻る事は無く、7月の刑事裁判では夫人が脱税罪で禁固3年の実刑判決を受けるという窮地に経たされためか、亡命を決意したようである。
しかし、亡命先であるイギリスの対応も、タクシンの有罪判決に入国ビザを無効にする事になり、イギリスに戻る事も出来ず。中国などを転転とする生活を送っているようである。
今後の行方はどうなるのか、解りませんが、独裁者の行く末を象徴するような事件であると思います。タイ国民の悲劇を早く解消する為に、金の亡者や権力の亡者が国を治めるのではなく、国民が一体となって、助け合える国に成る事が第一であり、タイには国王も居られる事だし、日本も歴史上親しみのある国だけに早くまともな国に成る事を希望したいと思います。
(えびなたろう)