〈老いては子に従え〉
諺として、知ってはいますが、これがなかなかできません。
“たしかに”と、心中頷けても、素直に従えないのは、
自身が生きてきた経験やら体験やらが邪魔してしまうからのようです。
脚が痛い私を心配して孫がやって来ました。
「いい医者(専門医)に診てもらえ」との助言。
が、お断りしました。
“もうちょっと、様子を見る”と言う理由で。
「細菌性で感染する病で無ければ、そのうち良くなるかも。少し様子を見る」と、私。
〈痛みを我慢していることは無い。動かないと、筋肉が落ちて動けなくなる〉と、孫。
「歳のせい…………ってこともあるし」と、私。
〈『老衰』という病名は無い〉と、孫。
取りあえず、連休中は様子を見ることに。
連休も終わりました。
痛みは和らぎましたが、100%とは言えません。
作家の五木寛之さんは、著書「嫌老社会を超えて」の中で、
《病を、「治す」のでは無く、「治める」》
と語っていました。
高齢者の私には、とても共感できる言葉です。
長くお世話になっている内科の医師は、
「疲れですよ。動き過ぎ。疲れがなかなかとれなくなる年代ですから」と。
ガンを克服した作家の、なかにし礼氏は、著書「闘う力」のなかで、
闘病中に、ブルックナーの交響曲が勇気を与えてくれたことを記しています。
《ブルックナーは、私に勇気を与えてくれる。
その勇気は、私という一人の弱き者と創造の喜びを分かち合ってくれる。
そして最も特筆すべきは、私の体内に力をみなぎらせてくれる。
その力とは、ほかならぬがんとの永久戦争も辞さないというほどの「闘う力」である》と。
病や、身体の衰えと、どう付き合って行くかが問われているような気がします。
「人、さまざま」ですねぇ。
ブルックナーとの関わりについては、私も、ひと言述べたいのですが…………。
長くなりますので、明日また。
〈ゴマメのばーば〉
諺として、知ってはいますが、これがなかなかできません。
“たしかに”と、心中頷けても、素直に従えないのは、
自身が生きてきた経験やら体験やらが邪魔してしまうからのようです。
脚が痛い私を心配して孫がやって来ました。
「いい医者(専門医)に診てもらえ」との助言。
が、お断りしました。
“もうちょっと、様子を見る”と言う理由で。
「細菌性で感染する病で無ければ、そのうち良くなるかも。少し様子を見る」と、私。
〈痛みを我慢していることは無い。動かないと、筋肉が落ちて動けなくなる〉と、孫。
「歳のせい…………ってこともあるし」と、私。
〈『老衰』という病名は無い〉と、孫。
取りあえず、連休中は様子を見ることに。
連休も終わりました。
痛みは和らぎましたが、100%とは言えません。
作家の五木寛之さんは、著書「嫌老社会を超えて」の中で、
《病を、「治す」のでは無く、「治める」》
と語っていました。
高齢者の私には、とても共感できる言葉です。
長くお世話になっている内科の医師は、
「疲れですよ。動き過ぎ。疲れがなかなかとれなくなる年代ですから」と。
ガンを克服した作家の、なかにし礼氏は、著書「闘う力」のなかで、
闘病中に、ブルックナーの交響曲が勇気を与えてくれたことを記しています。
《ブルックナーは、私に勇気を与えてくれる。
その勇気は、私という一人の弱き者と創造の喜びを分かち合ってくれる。
そして最も特筆すべきは、私の体内に力をみなぎらせてくれる。
その力とは、ほかならぬがんとの永久戦争も辞さないというほどの「闘う力」である》と。
病や、身体の衰えと、どう付き合って行くかが問われているような気がします。
「人、さまざま」ですねぇ。
ブルックナーとの関わりについては、私も、ひと言述べたいのですが…………。
長くなりますので、明日また。
〈ゴマメのばーば〉