ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

二人称としての死は、

2019-07-14 06:09:58 | 日記
雲は広がっていたのですが、日ざしもあって気温も上がりました。
JAの直売所へ野菜を買いに行きますと、野菜の出荷量も種類も少なく品不足の
様な気もします。
やっぱり、日照不足なのでしょうか。
「冷害」などいう、おもしろからぬコトバが頭をかすめます。
地物の、生き生きとした野菜が沢山陳列台に並んでいますと、私などは、それだけで
安心感を覚えるのです。

図書館から、予約の本が用意できました、というメールが入りましたので、暫くぶりに
日傘をさして出かけました。
土・日はバスの走る回数が少なくなりますので、乗り換えをして図書館へ。
帰りに買い物もする予定でしたので、リュックにもなるバックも持参。

今日は、義兄の三回忌の法要に参式いたします。
もう二年、まだ二年。
逝った者は、もう年を取りません。
思い出だけが時に濃く、時に穏やかな懐かしさと共に思い出されます。
一人称としての自分の死は、自分には分かりません。
二人称としての死は、悲しみであったり、思い出や懐かしさ、時に後悔なども。

母のことなども思い出しました。
若い頃の私の詩です。

   『命日』
    一回忌は思い出に合掌し
    三回忌は行く年の速さに驚き
    七回忌には
    自分の願い事などをこめて掌をあわせる

    雪のまだらな墓石に
    寒の真水は冷たかろうと
    手桶は持たずに
    線香だけを束にしてくゆらす

    悲しみだけを置き去りにして
    逝き先の ところ番地がわからないから
    届けることもできないでいたのだが
    いつのまに
    いつのまに持ち去っていったものか

    「行年六十歳」と
    母は
    墓石の文字になってしまっている

今、82歳、私の机の右側に書かれている聖書の一節です。
    
     『ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
      命ある限り主の家に宿り
      主を仰ぎ望んで喜びを得
      その宮で朝を迎えることを。』
                   〈詩編 27章4節〉
コメント
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