ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

“いつやるか、今でしょう”

2016-05-26 06:37:14 | 日記
沖縄県うるめ市で起きた事件について、翁長知事が安倍首相と会談しました。
会談時間は、たった10分程度だったとのこと。
伊勢志摩サミットの開幕を控え、開催国の首相としての忙しさはあるでしょうが、
残念というより情けなく、憤りをも覚えました。

また、翁長知事は、外務省沖縄担当大使や、沖縄防衛局の当事者能力にも疑問を呈し、
「オバマ米大統領に直接お話しさせていただきたい」
と要請したそうですが、首相は、伊勢志摩サミットに合わせた日米首脳会談で、
「オバマ氏に、国民の気持ちを踏まえて、厳正な対処を求める」
ことを約束しただけにとどまりました。

菅官房長官は、記者会見で、
「安全保障や外交に関することは中央政府間で協議されるべきだ」
と述べています。

確かに、外交や安全保障に関する交渉や協議は、中央政府間でなされるのが、
すじというものでしょう。
つまり、翁長氏とオバマ氏の会談を政府が橋渡しする考えはない、と言うことです。
菅官房長官の、いつもと変わらぬ冷たい物言いでした。

翁長知事は、沖縄の負担軽減に関して、「できることはすべてやる」という安倍政権の姿勢を、
「できないことはすべてやらないという意味にしか聞こえない」
と批判しましたが、私にも、その様にしか聞こえませんでした。

また、翁長知事は、日米地位協定の改定に踏み込むよう政府に求めましたが、菅氏は、
「いろいろな意見があることは承知しているが、一つ一つ積み上げて改善に努めていきたい」
と述べるにとどまりました。

『綱紀粛正』『徹底した再発防止』
この文言を、政府からは何遍も何回も聞いています。
でも、今回のような事件が起き、現状は何も変わっていないのです。
もちろん、日米地位協定が改定されれば、すべての犯罪がなくなるわけではありませんが、
政府は、本腰で対処してほしいものです。

こうした経過を経ての昨晩の日米首脳会談、翁長知事は、日米地位協定の改定に
言及がなかったことに、
「大変、残念だ」
と述べました。
私も国民の一人として残念というより情けない思いです。

《大切な国民の、いのちと財産を守る》
安倍首相は、安保関連法審議の際、何回も何回も、耳にタコができるほど、言ったではありませんか。
今こそ、国民のいのちを守って下さい。

いささか古い流行語になりますが、
“いつやるか、今でしょう”
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多分、『なめとこやまの熊』

2016-05-25 06:33:15 | 日記
先だって、『星野道夫没後20年・“旅をする本”の物語』(NHK5月12日放映)を観ました。
そして、星野道夫の「旅をする木」が急に読みたくなったのです。
ところが、探している内に本棚の陰に落としてしまったのです。
図書館へ予約を入れましたが貸し出し中、しかたがないので文庫版を買ってきました。
久々に、懐かしい人に会ったような気持ちで、頷きながら夜更けまで読み進めました。

いくつか、立ち止まった箇所がありましたが、
“あっ、ここ”。
その箇所を紹介いたします。

《私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身がいきのびるのかという、
終わりのない日々の選択である。
生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。
近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが
狩猟民である。
約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。
そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。
動物たちに対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきて、
ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。
つまり、この世の掟であるその無言の悲しみに、もし私たちが耳をすますことができなければ、
たとえ一生野山を歩きまわろうとも、机の上で考え続けても、人間と自然との関わりを本当に理解することはできないのではないだろうか。
人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分の中にとり入れることで、
より深く大地と連なることができる。
そしてその行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的には離れてゆくのかもしれない。》

そうです、20年ほど前、確かに私はこの箇所で、立ち止まり、共感したのです。
そして、けっこう長い書き込みをしたと、記憶しています。
書き込んだ内容は、その本が本棚の陰に落ちてしまっているので確かめようがありません。
ただ、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』からの引用を書き込んだ様な…………。

猟師の小十郎は、なめとこ山に熊を捕りにいって、熊に襲われ命を落としてしまいます。
そして三日経った月夜の晩、白い雪の峰々に囲まれた山の上の平らなところに、小十郎の死骸が置かれ、熊たちが環になって集まり、回々(フイフイ)教徒のように雪にひれ伏して祈るのです。

《思ひなしか、その死んで凍えてしまった小十郎の顔は、まるで生きてゐるときのやうに冴え冴えして、
何か笑ってゐるやうにさへ見えたのだ。
ほんたうにそれらの大きな黒いものは、参(しん)の星が天のまん中に来ても、もっと西へ傾いても、
じっと化石したやうにうごかなかった》(『なめとこ山の熊』から)

そんなことを思い出しましたら、胸がジーンとして、涙まで。

窓を開けてみました。
月がまーるく光っていました。
出会ったのは、20年前の私だったかも。
                                       〈ゴマメのばーば〉
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姉は、水浸しの防空壕へ退避したために、

2016-05-24 06:26:47 | 日記
核兵器の廃絶と世界平和を訴える「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」が伊勢市で始まり、
松井一実・広島市長と、田上富久・長崎市長が、
『サミットで訪れる多くの人に被爆の事実を知ってほしい』
と、各国首脳らの来場を呼びかけています。

賛成です。
原爆被爆の惨状を、各国の首脳に留まらず、多くの方々に見て、知って、感じて、
核兵器の恐ろしさを知って欲しいと願っています。

オバマ米大統領が、27日に広島を訪問する際、〈第二次世界大戦中の元米兵捕虜も立ち会うこと〉になったと報じられました。
オバマ氏の広島訪問が、原爆投下の被害だけでなく、第二次大戦の全ての被害に目を向けたものであることを示す狙いがあることは確かです。
戦勝国アメリカの国情を考えれば、頷けはしますが、政治的な配慮の色彩が濃厚です。
とてつもない非人道的な核兵器の廃絶という理念からすれば、
かなり色あせたアピールになってしまいそうです。

戦争で死んでいく人間の総数が多くとも、「死」は、個別的な痛みです。悲しみです。
原爆のみが悲惨とばかりは言えません。
たった一人の死であっても、苦しみと、痛みは同じです。

本日、5月24日は、71年前に疎開先で死んだ姉の命日です。
姉は女子挺身隊として軍需産業に駆り出され、体調を崩しました。
決して冷やしてはいけない病に冒されていた姉は、水浸しの防空壕へ退避したために、
病状が悪化、ひと月足らずで、お医者にもかけられず逝ってしまったのです。
墓碑銘には、享年20歳と。

姉の苦しみと痛み、母をはじめとした家族の悲しみは、症状こそ原爆被爆の惨状には劣るかもしれませんが、やっぱり不本意で、不条理な死であることに間違いはありません。

紛争の解決手段としての戦争というものを、世界から根絶することが大切ですが、
これもなかなか困難ではあるでしょう。
でも、まずは言語に絶する悲惨な大量殺戮兵器である「原爆」の使用を禁止するという方向で、
道筋を考えるのが、知恵というものではないでしょうか。
いったん投下に及べば、相手国のみならず、自国も、いや、その脅威は地球環境すら破壊してしまう代物です。

世界中の誰もが、そんなことは、先刻承知のはず。
でも、それが…………。
                                       〈ゴマメのばーば〉
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『涙と共に種を蒔く人は』

2016-05-23 06:33:37 | 日記
脚の痛みに少々の不安はあったのですが、教会の礼拝に出かけました。
以前、バスのタラップで脚に走った激痛が、不安となって身体が記憶してしまったものか、
足が、しっかり前に踏み出せないのです。
家事と共に、家の中での自己流リハビリを繰り返していましたから、『大丈夫 Go!』と、
脳細胞は指示しているのですが、肝心の「脚さま」が、Goサインを渋っているからです。

昨日は、永眠者記念礼拝でしたから欠席したくありませんでした。
礼拝堂には、永眠なされた方の 何枚ものご遺影が並べられ、共に礼拝に預かるのです。
皆様、信仰の先達として生き、召されていった方々です。

昨年は、こちら側にいらっしゃったK先生からは、
“みんな、元気かな?”
という声が聞こえたような気がしました。

牧師先生が読み上げられた詩編126章の言葉が、立ち上り、
礼拝堂の窓から祈りと共に昇って行ったような気がしました。

   涙と共に種を蒔く人は
   喜びの歌と共に刈り入れる
   種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
   束ねた穂を背負い
      喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

そして、私は、若い頃出会った牧師先生から、折に触れ、教えていただいた聖句が、
じんわりとよみがえってきたのでした。

  《およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、
   後になると、それで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
   だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。
   また足の不自由な人が踏み外すことなく、
   むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい》
                       (ヘブライ人への手紙12章11章)

しばらくぶりに、街をゆっくり、ゆったり歩いて、バスで帰宅しました。
萎えていたのは、心だったようです。
                                       〈ゴマメのばーば〉

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「物忘れ」と、「子育て放棄」

2016-05-22 06:31:13 | 日記
ミョウガが出回っています。
今の季節は、花穂にあたるミョウガタケですが、あの香りが大好きで、
様々な薬味として食しています。
秋に出回る花は、当方では「ミョウガッコ」と呼んでいますが、こちらも美味、
甘酢に漬けて保存して香りと色を楽しんでいます。

「ミョウガを食べると、物忘れがひどくなる」と良く言われます。
確かに、各地の民話・世間話には、ミョウガにまつわる様々な「バカバカしいお話」が残されています。

  《むかーしあるところに、一軒の宿屋があったんだって。
   宿屋の夫婦は、たいそう欲深でな、あるとき、泊まり客が大金を持っていると見込んで、
   持ち金の入った風呂敷包みを、宿に忘れて行かせようと、ミョウガを しこたま食べさせたんだと。
   さーて翌く朝、お客は、
   「夕べのミョウガはたいそううまかった」
   と、にこにこ顔で宿を発っていったんだってよ。
   そしてな、宿屋の夫婦は、客が泊まった部屋を探してみたんだと。
   隅から隅までな。
   けど、客は、なんーも忘れ物などしていかなかったって。
   気がついたら、宿屋の夫婦は、宿賃取ること、忘れてしまったんだってさ。
   おしまい》

ミョウガを食べ過ぎたせいでもありませんのに、物忘れが増えるばかりの今日この頃です。
朝、ゴミを出しに行きましたらカッコウが鳴いていました。

ある方のブログに、子育てを放棄した猫のことが記されていました。
子猫二匹を福祉施設の職員の方が、世話しているそうです。
カッコウも、托卵(自分で巣を作らず他の鳥の巣にその卵を産みつける)をします。
そんなカッコウを、ずるいやり方だと思うのは人間の見方で、
《托卵というのは動物の進化のうえからみても大変不思議な話です》
と言う学者も、いらっしゃいます。
さて、猫は?
福祉施設だからって見込んでの〈子育て放棄〉なら、
「ていしたもんよ!」

それはそれとして、
『あるけばかつこう いそげばかつこう』     (種田山頭火)
『ゴミ出しにいけば カッコウ』         (ゴマメのばーば)

姿が見えたのは、カラスでした。
コメント (4)
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