日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
ここ数年は 主に楽器演奏🎹🎻🎸と読書📚

テーブルいっぱいのご馳走

2011-02-26 20:45:07 | Weblog

 私達が子供の頃、長期休暇に入ると同時に、「おばあちゃんちへ遊びに行こう~!」

当たり前のように水俣へ遊びに行っていたっけ。

始業式、ギリギリまで滞在するのが普通だった。

春休みあけには新学年になるから、夏休みや冬休みのように「宿題」もない。その上、気候もいい!

思いっきり遊ぶには、もってこいの「休暇」だったのね。今でも一番、思い出深いのは、小学校2年生だった自分の春休み。

 駅までおじいちゃんが自転車を押して迎えに来てくれた。

「荷物ば ここに乗せんね!」 おじいちゃんは そういうと、自転車の荷台に乗せた荷物を紐でグルグル。荷物が落っこちないように。

身軽になって、「やった~、着いたんだ~!」

おじいちゃんより先に走り始める私達だったけど、途中で必ずおじいちゃんの自転車に追い抜かれる。

バイバイ~~~って、正面を向いたまま、片手で手を振るおじいちゃんの後ろ姿を眺めながら、

「すごいよねー。片手で自転車、運転できるなんてねー」

 

 早朝一番の特急に乗ると、4時間半後、(当時)水俣駅に到着する。

乗り物酔いが酷かった子供の頃の私は、電車の中で何も食べられず、お腹はぺこぺこ。

おばあちゃんは魔法のような素早さで、巻寿司を何本も巻き、いなり寿司やちらし寿司、それに煮ものや お吸い物等を食卓いっぱいに並べ、迎えてくれていた。

子供の頃の私は、これが当たり前だと思っていたけれど、大人になって周囲から聴く話では、「おばあちゃんとは、こういうもの」と言うわけでもないらしい。

実家に着くと、最初にすることは、掃除、それから買い物、食事の準備だった・・・当時、まだ50代の祖母でも、そうなんだ・・・料理は実家に戻った娘がするもの、そういう家庭も一般的だったんだなーって。

私達の滞在中、当時、娘だった20代の叔母が料理をしてくれただとか、私の母が代わって料理をするだとか、そういう記憶は殆どない。

母に確認しても、

「そうよね。おばあちゃんが毎日、三度の食事を準備してくれてたね。私達は、せいぜい皿洗いくらい・・・手伝うとしたら・・・」

3つ、場合によっては4つの家族が集う水俣の家。

いったい、何人分の食事を・・・?

ピンク・レディーが流行していた当時の春休みは、おばあちゃんの娘4人の家族全員が集まったのだ。

孫も含め、相当の…人数!!!

到着日も帰宅日も それぞれ違ったが、ほんとに ほんまもんの大家族!だった。

だから料理のおかずも てんこ盛り!

高校生になった私は祖父母宅暮らし。

その頃も大家族の時と同じように、てんこ盛りの料理は変わらず、

毎回、余ってしまい、何日もレンジで温め直して天ぷらを食べる日々にうんざりしている様子の祖父だった!

その一方で、私とおばあちゃんは、おじいちゃんが大量に買い込んでくる「きりん色になりかけたバナナ」に うんざりしていたが・・・。

やっと・・・! 食べ終わるね~と思った頃、「安かったで!」と大量に持ち込まれるバナナたち。

戦後は、貴重な食べ物だったんだよね、バナナちゃん。

 話を天麩羅に戻し。。。

ある日、大皿3枚分に盛られた天ぷらを見た祖父。

かあさん・・・家族は娘達や孫一家が居た頃と違って、半分以下の人数なんだから・・・

天ぷらの量も 半分にしたらどげんね?(どうね?)」

これを聞いたおばあちゃん、むっとした表情で、

文句を言うなら、食べなさんな!

この時、私も おじいちゃんの意見に賛成だったものの、不機嫌になったおばあちゃんに何も言えずにいると・・・

かあさん! 文句じゃなかがね。 (文句じゃないよ)アドバイス やがね!」

おばあちゃんは・・・きょとんと・・・し・・・・

おっ・・・おっ・・・おじいちゃんっ! 

横文字が得意なハイカラじいちゃん、ナイス!

私は たまらずバカ笑いっ!

ぶっはははははっ~~~~~~!!!

私のけたたましい笑い声につられたように、おじいちゃんも 吹き出し・・・

おばあちゃんも、最後は笑顔。

「そっ・・・そんなに笑わんでも・・・よかがね・・・」と呟きながらも・・・・ねっ

 

大人数で、

いただきま~す!

ごちそうさま~!

畳の上に正座して、途中でしびれた足を崩して。

食卓を囲むことが楽しかった春休み。

 

今年は みなさんにとって どんな春休みになるのでしょう・・・ね??

 

すず

Comments (2)
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