日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
ここ数年は 主に楽器演奏🎹🎻🎸と読書📚

運命の未明 決戦は金曜日! だね♪

2010-06-23 23:41:09 | Weblog
 25日未明。
いよいよですね。
ワールドカップ 日本 VS デンマーク戦。
この日を今か、今かと待ちわびた日々。
あと1日と何時間だっけ? というくらい試合開始が近付いてきました。
ワクワク☆ドキドキ♪
 日本戦も勿論何よりも大事なのですが、アルゼンチンのメッシ選手。
マラドーナのようなドリブルが持ち味で、全世界の注目を集めています。
今大会前にNHKの特集番組で彼を、そして彼の生い立ちを知ることが出来て幸運でした! 
サッカー選手にしては小柄な身長169センチ。
家庭が貧しかった彼は地元リーグのプロのサッカー選手を夢みる少年でした。
しかし、彼を襲った悲劇。
それは、病気で背が伸びない、というものでした。
結局、彼はプロを目指し、愛する家族と別れ、12歳で単身バルセロナへ渡ります。
成長ホルモンを打ちながら、プロを目指すことを諦めなかった彼。
本当は、地元リーグでプレーしたかった。
でも、地元リーグには治療費を払ってくれる余裕がなく、スペインへ旅立ったのです。

そんな彼の夢は母国、アルゼンチン代表のユニホームを着て、母国の為にプレーすることでした。
しかし、スペインリーグ、バルセロナで見せる華麗なドリブル突破が代表の試合では、仲間とプレーがかみ合わず、結果が出ていませんでした。
メッシは地元メディアからバッシングを受けます。
「彼はアルゼンチン人じゃない」…と。
誰も彼の心の内を理解をしてはくれない。
とても辛かったことでしょう。
何とかメッシに代表の場で活躍してほしい。
番組終了後、国は違っても、メッシを応援したい自分が居ました。

そしてー。
韓国対アルゼンチン戦。
見事なプレーにワクワクしました。
アジア代表の韓国が勝つように応援すべきところを気がつくと、メッシのみならずアルゼンチンに向けて声援を送っている自分がいました。
メッシはマラドーナを超えているでしょ?
マラドーナにあって、メッシに無いもの。
それは、タイトルだけのような気がします。
W杯でメッシにタイトルをあげたい。
頑張れ、メッシ!
そしてJAPAN!

 この世にワクワク☆ドキドキする瞬間って、それこそ☆の数ほどありますよね。
世界が舞台のワールドカップサッカーから、もっと地元へ目線を移すと…。
見えてくるのは、必然的に我らがホークス。
 今日は地元でホークスの試合があったのに、「どうしてしまったの?」「ジョーが居たら…」「捕手の怪我は痛すぎる!」
とにかく怪我人が多いホークス。
やっとマッチ(松田選手)が2軍から1軍復帰したと思ったら、山崎捕手が登録抹消。今季は絶望的っていうし、心配が絶えません(泣)
 明日こそは連敗ストップ。
頑張れホークス☆
 
 更に、さらに身近に目を移すとー。
利用者さん、今日も「気が利かない」私ですが、色々とありがとう。
出逢ってくれてありがとう。
これも何かの縁。
人生の終盤に「わたし」と関われて少しはいいことあった、と一瞬でも思って頂けたら…
私は今日も幸せです。
今日も ありがとう。

 障害者施設の利用者さんっ♪
サマーレクリエーション、8月でしょ?
休み貰って行くから、日程を教えてね。絶対、ぜった~い、又、会おうね。約束したもんね。それまで笑顔でね!

 大事なことは、すべての仕事に通じるところがありますよね。
店長、副店長、チーフ、『あのとき、あの場面で』今も天の声が必要に応じて聴こえます。
永遠に私の上司です。特に、「紹介したい人がいるの?」と私に笑顔で言って下さった店長。いつかどこかで再び何かの御縁で一緒に仕事が出来たらいいな~と思う。福祉にすっごく詳しいので驚きました☆

 明日はECCのレッスン日♪
宿題はもう終わりましたか? 私の方は、レッスン準備がまだ終わっておりません。
午前中には終わりますので、楽しくレッスンしましょう~。

 心の片隅にふっと浮かぶ言葉と、「あの日」に見た表情。
例えば、「自分で打たずにパスを回したら…負けた」
苦しいことを私にだけ打ち明けてくれて、ありがと。
そんな幾千もの出逢いが私を前進させ続けてくれているのね、きっと。
もしも私を ほんの少しでも思い出してくれることがあったなら、ひとことだけでいい、
「少しは頑張ってるみたいね」って呟いてみてね。
遠くにいても、直接連絡なくても、「励ましの声」が聴こえているような気がする。
多分。
きっと。

Friendship is a promise
To think of each other,
either near or far apart.


すず

 
☆お知らせ☆

Goodbook出版を代表する人気作家、裕次郎さん(新聞小説の連載も書いている実力派なんだよ~凄いよね!)
遂に3冊目の新刊が出ました!
『心臓ジェット』です。
私も紹介記事を Aussie Mateに書きました。

前向きに夢を追う大切さを思い出させてくれる本です。
皆さん、読んでね。


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FIFAワールドカップ 

2010-06-17 14:11:32 | Weblog
 カメルーン戦に備えてしっかり夜寝を一時間。
ほんとは2時間程、寝たかったけれど、仕事から帰宅し、色々雑用をこなしていたら、結局、試合開始まで1時間に…。 
ワールドカップ直前、最後のイングランド戦もホークス戦の中継と行ったり来たりしながら観ていた私。
サッカー発祥の地、イングランド相手に結構やるなぁっていうのが私の感想。
あの時からホンの少ししか日数も経過していないにもかかわらず、今回 感じた日本代表チームの一体感って素晴らしい。
結局、試合が終わった後も翌日仕事ということはすっかり忘れてしまっていたんです。
NHKのミス?で、途中、選手のインタビューの音声のみが聴こえなくなるという、フラストレーションを感じながらも、深夜1時半までテレビを観続けてしまいました…! 私にとっては、「オフト! 俺を出せ!」とピッチの外で叫んでいたドーハの悲劇以来、ファンになったゴン中山が日本代表へ向けた試合直前のメッセージ、

「魂を震わせてくれぇ~!」が、現実のものとなり、一夜あけると日本列島が歓喜に沸いていましたわ~。 
いつも思うことですが、こういう時の日本の盛り上がり方って、すごいですね。

私がサッカーワールドカップに初めて興味を持ったのは、とても遅く、ドーハの悲劇の前です。
父とマスコミの影響で、どうやらオランダ出身のオフト監督を迎えてから、日本代表は急激に強くなり、もしかしたら、もしかするかも…と言われるようになりました。
そういうわけで、ドーハの悲劇と呼ばれる あの試合も、深夜4時頃だったと記憶していますが、眠いながらリアルタイムで観ていたんです。 
ワールドカップへ行ける! と誰もが確信していただろう、ロスタイムで得点され、日本のワールドカップ初出場は4年後となる訳ですが…岡田監督がカズを選ばなかったというセンセーショナルな人選は、当時、海外にいた私の耳にも当然ながら、届きました。
7月。
南半球のオーストラリアは冬。
大学院も三週間の冬休みに入るため、韓国戦は下宿先の韓国人の女の子とトンガ出身のケプと一緒に観戦し、その翌日に日本へ一時帰国。
帰国したその日が日本の初戦、確かクロアチアだったっけ? ワールドカップに出場することに意義があるという感覚で日本代表を見守っていた、、、、当時の心境としては、そんな感じでした。

更に4年後には、日韓大会。 
前大会では18歳だった小野信二、それに稲本選手が主力になり、親日家が多いオーストラリア人も、

「日本は負けたけど、昨夜は良くやったと思うよ。でも、ロッカーのように金髪に染めた髪はちょっと??? 日本人は黒髪がいいと思う」
というコメントをレジに居る私に何人もしてくれて、嬉しかったと同時に、後半のコメントには吹き出したものです。

ワールドカップ観戦に纏わる話もいくつもあるけれど、特に国際都市シドニーで多国籍の人が集う職場やアパートでの観戦って、日本を応援するより相手国を応援している人達の方が多くって、だからこそ、余計に大和魂が燃え上がるというか、

「私、日本人!!!」
をひときわ強く感じる瞬間というか…。↓↓↓

~仕事よりサッカーワールドカップ、国際人の前に、日本人♪を強く感じる日~

「来週のシフトを作成するから、働けない日を教えてくれる?」
オーストラリアのお給料は週払い。
何故なら「飲んべぇ~のオージー(オーストラリア人)が月給で貰うと昼間からバーで飲んでしまい、一週間で給料を遣ってしまうから」、と言われている。
そういうわけで、シフトも週単位で作成する。

私が働いていたオーストラリアの地域密着型、ミニスーパーマーケットでも、シフトは週単位に作成していた。
「来週、働けない日を教えてくれる?」
私の声に、「水曜日と木曜日は学校があるから働けない」、といつものメヘディの希望。
でも、ボスがメヘデイの自宅へ電話したときも、私がそれとは気付かずに用事があって彼の自宅へ電話したときも、彼はちゃんと家に居た。
「実は具合が悪くて学校を休んで…」とシドロモドロに言われて初めて、「あっ、そっか。今日は水曜日なのに家にいるんだ」と不信に思ったのだった。
ほんとは、火曜日に発注したコカコーラは水曜日、その他のメーカーさんの飲料は木曜日に大量入荷され、それらを荷出し、倉庫へ運ぶ仕事が一日がかりである訳で、それが嫌だったらしい。
私が働いていたオーストラリアのミニスーパーでは、飲料はすべて週一回の発注、入荷だった。
誰も働ける人が居ない、というよりは、働きたくない水曜日と木曜日。
私が朝7時半の開店前から23時45分の閉店まで、一年以上、独りで長時間労働していた。
授業料のほか、生活費も必要な私にとっては、二日の勤務で一週間分のお給料を稼げる! という利点もあった訳で、お陰で両腕は今でも年齢の割には「たるみがない!」し、当時から続けている腕立て伏せ20回は軽くこなせるし、収入面でも健康面でも、いいこともあった。
勿論、途中、北海道出身のワーホリの男の子が数カ月、働いてくれたり、お店で知り会ったヨシが この時期から働いてくれるようになり、スタッフは増えた時期もあった。

職場は皆一緒。と、言われがちな日本。
だけど、仕事を長く続け、楽しむ意味でも、スタッフ一人ひとりの生活スタイル、都合、健康面、年齢を考慮してもいい、と個人的には思う。
長年、外国で働いていたから、他民族が共存する社会で、違いを認める日常を体感してきたから、専攻が社会学だったから、そこでは日本社会の不平等さを指摘されることが多かったから、という要素も多い。
障害者施設でも、個人の能力に合わせて出来ること、得意なことを主に…という環境にいた。
少しの我儘はいい。
介護中でも堂々と楽しんでいい。
前もって職場から休暇を貰い、旅行だってしてもいい。
楽しんでいい。
私は、そう思う。
「あんたたちは呑気かねぇ~! 家族の中に病人が居て、旅行にいくんね!」
と身内に指摘されたこともある。
その時、相手に敬意を払いつつも言った。
「それって、違うと思う。こういう時だから、旅行にでも行って息抜きしたり、家族で楽しんだりしないと、共倒れになる。
私が仮に精神科病棟に入院したり通院したするようになるより、いいんじゃないの? 私にとっては旅行費は病気にならない為に必要なものなの。旅行費は医療費だと思えば同じなのよ」

「旅行へ行くから」
「友達と出かける予定だから」
という理由は勿論のこと、
「荷物が重い商品の入荷日だから働けない」だとか、
「テレビ観たい映画が今夜あるから」という理由でも、私は認めていた。
いつもなら、スタッフが働けない日に自分の勤務時間を当てはめていく。
(水曜日と木曜日は共に15時間労働ね)というのが私のシフトの作り方だった。
だから、シフトを作成する上で、ボスやスタッフから苦情を受けたことも、揉めたことも一度もない。
いや、無かった。

そんな私がワールドカップの開催時期だけは…。
勤務3年目にして、我儘を自ら言った。
「ホセインはサッカー好きだよね。いつも90分以上、私を一人にして売り場へ降りてこないでしょ? 何処のチームを応援してるの?」
こんな風に話は始まった。
「日本の試合日、私、仕事を夕方5時で終わるか、お休みにするか、どちらかにしてもいい? 冬休みなんだから、メヘデイも学校がある、とは(要するに嘘は)いえない筈だしねぇ」

ただ、問題は、誰が私の代わりに店に入るのか!? という点だった。
「冬休みだから学校、休みでしょ?」
この一言で、メヘデイは納得してくれた。
これで、初戦の他、2回はメヘデイが私に代わってくれた。問題は、残りの一戦。。。。
カレンダーを観ながら、
「この日、サッカーがあるから観たいんだけど、だれも代われる人が居なくて…」
と残念がっていると、ヨシが一回、入ってくれることになった。
日本人の彼が! ヨシだって、サッカー日本代表を観たいだろうに!
「俺はそこまでサッカーに熱中していないから、いいですよ」と笑顔で。
「え~? 本当にいいの?」
「いいですよ」
「じゃ、初戦はアパートでシェアメイト達も一緒にワールドカップを観るから、来る? ヨシは仕事、休みだし。この日、私は5時に上がるから夕食も作っておくね~♪」
一緒に夕食がメインのホームパーティは毎週のように開いていたし、月に一度は誰かの誕生日パーティをしていた。
勿論、近くに引っ越してきていたヨシも参加していた。
ワールドカップ観戦ホームパーティというのは、この時が最初で最後だったが、何故か私のシェアメイト達は誰も日本を応援してくれず、寂しい想いをしていた私にはヨシの応援は心強かったんだよね。
日本人同士、誰もが素直に愛国心を表現出来るイベント。
それがワールドカップだったり、オリンピックだったり。
特に日頃から愚痴が多い私達、日本国民にとっては意義ある日かもしれない。
素直になれて。

勝っても負けても選手をたたえ、応援し続けたい、という気持ちはホークス戦の時と全く変わらずの私。
ガ・ン・バ・レ、日本♪


おまけ♪

帰国後、日本の職場で、日頃は野球のことしか話題にしないので、「サッカーは?」とある人に尋ねられたことがあります。
「サッカーは日本代表の試合しか観ない」
と答えたのでした。
「それって本当のサッカーファンじゃないね」
返答に迷い、そうなんだろうなぁと思ったけれど、何も言わなかったっけ。

今、ひとつだけ言うことがあるとすれば、私にとって野球は西鉄ライオンズ、福岡ダイエーホークス、ソフトバンクホークス、そしてWBC日本代表…という歴史をたどっており、高校野球に熱中した中学時代の地域の野球が主流で、あとから日本代表チーム、という感覚であること。

一方のサッカーは、先にオフト監督の下、ワールドカップ出場を目指していた日本代表チームの存在のみがあり、カズやゴン中山を応援していたこと。
Jリーグ開幕は、その後の出来事で、
「じゃぁ、中山選手が所属するジュビロ磐田かなぁ」
くらいの感覚でしかJリーグをとらえられなかったし、私にとってはジュビロ磐田は地域のチームでは無かったから…イマイチ、サッカーに興味をもたない日常を送っているのかも…です。


それでもオリンピックと同じく、普段は殆ど観るどころか、
「こんな競技があったの?」くらいの感覚(特に冬季オリンピック)の私も日本人だわ~と強く認識させられるオリンピックやワールドカップ。
今、時差や国境を越えて世界中が同じ映像を観ている。
そう思うだけで、何でも上手く行きそうな気がするのでした。

すず


もう一つ、おまけ♪
プロ野球、交流戦。
終わってみれば、12球団中、上位6位までパリーグが独占!!!

「人気のセ。実力のパ」
と野村前監督がテレビ画面にドアップで語ったのが懐かしい~

今では、

「人気のパ。実力もパ!!!」
ですな。
セリーグ首位の巨人が7位。 わっははは! 愉快、愉快♪


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東京土産、福岡土産!?

2010-06-11 03:45:18 | 読書

 大学卒業後、「一番安く行けるから」という理由でワーキングホリディビザを利用し、初めてオーストラリアへ旅立った私だったが、本格的に勉強したくなっってしまった。ワーホリ1年滞在の予定を7カ月にカットし、まずは資金を稼ぐため、日本へ帰国。翌週に受けた子供英会話講師の面接と試験にめでたく合格し(22人の受験者、合格者は経験者の中堅と、教える事に関して全くの素人の私の2名だった、と後日、知らせれた)晴れて人生初の子供英会話講師となったのは、23歳の時だった。若かったぁ~、あの頃ぉ~♪ 幼稚園から中学生までの二十数名の生徒さん達とは、そんなに年齢差も感じず、その一方で、主に40代だった保護者のお母様方とは、年齢差を感じていたのも、はやり自分が見た目は勿論のこと、精神的にも「未熟なお子さま」だったから?? 生徒さんの中にはレッスン後、机の整理を手伝ってくれながら、真剣な眼差しで、「先生、好きな人、おる?」と、聴いてくる5年生の男の子もいた。
 (この年齢で好きな子がいるのか…早熟なんだ~)と、そちらでも未熟というより奥手な私は、(恋愛相談には乗れないかもなぁ)と、どぎまぎしながら思ったものだ。今では あの子も立派な青年になり、社会で活躍していることだろう。当時も「とある」スーパー、といっても、さくらではないが、本当に「とある何処かの」スーパーで準社員としてフルタイムで働きながらの講師業だったわけで、予定より早く資金を確保でき、再びオーストラリアに戻って行ったのは、約2年後の25歳のときだった。2年ぶりに訪れるオーストラリア。何も変わっていない。ホストファミリーのパパ、テッドが空港まで出迎えてくれ、シドニー北部の郊外にあるホームスティ先へ向かった。懐かしい…。この家で、その後4年以上を過ごすことになる。
 今でもはっきりと覚えているのは、私がワーホリ時代に最初に、この家へ来た同じ日、トオルと言う名の、これまた私と同じ年齢の男の子(当時はね)も到着したことだ。私がキッチンでホストマザーのジーアとお喋りばかりしている一方で、部屋から全く出てこないトオルのことをジーアはとても心配していた。
 「トオルは部屋にこもったまま、出てこないんだけど、お腹空かないのかしら? 大丈夫かしら?」…と。後々分かったことは、全く言葉が理解出来なかったトオルは、ただ単にシャイになっていたってこと。その後、日本から到着する英語学校へ通う学生たちは、みな、そうだった。日本に居た頃から英語を話すチャンスを伺っては、高校でも電車でもJICAでも大学でも英語で喋りまくっていた私の方こそ、レアな存在だったのかも?って思う。普段は大人しい、でも好きなことには超積極的、という周囲には理解されない性格だった。今でも そうか(爆)
 
 私とトオルをジーアもテッドも可愛がってくれた。ジーアの趣味なのか、「トオルとマユミを劇場へ連れて行く!」とはりきってもいた。これは実際には実現しなかったが。当時、ジーアが何度も言っていたのは、「トオルはきっと、日本の家族に海外へ行け!と、おくられたのだろう」ということだった。自分の意思で渡豪したとは思えないほど、最初の頃は物静かで猫をかぶっていた、いや、大人しかった、ということだ。当時の下宿人の中では一番にホームシックで帰国してしまいそうな雰囲気だった。 私が2年ぶりに再びオーストラリアの地を踏んだとき、そのトオルがホームスティ先に滞在しているなんて、予想できないことだったのだ。しかし、真黒に日焼けして、キッチンでお寿司を巻いていたんだよね、あの日。
 「ここに何年もいたら、こんなことくらいしか、することがない」とか言いながら。

 当時のオーストラリアは日本からの観光客、留学生が最も多く、ホームスティ先の日本人人口は更に過密化していた。日本人学生だけで7人下宿していたと思う。残りは韓国人。他にスイスやチェコなどヨーロッパ人、そしてインドネシアやシンガポール、香港、タイといった、東南アジアからの留学生も多かった。下宿先だけでも異文化体験を毎日していたことになる。
 今回、お話したいのは、国同士の異文化ではなく、日本国内の「異文化」だ。 25歳で二度目の下宿生となった頃、7人の日本人の出身国は、東京、神奈川、名古屋、沖縄、そして私が福岡だったと記憶している。大阪からも多くの日本人がやってきた。
東京、大阪、名古屋、沖縄…日本に居たら、直接知り会えることもない。テレビ以外で、「本物の標準語?」を日常的に聴いたのは、きっと、ここでが初めてだったし、ミュぁ~っといった語感の名古屋弁を聴くのも、外国語のような琉球言葉も初めて耳にするものだった。(当時、沖縄出身者が二人いて、お互いが話しているときは、それって外国語? と聞いてみたくなったものだった。意味、分かんないし、みたいな)神奈川出身の関東人、トオルは、彼らが気を遣いながら喋る沖縄標準語ですら、
「多分、こういう意味だろう」と想像しながら文脈で理解して聴いているってなことを私に言っていたくらい。 日本の方言って、面白いのよね。福岡では普通に、「それ、なおして」というけれど、「どこを直すの? 何処が壊れてる?_」みたいに聞かれて、(しまった!)と思うことが多かった。福岡では「しまう」という意味で「なおす」というんです。方言だとしったのは、成人してから。「お金をこまめて」と言われ お札を渡されたら、小銭に両替してってこと。じいちゃん、ばあちゃん世代が良く使う福岡の方言。これも福岡県民でないと、分からないよね。 方言だけではなく、初めて知った、勘違い、だったり、カルチャーショックを受けることもある。多分、私が二度目の渡豪を果たしてすぐの頃、一番衝撃を受けたのは、きっと、あれだわ…。

 「福岡って、お土産用の美味しいお菓子が多いよね。沖縄は ちんすこう くらいしかないから」
沖縄出身の二人が言う。福岡には銘菓が多い。確かにお土産として名前を上げようと思えば、「銘菓千鳥饅頭」「通りもん」「にわかせんべい」「博多の女(ひと)」「鶴の子」と、福岡県民なら誰でも知っている銘菓がいくつもある。
 私の全身に衝撃が走ったのは、そのあとだった。関東出身のトオルが言ったのだ!

 「東京土産といったら、ひよこ くらいしか無い」と。
 「え? 今、何て言った? 東京土産の ひ・よ・こ?」
 「うん」
 「ひよこの形をした、あの、銘菓ひよこ?」
 「そう」
 「何を言うんね。ひよこは…銘菓ひよこは、福岡土産よっ! 福岡の銘菓よっ!
私は自信を持って言った。いや、叫んだ。いや、ちょっと強い調子で言った。 絶対に間違いはない。ひよこは福岡の銘菓だ。子どもの頃から、物心ついた頃から、銘菓ひよこ、は福岡のお土産として駅の売店やデパートで売られているのだ。東京土産の筈がないじゃないかぁ~! バカいうな! という心情だった。

 日本国内にいれば、日本の政治に不平不満を言っても、海外へ行けば愛国心が強くなる。 郷土自慢も似たようなところがあり、福岡を離れれば、というよりは、他県の人と会話すれば、郷土愛が強くなるのだ。ひよこは福岡のお菓子だ…と。
私がこれまで出逢った外国人の中で、愛国心が最も強いのは(特に日本人に対抗し)韓国人だった。これは、間違いなく!!!
ホームスティ先でも、韓国人は、「かっぱえびせんは 韓国のお菓子なのに、日本人が真似をした」と言い張った。リンゴの「フジ」も「韓国のリンゴだ!」と強く言う。 「そもそも、フジって何語なのよっ! MtFUJI って知ってるよね? 日本一高い、あの富士山よ。あそこから来てるのよ。リンゴのフジが韓国原産な訳ないでしょーがっ!」 これには韓国人のソックも遂に黙った。韓国人が黙るとき、相手の言い分をしぶしぶでも認めた証拠だ。結局、かっぱえびせんの元祖は日本という私の主張は認められなかった。味噌汁も韓国のものなのに日本人が真似をしたという。 初めて韓国人ばかりが住むアパートへ招かれた時、彼らは「味噌スープ」といいながら、スプーンでみそ汁を食べていたのだ! 
 「味噌汁とスプーンで食べるなんて、韓国でも? そうするの?」
と、聞くと、「そうだ!」と答えた。私は内心、思った。 味噌汁はお椀を口元へ運び、すするもの。昔から韓国では西洋のスプーンで食べていたというのなら、日本が最初だわい。八丁味噌出身の雄一朗に聞いてみようと。 (彼、結婚でしたかなー? トオルは嫁もろうたみたいやで♪)

 かくして、食べ物の発祥の地を巡っては、かなりのバトルになることも多い。(特に韓国人との間では…。気性的には水と油だわっ、と思った韓国人と日本人。まさか、日本で韓流ブームが巻き起ころうとは、当時は思いもしない私だったけれど)

 「ひよこは福岡の銘菓か? それとも東京か?」
福岡に決まっている、と信じる私は韓国人のソックが 「かっぱえびせんは韓国の物」と言い張っていたのと同じくらい『自信たっぷり」に 「福岡の銘菓」と主張したと記憶している。しかし、ひよこは東京にも売られている? トオルは はっきりと東京土産だとういし、段々と自信がなくなってきた。真相はどうなのだろう??? これは長い間、何年もの間、私の中で疑問だった。 そして、とうとう真相を今夜、知ったのだ。前置きが長くなってしまったが。

 私は たま~に娯楽本を読む。寝っ転がって読むもよし! 仕事の息抜きに読むもよし! 読書大好き。娯楽本もGood! そして今回、書店で見つけたのがこれ、「博多ルール」中経出版 著者は複数いて、都会生活研究プロジェクト「博多チーム」となっている。著書には、こうある! 以下、引用:(79ページ)

 『福岡に、東京土産ひよ子を持っていく。これは、まずあり得ない初歩的ミス。いくらおおらかな福岡人が相手とはいえ、「こげなもん、いっちょん珍しくなか!」と言われてしまう恐れがある。(途中、略)製造元は株式会社ひよ子。大正元年、お菓子作りが盛んだった筑豊(ちくほう)飯塚(市)で誕生したお菓子だ。当時、炭鉱の町として栄えていた飯塚で、働く人のエネルギー源として甘いものが好まれたことから考案されたという。飯塚で人気を博したひよ子は、愛らしい形も手伝い、進出した博多でも広い支持を集める。さらに日本一の菓子店を目指した製造元は、東京オリンピックを機に、「ひよこ東京工場」を設置し、東京駅八重州地下街に出店。読みはピタリと当たり、東北新幹線開通が起爆剤となって、ひよ子は東京土産としても親しまれることになる。これが東京土産ひよ子が誕生するきっかけとなったのだ。
 よって、ひよ子は福岡を発祥の地とする福岡土産であり、東京土産でもあるわけだが、元祖はあくまでも福岡。本家への敬意を忘れず、ゆめゆめ東京土産として持参するような愚かなマネはしないようにしよう』

 以上、引用を終わります。長年の謎が解けた瞬間、「かいか~ん」だった。薬師丸ひよ子…じゃなかった、ひろ子ちゃんのセーラー服姿が一瞬浮かぶ。ちなみに、あれだけ私から「ひよ子は福岡の銘菓!」と強く主張されたトオルは、福岡に住む私の自宅を訪ねてきた際、勿論ひよ子は持参しなかった。オーストラリア土産に東京土産をたんまり頂き、恐縮したが、私も甥っ子もトオルを見送ったあと、喜んで東京のお饅頭を頬張った。そのわずか一週間前に福岡入りした雄一朗も、名古屋土産「ういろう」と甥っ子ちゃんにもお土産を持参して下さり、ゆうちゃんも大喜びしていた。

 日本人同士が異国で知り会う。再会場所はシドニーだったり、日本だったり。「博多ルール」を一読し、笑った! 笑った!
そして久々に『青春時代』を思い出した。20代の青春からアラサーになった私達の「福岡での再会」も。そして更にトキは流れ…。 同じ出版社から先に刊行されている『東京ルール』『名古屋ルール』『大阪ルール』『沖縄ルール』福岡は5冊目だそう。これまでに出版された都市はいずれも馴染がある、というよりは知り合いが何故か多い日本の都会。チャンスがあれば、読んでみたい。

 「博多ルール」他にも『西鉄バスを乗りこなせる』 そう、『店長に逢いたければ、バスで行けば?」とアドバイスしてくれた、ひよ子くんのように。
 『勝っとうね?と言われたら、ホークスのこと』『人気ローカル番組といえば、ドォーモとナイトシャッフル』『テレビを付けると山本華世の顔を見ない日は無い』『営業マンなら西スポは一応目を通す』(日清食品のメーカーさん、目を通していますかい?)などなど、面白ネタ満載。こりゃ、東京、名古屋バージョンも読まなきゃぁ~ね。書店に平積みされている話題の書。笑えること、間違いなし!

 ひよ子はやっぱり福岡が元祖だったっちゃ♪ (分かった? トオルくん?)
 あ~そういえば、本には、こんなテーマもあったな。『屋台は日本一!

 すず「どうだった? 博多の屋台」
 トオル「500円って高いの? 安いの?」
 すず「うーん、この辺なら400円だけどねぇ。ラーメン(当時)」
 トオル「博多の屋台っていうわりには大したことなかったかも。酔っぱらってると何食べても美味しく感じるんだよ」
 すず「…

 さてっと…。貴方のお国自慢、してみない?

すず
 

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~甦った記憶:another stories ~後編

2010-06-01 18:20:10 | 読書

 翌日には機嫌を直したホセインも、「お土産には何を持っていったらいいか?」一緒に悩んでくれた。 当時はホワイトチョコの中に乾燥イチゴが入ったものが流行していた。
オーストラリアのお土産とは直接関係ないような気もするが、旅行客にも人気の商品だった。
 「これにする! いや、やっぱり気を遣わせてしまうから、後日、私の家に食事に招待した方がいいかも」
 「とにかく今日は少し早目にお店を出てもいいよ」
 「じゃ、お言葉に甘えて…」
甘えてとはいえ、勤務時間きっかりまでお店には出ていた。
約束の時間に10分程度、遅れて到着するのがオージー式マナーなのだが、今回の訪問先は日本人のまゆさんのお宅。
お互い日本人同士、遅刻するよりは、時間通りに到着することにしたのだ。
とはいえ、6時に店を出れば、着くのは6時5分だったが。
初めて尋ねる場所だったが、ストリート名と番地が分かっていれば容易に見つけ出すことができる。
迷子にならずに済む便利な街だった。
インターホンから、まゆさんの声がして、すぐにドアが開いた。
 「お邪魔します」
日本ではまず、考えられないかもしれない。
店内で店員とお客様として出逢う。
挨拶程度の会話を数回かわしただけ。
ある日、たまたまボスと私の口論の場に居合わせた彼女。

「あなたに興味がある!」

ここから始まった交流。
あの日、何の迷いもなく彼女のお誘いに乗り、玄関前に立ち、キャンドルがともる幻想的な世界へ招かれた日を不思議に思う自分が居る。

日本では、まず、考えられないことよね。うん、きっと。

一歩、足を踏み入れると、そこには不思議空間が広がっていた。
室内は日が長いオーストラリアにしては薄暗い。
明かりも付けず、その代わりに部屋の中央には、いくつものキャンドルが立ち、そこから何ともいえない香りが漂っていた。
最近では「アロマ」だとか、「癒し」だとか、日本でも良くいわれるようになったが、これは今から10年程前の話だ。
停電でもないのに、電気の代わりにロウソクの火をともす、という発想自体、日本には無かった時代のこと。
シドニーにすら、一般家庭では無かったように思う。
ホストファミリー宅でも一度だけロウソクの火を使ったが、あれは停電だった。
イギリス系オーストラリア人で鼻が高いホストマザーのジーアがロウソクに火を灯す所を見て、トオルが
「魔女だよ、魔女!!!」
と日本語で叫び、日本人の下宿人だけがン爆笑したことがあった。
後にも先にもロウソクはあの、停電の日のみ。
まゆさんのアパートの部屋にふわっと浮かび上がるキャンドルの灯は、生活感がまるでなかった。
異次元へようこそ、といった、今から何かが始まる序章のように私をどきまぎさせた。
躊躇しながらも勧められるままに部屋の中へ。
ソファに腰掛けたが、周囲の家具がどれも不思議なものだった。

 アジアンテイスト、という言葉がぴったりの空間だ。
ここではすべてがインテリアの一部だ。
アメ色になった家具も、まゆさんの手により、古さとは違った骨董品に生まれ変わっている、そんな感じがした。

「捨てられたものを拾ってきてね。再利用しているのよ」


私の心を見透かされたかのような、まゆさんの台詞が聴こえ顔を上げると、奥の壁に見えたのは、壁一枚分といっていい、大きなパネル写真だった。
そこには二人の女性が写っていた。
一人はヘアメイクアーティスト、だと思う。
もう一人の女性の唇に全神経を集中させ、紅をひく…。
私とはまるで縁が無さそうな、そんな光景が広がっていた。
等身大以上、いや、3倍はありそうな、その写真に圧倒され、しばらく黙っていると、私が口を開くまで、まゆさんは何も言わずに待っていてくれた。

 「スゴイですね、この写真。まゆさんが撮影されたのですか?」
 「私はフォトグラファーなの」
つまりは写真家。 でも、本職はジャーナリストだと聞いたと思う。英語日本語の通訳もする。要するに、いくつもの専門職を持ちながら、あらゆる分野で活躍されているようだった。
知れば知るほど、驚きっぱなしで、凄い人のご自宅に招かれているんだわー。こんな方に 「あなたに興味がある」って声をかけて頂けること自体、夢なんじゃないかしら?
元気の良さは陰をひそめ、段々と大人しい日本人に戻ってしまったような気がする。
それでも好奇心旺盛だった私は色々な質問をした。

 いつの間にか、最初に室内に足を踏み入れた時の緊張感は薄れ、フィッシュマーケットで買ってきたという白身のお魚の鍋を二人でつつきながら、お喋りに夢中になっていた。

 「これまでの人生で一番、魚が美味しいと感じた場所は、何処だと思う? 当てて見て! とっても意外な場所だと思うけど、日本の何処か。 何処だと思う?」

 意外な場所、と聞いて、直感的にひらめいた。多分、私は その土地を実際に知っている。海と山と温泉と。あったかい人々と。すべてが揃った熊本の土地。お魚が新鮮で美味しいのに、企業の垂れ流しで海が一度は死んだ…。

 「分かった! 水俣じゃないですか?」
まゆさんは、とても驚いた顔をした。
 「よく分かったわねぇ。これまで誰一人 当てることが出来なかったのに」
水俣は私の生まれ故郷だと告げると、さらに驚いた顔になった。
豊かな自然が、特に海が、水銀を含んだ工業用水の垂れ流しによって汚染され、多くの人達が発症し人生を狂わされた。
今現在も胎児性水俣病で苦しむ人達が数多くいる。
 
 「私が日本で大学3生のとき、初の国際環境会議が水俣市で開かれたんです。カナダや米国教授が参加するパネルディスカッション形式の会議だったので、どうしても参加したくて。大学は講義がある時期に許可は出来ないとか言って、学割を簡単に発行してくれなかったんですけど、最後はこれも生きた勉強だから、と結局は発行してくれて、行ってきました。あの時は、カナダと米国の大学教授に話しかけて、冗談言って笑っていたら、英語が話せないおじいちゃんが隣の席の日本人に「大学教授ですか?」って嬉しい勘違いされて。自宅へ戻って皆で笑ったんでした。当時、熊本大の助教授をしていた原田先生が、水俣出身の社会学者が出てきてほしい」と市民に訴えて、その時、思ったんです。私も社会学を勉強してみたいって。勿論、母国より途上国に目がいっていたけれど、学生時代から周囲に色々刺激されて、シドニーで希望通り、社会学を学べて良かったです」

 新鮮な魚から、水俣病。 水俣病から国際環境会議。 熊本大学(当時)の原田先生と社会学。 話ってどんどん広がって思いもつかない場所へ最後は辿り着くものだ。
こうして辿り着いた場所は、これからお話する 「あの事件」だった。


 「ところで、メルボルン事件って、知ってる?」


メルボルン事件のことは、在日本人向けの現地の新聞、日豪プレスで何度か特集記事があり、知ってはいた。
旅行会社を通じてマレーシア経由でメルボルン入りをした日本人観光客、男性3名、女性1名が知らない間に麻薬の運び屋にされてしまいヘロイン保持で現行犯逮捕され、その後、何年も獄中の人となった事件のことだ。
まゆさんは当時、あの事件の取材をしながら通訳者及び支援者としてシドニーメルボルン間を行き来していた。

逮捕された日本人観光客は、暴力団でもない。普通の一般の人達だった。ただ、オーストラリアを旅したい。それだけが目的で渡豪したのだ。
それが、一体、どうして逮捕、という事態になったのか?

 
 「大丈夫。俺たちは無実なんだから。何かの間違いで逮捕されただけなんだから。何も悪いことをしていなければ、何も恐れることはない。すぐに釈放される!」

きっと日本大使館、或いは領事館の職員が助けてくれるだろう。すぐに釈放されるだろう。訳がわからないまま逮捕さえつつも数日間は、そんな気持ちで過ぎていったと聞いた。

実は私もワーキングホリディで行こうとしたのは、マレーシア経由だった。だが、「空港まで迎えに行くよ」といっていたJICAの友人からその後、連絡が来なかったこと。フィリピンに帰国したアートやラミールといった友人が、「マレーシア経由はマニラ経由と同じくらい危ないから止めた方がいい。直行便が安心だよ」とアドバイスしてくれたことで中止した経緯がある。
無知な日本人が知らない間に現地のマフィアと接触し、麻薬の運び屋にされてしまう危険性を指摘してくれた友達が居たことが、この事件をよりリアルに私の胸に刻んでいた。
「経由便で途上国をついで旅行し、何度も日本海外を行き来している私としても、この事件はとても人ごととは思えなかった」ということだ。

そもそも、どうしてヘロイン所持という事態になったのか。
5人は、マレーシア人の添乗員と共にマレーシア経由で、まずはマレーシアの国際空港に降り立った。
そこで、スーツケースを盗難にあい、失くしてしまう。
そのことを知ったマレーシア人の添乗員は、代わりのスーツケースを用意してくれたという。
親切にも。そう、とても親切だと思ったらしい。
ところがー。
そのスーツケースは二重底になっており、底の部分にはヘロインが隠されていたのだ!
彼らは知らない間に麻薬の運び屋にされていたのだ。
すべては最初から、「仕組まれて」いたのだ。

何も悪いことをしていないのだから、きっとすぐに釈放される。
そんな期待は裏切られ、全員 無罪を主張する中、最初の頃は通訳もまともにつかないまま全員有罪、懲役15年という判決が下り、その後、獄中で7~8年もの歳月を送ることになったのだ。
日本の外務省は? 大使館は? 事件当時、何をしていたのか? と疑問に思う。
日本国内では当時、殆どニュースで取り上げられてはいないようで、豪州へ行って、初めて「この事件」のことを知ったという人も多かった。
私のように。
だから、まゆさんも、「メルボルン事件って、知ってる?」という、知らないことが普通のような質問の仕方になったのだと思う。

1990年代始め頃から海外旅行は気軽に行ける時代になった。
同時に日本人の平和ボケも話題に上ることが多く、いつでも事件に巻き込まれる危険性を身を持って体験しなければ「分からない」
それでも、この事件は 人の人生を狂わすには重い。重すぎる冤罪。。。
だと思う。
その後、順に仮釈放され、2007年までには全員、日本へ帰国出来たと聞いたが、未だに「無罪」判決が出ている訳ではないらしい。

実際にメルボルン事件を取材し、獄中の人となっていた無実を訴える日本人観光客に何度も会って来たまゆさんと出逢ったことで、より現実的な事件として脳裏に刻まれることになった。

『一通の手紙』は、冤罪事件に直面した本人は勿論のこと、代々に渡る家族の苦しみを見事に描き出している。
きっと、世の中には、数え切れないほどの第二、第三の 「メルボルン事件」が存在しているのかもしれない。
帰国後、8年という時間が流れ、メルボルン事件も、まゆさんとの出逢いも、いつしか遠い過去となっていた私に再び、あの記憶を甦らせた「一通の手紙」

物語には、いくつものanother stories がある。
小説の中では、あえて詳しくは語られない物語の奥にある 「その他のストーリー」を一つでも多く感じとれる心を持ち続けたい、そう思う。
すべての冤罪事件が早期解決に向かいます様に。

おわり


すず

Comments (12)
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『一通の手紙』を読んで~甦った記憶:another stories~前篇

2010-06-01 14:13:52 | 読書

 先日、Goodbook出版社から刊行された話題の新刊、酒野佐香奈著「一通の手紙」。出版社の紹介文は、『冤罪というものがあります。無実なのに間違った司法の判事により長い時間苦しめられる結果になってしまいます。それは、本人だけではなく家族も同じなのです。』
 早速、ネットで注文すると、いつものように本と郵便局の振り替え用紙が届きました。(本のお支払いは今からです。御免なさい) 夜勤明けにもかかわらず、届いたその日の内に、一気読みしました。 しばらく「余韻」に浸ってしまう、そんな作品でした。 もっと読みたい! そう思いました。 この出版社から刊行される本に共通することですが、 「続きがあるのでは? もっと長かったのでは?」  良い本は、きっと読者のそれぞれの人生とダブらせてくれる本だと思います。 読後感の良さと、そこから始まる読者のanother stories...

 冤罪。。。

 冤罪で失われた十年、十数年、二十年、いや、無実の罪を背負わされた人、一人の人生、そのもの。

これから数回に分けてお話することは、期待を胸に遠く、オーストラリアまで旅行に行き、訳も分からないままに国際空港で逮捕され、その後、何十年も苦しんでいる私達と同じ日本人旅行者の身に実際に起こった出来事です。


 ここは、シドニーの中心地、Town Hall駅から2つ目の駅を降りた場所にあるAussie Mate Supermarket。 目の前はホテル。周囲はテレビでお馴染のニュースキャスター、天気予報士、俳優、裁判官、ジャーナリストやフォトグラファーと、あらゆる職業の人達が暮らしている。たまたまレジに入っていた私に、地元っ子の男の子が、
「ほらっ! 今、通りを歩いていくあの人、ドリンクのCMで観たことない? ドラマにも出演している有名人だよっ!」
と、こっそり教えてくれた。
「へぇ~。そうなの? あまりテレビを観ないから分からないけど、そうなんだぁ」
天気予報のおじさんが来店すると、決まって「明日の天気は?」と尋ねていた。
「いつも仕事をしている訳じゃないからねぇ。明日はオフだから想像にお任せするよ」
と苦笑いされたりね。
日本からやってくる観光客の接客が主に期待されてボス、ホセインに雇われた私だったけれど、結構 地元の人達との交流も楽しんでいた。
 
 そんな ある日のことだった。
一体、何が原因でホセインと言いあいになったのか、覚えていない。
間違いなく仕事に関することで、『絶対に自分が正しい』と私にしては珍しく? 譲らなかった。
相手がボスでも先輩スタッフでも、意見を言い合うのは当たり前のオーストラリア。
それでも最初の頃は私もまだまだ日本人で、かなり遠慮していたっけ。
私が働き始めた当初、東アジアから来た人が仕切っていて、そのままここでの仕事が長続きするとは、正直とても思えなかった。
彼女には口では誰でも負ける! そう言われた彼女がオーストラリア人と結婚して職場を去った。歌舞伎役者のように立派だった化粧も控え、物腰も少し柔らかくなって笑顔で来店するようになった平和な日のことだっただけに、ホセインとしては、久々のスタッフの抵抗にカーッと頭に血が上ったに違いない。
お客さんがいるにもかかわらず、大声で怒鳴っていた。
「そうじゃないでしょ?」
みたいに言う私に、レジに並んでいた女性客が話しかけてきた。
「あなた、もしかして日本人?」
最初は英語だった。
何度か来店しているお客様だ。
英語でしかそれまで会話したことがない。
「Yes, I am Japanese」
というと、そこから会話は日本語になった。

「私、あなたに興味がある! 一度、うちへ遊びにこない? ここから歩いて5分のアパートに住んでいるから」
そういうと、彼女は私に名刺を手渡してくれた。
「まゆさん…? 私と同じ名前だ!」

私とホセインの口論は中断したまま、私は「まゆさんのご自宅へ遊びに行く」という突然持ち上がったプランに向けてお喋りに花が咲いていた。
そんなこんなで今となっては、何が原因でホセインと感情的になっていたのか定かではない。
きっと、賞味期限が近くなったコーヒーを値引きしてレジ前に置く、ということにホセインがケチをつけたからだったと思うんだけど。
大量破棄と、どっちがいいのよっ! みたいなこと。
発注を上げたのがホセインだったから、意見が合わず、ごちゃごちゃしていたのだ。
そう、思いだした(苦笑)

あの時、ホセインと 「お客さんの目の前で言い争いをするなんて、みっともないこと」をしなければ、その後、まゆさんの目に「興味がある人」として私が映ることは無かったに違いない。
だからこそ、あれは貴重な口論だったのだ、と思う。内容はどうであれ。

人との出逢いって不思議だ。
振り返ってみても、いつも思う。
ちょっとしたきっかけで、知る筈も無かった人と知り合い、会話をする。
そして恐らくは詳しく知ることもなかったかもしれない「事件」に耳を傾けることになる…。
実際に深く「あの事件」に関わっているジャーナリストのまゆさんから。
直接に。

その日、仕事を終えた私は早速パソコンを開き、まゆさんのホームページを観てみた。、
凄い人だと思った。
そしてそのまま、お礼のメールを送る…。

すぐに返信が来た。

「仕事が夕方6時に終わったあと、遊びにいらっしゃい。お鍋を準備しておくから、一緒に食べましょう」


続く

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