blogギター小僧の径

ギター小僧の私生活

地下鉄サリン事件

2005年03月20日 | 想い
福岡の地震やマラッカ海峡の海賊事件のため、あまり報じられなかったが、今日20日は地下鉄サリン事件から10年となる。

十二人が亡くなり、五千人以上が重軽症を負った地下鉄サリン事件から十年となる二十日、事件現場となった東京メトロの六つの駅で献花台が設けられ、遺族や職員、乗客らが犠牲者の冥福を祈った。
(略)
午前十一時前には、小泉純一郎首相も訪れ、記帳を済ませ、献花台に手を合わせた。
小泉首相はその後、品川区の公邸で、「十年たっても傷を受けて大きな困難を抱えている人がたくさんいる。支援していかなければいけない」と述べた。その上で「(同様の)事件はいつ起こるか分からない。二度と起こさないように準備しなければいけない」と指摘した。(産経新聞)


10年前のぼくは、今の会社に中途入社し、1か月たったぐらいの時だ。先輩と車で上野中央通りを走っていると、何やら騒々しい。人も大勢倒れている。訳がわからず、水道橋のオッチャン一人でやっている印刷所に行ったところ、要領を得た。主要地下鉄で、何かが撒かれたのだという。このオッチャンは奥さんが新興宗教にはまってしまい、離婚したものの、そっち方面には敏感になっていたのだという。「たぶんサリンだと思う。そして、犯人はオウムだよ」とこの時点で断言していた。オウム真理教の犯行だと報道されたのは、まだまだ先のことだったが、それを見抜いたのは達観と言う他ない。

当時付き合っていた彼女は、TBSに勤めていたため、その夜、家に電話してみた(携帯がない頃だから、いわゆる家電だ)。まだ、帰っておらず、お母さんから「大丈夫だったみたいですよ」と言われた。

昨年の2月、東京地裁で、一連の事件の首謀者である麻原に死刑判決が出た。しかし、弁護団は控訴。そして、控訴趣意書の提出期限延長を求め、東京高裁(須田賢裁判長)は、1月11日の期限を8月31日まで8か月近く延長することを決定した、という。

どうあれ、最終的には死刑だろう! 麻原の死刑執行には是非サリンを使ってください!

37歳

2005年03月11日 | 想い
連日徹夜の中、誕生日を迎えた。37歳だ。もうオッサンだよ。残業の後、会社の後輩となじみの店に行く。お店から鯛をご馳走になった。その後、辞めた後輩も呼び出し、カラオケに行きハードロックを歌う。オッサン頑張れ!

中国印刷事情1

2005年03月04日 | 仕事
2月3月はメチャクチャ忙しい時期なのだが、社長の息子の会社から、経費を削減するために、中国での印刷の可能性を探ってくるよう命令され、しかたなく北京に行くこととなった。この辺の事情は微妙なのだが、社長の息子はかつて我が社の電子出版事業部の常務取締役部長だった。しかし、あまり結果を残せないまま、5人いた事業部ごと独立。我が社にいるときは売上に寄与することがなかったくせに、独立した途端に、業績を伸ばし、今や60~70人の大所帯になっている。そして、逆に、業績の悪い我が社は、息子の会社に指導を受けている状態。そのため、行けといわれれば、断れない。今回の北京行きにはその会社から、独立メンバーである★氏も同行することとなった。彼はぼくと同い年。誕生日も5日しか違わない。昔からの呑み友達である。

【2005.3.1】

チケットの予約等は息子の会社に任せていたのだが、成田発10:35という恐ろしい時間。2時間前には手続きしておかなきゃいけないので、8:30には成田に着いてなきゃいけない。6:00に起きて6:30に家を出た。小田急線はそんなに混んでおらず、坐れた。北京までおよそ4時間。時差はちょうど1時間。

空港ではティエンさんというウチがCD-ROMなどの開発をお願いしている会社の社長夫人が「★様、斉藤様」とプラカードを掲げて出迎えてくれた。この夫婦は別居状態なのだが、どういう関係なのかはよくわからない。彼女は中国人で東京に研修かなんかで来た時に出会ったということだ。その会社の北京支社の支社長という立場。空港の側にマンションを買ったらしいのだが、200平米でトイレが3つもあるとのことだ。日本円にしておよそ2700万円。

中国でものすごく普及しているという彼女のアウディで、彼女の会社へ向かう。北京では、地下鉄が二本あるのみで、他に電車がない。通勤は数年前は自転車が普通(よくテレビで見かけた光景)だったが、今では自家用車かバスが一般的だという。片側4車線もある大きな道路でも、朝夕は大渋滞になるのだという。急激に普及したためか、運転はもの凄く荒い。クラクションが常に鳴っている状態。

「歩行者より車優先」という感覚だ。そんなに信号機はないのだが、青信号でも安心して渡れない。ウカウカしていると車が突っ込んでくるのだ。怯んでいると、そのまま行き過ぎていく。左のような4車線の道路でも、普通に横切ろうとする歩行者がいる。車線と車線の間で立ち止まりつつ抜けて行くのだ。やはり事故も多いという。

30分ぐらいで、会社に着いた。ここでは、ルーブル美術館で日本の観光客あてに設置されているパネルの出版化に向けての打ち合わせをした。そのパネルはA3判で1テーマにつき2ページある。それが、293テーマ。写真も1テーマに平均10~15枚くらい。しかし、データがなく、実物かそれを印刷したフイルムしか現存していない。今回、ガイドブック化の計画があるのだが、それをOCRもしくは、すべてタイピングでデータ化しようという企画の見積を依頼した。ついでに印刷製本までやった場合の見積も頼んだ。というのも、日本の厚生省にあたる政府機関の資料本の仕事もしていると言うからだ。

夜はティエンさんにご馳走になってしまった。ほとんど、観光客など足を踏み入れることがない大きなレストラン。恐らく100テーブルぐらいある。またしても中国的というか、1テーブルに2人も接客が付く。店員余剰って感じだ。ぼくらは早めに行かないと、スグに満員になる店だというので、18時には入店した。上左の写真のように腕を後ろ手に組んだ店員(多くは若い女性)が2人1組で待機していた。19時過ぎには100テーブルぐらいが、埋まった。この店の名物というアヒルとタケノコの料理を食べた(上右の写真)。これがメチャウマ! よそのテーブルでも皆頼んでいたので、この店の名物なのだろう。喰いおわった後はオジヤにしたりうどんを入れたりするみたい。これは日本の鍋の影響なのか知らないが、ティエンさんはそういう食べ方を知らなかった。

ティエンさんに今回3泊するホテル「北京大北賓館(DA BEI HOTEL BEIJING)」まで送ってもらった。コーディネートをしてくれ巽さんからは、事前に「ホテルというか、木賃宿の様な……」と言われていたのだが、まさにその通りで、ヒドいホテル。外国人はあまり泊まらないのだという。ティエンさんがいなければうまくチェックイン出来なかったかもしれない。

割と疲れていたのだが、★さんと夜の街に繰り出した。中心部に行く元気はなかったので、ホテル周辺。ワインで乾杯。むかし話や今の会社の状況なんかを語り合った。ホテルに戻って、テレビを観ていたが、気がついたら寝ていた。

中国印刷事情2

2005年03月04日 | 仕事
【2005.3.2】

今回の一番の目的である印刷会社「北京華聯印刷有限公司」の見学。そもそもこの印刷見学は、某語学出版社のS社長のお誘いだった。昨年出版した本をここの印刷所で行った。間に入ってコーディネートをしてくれたのは、長く三菱商事の北京支社等勤務の後、独立した巽さん。得意の英語力や中国語力を活かして、海外との仕事も多くしているようだ。

その本は256ページのオール4色のCD付き。PDF入稿で、資材・印刷・製本・CDプレス、東京の倉庫納品までで200万円ということだ。日本だと300万円近くになるのは必須なので、メリットはある。今回は、第2弾を印刷するということで、それに便乗見学させてもらった。

北京市内から30分ほど行ったところに、自動車工場や研究所などが建ち並ぶ、工業地帯があり、その一角に「北京華聯印刷有限公司」がある。「運転はもの凄く荒い」と書いたが、ホテルに迎えにきてくれた印刷会社のワゴン車の運転手の運転は客を乗せているという感覚が全くゼロであった。高速の出口近くに、トロトロ走っている車がいたのだが、それをもの凄いスピードで、ウインカーも出さずに追い越して、出口の柱にぶつかりそうになりながら下った。

せっかくだからということで、ウチの3月の新刊も印刷することになった。東京でFTPサーバに転送すれば、いいだけ。昨日、コーディネートの巽さんから、もらった面付済みの出力紙を見てみるとなんと、タテ組なのに左開き。中国では、ヨコ組が主流なのだ。正しいものこの日もらってチェック。OKと戻したところ、サインをするよう求められた。全台の出力紙に「校了」と名前を書かされた(中国でも校了と呼ぶらしい)。すべてPDF入稿とのことだったが、カバーに問題があり、東京の編集部長に電話してPDFに変換する前の、Illustrator 8.0とPhotoshop 5.5をサーバに送ってもらったところ全く問題なく出力。下の写真はmacが30~40台並ぶプリプレス室。OSはほとんどが、9.2であったが、一部Xのものもあった。組版の所は見ることができなかった。

S社長の新刊で問題が起きた。経費削減のため、今回はオール4色にはせず、後半を2色にしていたのだが、2色部分も4色だと先方が言い出したのだ。巽さんが必死に交渉していたが、彼は印刷のことをあまり知らないために、難航していたようだ。また、S社長が、バンバン赤字を入れていたため、値段的にも問題が起きていたようだ。

夕方、印刷機・製本機を見学させてもらった。途轍もなく壮大な設備だった。中国的というのか。製本機は5台。印刷機は1色反転機は十数台、4色機も十数台。輪転機3台。製作の仕事をして、13年になるが、未だかって、これほどの規模の印刷設備を見たことがない。印刷機に関してはすべてハイデルベルグで、新しいものだった。ウチの新刊を刷る紙を見せてもらったが、それはそれはヒドいざら紙だった。クリーム書籍を希望したのだが、クリーム系が余りないようで、白っぽい。しかも手触りは表裏で全く違う。異物もかなり入っている。

ホテルに帰ると一服。★氏と周辺を散策。こ汚い商店でビールとつまみと煙草を購入。煙草はなんと3元。日本円にして約36円。右のセブンスターは280円である。7分の1だ。街には大学の掲示板のようなものを結構見かける。新聞が貼られていて、いかにも新聞も買えなそうな貧乏人達が食い入るように覗き込んでいる。S社長と巽さんと夕食を共にすることになっていて、その待ち合わせまでに1時間ほどあったので、ビールを呑んで軽く寝ようと思った。しかし、部屋の窓の外から聞こえる車のクラクションの音でなかなか眠れない。先に書いたように交通マナーが極めて悪い北京。ホテルは高速道路入り口近くのメインストリート沿いなのだが、不幸にもぼくの部屋は、その道路側だったために、おもいっきり、その影響を受けた。

ほとんど寝れないまま、待ち合わせのロビーに行くと全員集合していた。ホテルから5分ぐらいのレストランに行く。S社長は日本語教師をしているという中国人のK先生を連れてきていた。この先生は、日本でも一冊出版しており、次回作はS社長の会社で出版することが決まっているそうだ。昨夜の店もそうだったが、この店も従業員が余剰気味。なおかつ、皆、若い女性が多い。女性というかほとんど子供だ。ナゼ? 騙されて連れてこられたみたいだ。学校は? 二十代三十代の人間はどこで何してるんだ!

お店の名物だというダチョウの肉を喰った。旨いのだが、香辛料がキツくて、本来の味が楽しめなかった。概して、中華料理は辛いものが多い。ホテルの部屋に入っても、印刷所の会議室に入っても、香辛料の臭いがするような気がする。そして、ほとんどのスープ類にはエビが入っている。日本だと、料理が出てきた瞬間にエビの臭いがわかるのだが、本場中国のお店だと、香辛料が強すぎてわからず、危うく口にすることもしばしば。ここでの食事はS社長にご馳走になってしまった。5人で腹一杯食べ、ビール3本で、2,800円。

3人と別れ、★氏と中心部へ繰り出す。地下鉄で、有名な王府井へ。ぼくらが泊まっていたホテルの最寄りの駅は「国賓」という駅。地下鉄はで4つ目。

中国語では「地下鉄道」略して「地鉄」という。北京の地下鉄は、北京の西郊外の苹果園から市内へ向かい第二環状路の南半分を回って北京駅に至る1号線(1971年初めに開通)と復興門から第二環状路の北半分を回って北京駅の隣の建国門までの逆U字型の路線を走る2号線(1984年に開通)がある(29駅、総延長39.4km)。1号線と2号線は1987年12月まで繋がっていなかった。1号線の車輌折り返しポイントが北京駅の東側にしかなかったので、西から来た車輌が折り返すには、北京駅まで行かねばならず、このために環状の運転ができなかったためだという。ほんの数百mの接続部分と折り返し地点の工事を残すだけで、3年以上も環状運転ができなかったのは、地下鉄の営業面から考えれば相当にもったいない話なのだが、社会主義の国では「もうちょっとここを工夫すれば儲かる」という発想はなかなか生まれないようだ。

自動改札は今導入中らしいが、国賓の駅の窓口で切符を3元で購入し、改札のオバチャンに半券を切ってもらい、ホームへ。結構キレイだ。一駅一駅は結構長い。王府井は東京でいえば銀座だという。それは誤解なので、お間違えなく。ネオンも多く、見かけは派手な街だが、メインストリートを一本はいると、スゴい世界が待っている。路上で焼き鳥みたいなのや、フルーツの串刺しを売ってたりする。銀座というよりは、アメ横に近い。麻雀牌のオモチャを売ってて、英語で値段を訊くと、140元だという。結構高いと思って、断っていると、最終的には65元まで値下がった。元値はいくらなんだと訊きたくなる。

歩いてると、二人組の女の子が「カラオケに行こうよ」と訛りながら話しかけてきた。断ったんだが、かなりしつこい。日本のそれとは違いホントにしつこい。最終的には「セックスしよう」「セックス嫌いか?」と露骨に、訊いてくる。しかたないので★氏と肩を組み「アイムゲイ」と言うと逃げて行った。その後も別なのが来たので同じ手を使い追いやった。そうこうしていると、今度は物乞いのオバチャンが来た。「シェイシェイ、シェイシェイ」と言いながら、ぼくのコートを掴む。カネをくれと言う。煙草でもいいと言う。自分のお袋と変わらないようなオバチャンだったので気が引けたが、煙草を吸いながら「アイム嫌煙家!」と訳のわからない言葉を言い放ち断っていたのだが、それでも100メートルぐらい着いてきた。ウザイので振り放ち、転けたスキに逃げた。

気がつくと有名な屋台地域に辿り着く。その屋台村が見える中華屋の2階に入った。喰う気はないのでワインのみを頼む。しかし、英語が通じない。ここの店員も若い女の子ばかりで、まるで宇宙人を見るような目で見られてしまった。唯一英語が出来る女の子が来てくれたので、ワインボトル一本とグラス2つとミックスナッツを頼んだ。話が盛り上がって2本目に突入。社長の息子、つまりは★氏の会社の社長に、斉藤と遊んでこい、と言われたようなので、ここでの呑み代を出してくれた。しかし、領収書を頼むのがヒト苦労。さっきいた英語が出来る子は帰ってしまったみたいで、中国語しか出来ない女の子ばかり。何とか、別な領収書を見せて、それらしきものを貰った。帰りはタクシーを使った。

中国印刷事情3

2005年03月04日 | 仕事
【2005.3.3】

ティエンさんの計らいで、華北という北京から高速道路を北上すること1時間ほどの印刷所の見学をさせてもらうことになった。ティエンさんの弟のゼネラルマネージャーが使ったことがある印刷所らしく、彼に案内してもらうことになったのだが、午後2時過ぎしか時間が取れないということだったので、午前中観光をしようということにした。そんなに早起きする必要もないので、10時にロビー集合ということで、★氏と待ち合わせた。

しかし────!

8時30分にベットメイクの女の子に起こされてしまった。訳がわからず英語で質問していたが、彼女は中国語しかできないようで、お互いに困り果てた。筆談だと思い、部屋の紙とペンを渡すと「退」と書かれた。まあ、部屋の掃除をしたいんだろうことはわかっていたのだが、なにせ8時30分である。「起こさないでください」と書いてあるドアノブのカードを見せても全く納得するふうでもないので、しかたなく部屋を出ることにした。★氏にも電話して、その旨を伝えると、彼も降りてきた。取りあえず、地下鉄で「天安門」行くことにした。

まずは「西単」まで行き、戻ってくる感じで「天安門」を目指した。「西単」もなかなかキレイな街だ。途中で書店に寄った。

●日本と中国の書籍の違い●
ここで日本と中国の書籍の違いを列挙してみる。

(1)ヨコ組文化
先にも書いたが、中国の書籍はヨコ組がほとんどだ。漢字圏なため日本と同じくタテ組だとばかり思っていたが、今ではそうじゃないようだ。

(2)カバーなし
日本の書籍のようにカバーがない。逆に言えば、書籍にカバーが巻いてある日本の方が異常なのだ。欧米でもカバーなどあまり見かけない。日本は返品されてきた書籍を再出荷する場合、天地小口の3方をすべて研磨し、新しいカバーを巻き直す。そこまで潔癖な日本はやはりヘンな国なのだろう。ついでに言うと、見返しもないのがほとんどだった。

(3)豪華な装幀
装幀は凝ったものが多い。目を引くのが箔押し本の多さだ。しかも、レインボー箔など高いものが平然と使われている。P.P.加工が普通の日本だが、大雑把に言うと9割ぐらいが、マットP.P.加工の本が占めている。また、バーコ印刷なんかも当たり前のように多用されていて、文化の違いを思い知らされた。

(4)逆目本
これほど違いを思い知らされた文化の違いはない。すべての本が逆目なのだ。出版界にいない人に説明すると、紙を抄造(漉く・抄く・紙を作ること)する際、原液が流れる方向にどうしても目が出来てしまう。紙を手で切る時に切りやすい方向とそうでない方向があるはずだ。切りやすい方に紙の目が流れている。日本では、書籍の天から地に向かい目が流れているのが普通だ。それは、本文用紙に限らず、表紙もカバーも見返しもそうだ。そういう取り都合を考える。中とじの雑誌等はボリュームを出すためにあえて逆目にすることがあるが、それは極めて稀なケースだ。

(5)粗悪な紙
韓国から辞典を輸入したりしているので、だいたい想像はできていたのだが、紙はホントヒドい。表裏の手触りが違ったり、色味もまばらだ。何でも白ければいいみたいな感じで、日本のようなクリームの書籍用紙はないようだ。上質紙にしても白というよりは青白い感じだ。微塗工紙も薄用紙も見ることはなかった。恐らくないのかもしれない。見返しに使うようなファンシーペーパーは数がない。コート紙やマットコート紙などは比較的マシだと思う。

書店で、外国語学習コーナーを覗いてみたが、英語が大半を占めている。日本語なんかは片隅に追いやられている。外国語のフロアにはCDやビデオのコーナーがあった。Guns N' Rosesの「Use Your Illusion IとII」を売っていたので買ってしまった。一枚10元。1元=約12円。なんと120円だよ! ついでに女子十二楽坊のDVD付きのアルバムを買った。60元(720円)。日本に戻ってDVDを観ようとしたが、DVDの形式が違ったために観られなかった(残念!)。

そのまま、「西単」から東に30分ほどだらだら歩いて行くと、やがて天安門に辿り着く。この辺りは、中国人にとっても観光地のようで多くの中国人が記念写真を撮っていた。彼ら(ほとんどがオッチャンたち)の服装はダークな色合いばかりで、日本でもよく見かけるが、頭髪は寝癖ばかり。ホント揃いも揃ってそんな姿の中国人ばかり。かと思ったら、横をアタマ真っ赤で派手な服装の女の子が通り過ぎて行ったりする。中国は社会主義かと見まがうほど、貧富の差が激しい。一億総中流階級の日本の方が余程社会主義っぽい。

そのまま東に向かい、途中でかの有名な「北京飯店」を通り過ぎ、昨夜呑んだ王府井に辿り着いた。ここで朝食兼昼食。連日中華だったため、ちょっと胃がもたれてきたので、日本では喰うことの出来ない「吉野家」の牛丼を食べた。単品でよかったのだが、頼みかたがわからず、サラダとスープの付いたセットメニューをお願いした。23元=約276円。久しぶりのヨシギューは最高に旨かった。付いてきたスープに思いっきりエビが入っていた。

午後にティエンさんにお世話になるので、差し入れでもと思い、小粋なお菓子でも買おうと二人で歩き回ったが、それらしきものが全くない! 北京飯店の中にも踏み入れたが、ない。北京飯店は歴史的にも有名なホテルだが、その荘厳さは途轍もなく重い感じだった。疲れきって、Starbucks Coffeeでコーヒーを飲む。8元=約96円。実はコーヒーには苦労した。毎朝コーヒーを飲むのを日課にしているぼくにとっては、なかなか飲めずノイローゼになりかけていた。煙草も簡単には吸えない中国。お茶は頻繁に飲めるが、コーヒーはなかなか飲めない。結局ティエンさんにはワインを買って(彼女は下戸なのだが)、一度ホテルに帰還。タクシーで14元。タクシーにもボロいのとそこそこの2種類がある。今回はいい方で帰った。シートのふかふか感が全く違う。値段にしても24円くらいの違いの贅沢!

30分ぐらいホテルで一服して、ティエンさんの会社に向かう。勿論、いいタクシーでだ。早速初日に打ち合わせたOCRの試作をしてくれていた。ほぼ90%の読み込み率。十分である。逆に元の方の誤植が多かった。

さてさて、ティエンさんの弟のぼくと同い年の、マイルドセブンを愛煙するゼネラルマネージャーと、通訳として天津から来ている大学生と四人で、ゼネラルマネージャーの運転するホンダのアコードで、華北にあるという印刷会社に向かった。北京から高速を使っておよそ1時間。しかし、平均160km出している。

通訳の学生さんが面白かった(名前失念)。普段、中国語を喋っている時は、堂々と話しているのに、日本語になる途端に「すみません、すみません」「えっと、えっと」となり、態度も急変。腰が低くなる。そんなところも日本人の真似しなくても! と何度も思ったが、言えなかった。最後にウチが出版している中国会話本をあげた。その値段にたじろいていた。
  

印刷所について、閉口したのは、最初に通された偉いさんの部屋での事。名刺交換をした後、煙草を渡されたのだ。しかも銘柄の違う煙草2本。それで吸えというのだ。天津の学生さんも普通にふかしていた。吸い終わると次がくる。もちろんお茶も出たが、ナントモ日本の戦前の風景ではないか!? 煙草は嗜好品。恐らく昔の日本でもこんな風景があったのではないかと思う。しかし、しかし。禁煙ブームで、どこへ行っても吸えない昨今、こんな風習が残っているのは、やはり中国だからか?

前日の印刷所とは、対照的な田舎の工場だ。しかし、設備はそれほど悪いわけでもなかった。4色機も2台あり、製本機もP.P.加工機もあり、すべてが揃っている(日本の印刷所ではここまで揃っているのは大企業しかない)。プリプレスの部屋も覗かせてもらったが、G4のタワー型が3台とeMacが2台あるだけのお粗末な環境だった。所詮田舎の人達向けの印刷工場といった感じだった。しかしながら、ここで会ったオッサンたちは、イメージ通りの中国人でかなり好感が持てた。

帰路は背筋の凍る思いだった。たぶん、運転するゼネラルマネージャーは仕事が忙しくて早く帰りたかったんだと思うが、一般道、片側1車線の狭い道路を130kmで飛ばすのだ。当然のように、横には歩行者や自転車に乗った人達がいる。そして、道路を横断しようとしている小学生十数人の群れにめがけて、クラクションを鳴らしつつ、100kmぐらいには減速したものの、行き過ぎてしまったのだ。また、トロトロ走っているトラックを抜かそうと、反対車線に出たが、向こうからも猛スピードで走ってくる。正面衝突と思った瞬間かわしたが、ホント死ぬかと思った。運転の荒いぼくがいうのだから、これはホントだ。田舎に来ると、貧民窟のような住まいがたくさんある。夕日がキレイだった。

最後の晩餐をどうするかと悩んだが、★氏もぼくもお互いもうすぐ37歳。中国料理にホントに飽きてしまったので、ベタだが、日本料理の店に入った。たいして旨くもない刺身で乾杯。もう一件、バーにより、ホテルに帰った。そうとう疲れていて、ベットに入ると、ドアをノックされた。不審に思いつつも、ドアを開けると、まだ十代の体格のいい女の子が立っていた。例によって中国語で捲し立てられたが、全く何言っているのかわからない。業を煮やした女の子は、部屋に入ってきて、マッサージの案内を掲げた。出張マッサージかと納得したが、死ぬほど疲れていたので、丁重な仕草で断った。今となっては、お願いしてもよかったかなと少々後悔している。

【2005.3.4】

北京空港発08:30の便で、成田に向かう。ホテルを出て、いいタクシーを拾って「Airport Please」と伝えたところ、その運ちゃんが理解出来ない。いくら中国語しかできないとしてもタクシーの運転手ならエアポートの単語ぐらい知ってると思うじゃないか! 前日、天津の学生さんに会話本を渡してしまったので、筆談しかない。「空港」と書いたが、中国語では正式には「空港」と書かない。理解したふうだった運ちゃんだが、ぼくらは、飛行機を目の当たりにするまで不安だった。

機内放送で、成田周辺は雪のため、関西空港か中部空港に着陸する可能性もあると伝えられたが、予定通り成田空港に辿り着いた。その足で会社に戻った。疲れた。

総括 中国での印刷は、技術的にも設備的にも問題がなく、料金面を考えても、ありうるとは思う。しかし、紙と流通に問題があるといえる。通訳の問題もあり、詳細に質問できなかったが、薄用紙や微塗工紙もないようだ。コート紙も上質紙についても、白ければ良いようで、すべて青白い。クリーム書籍紙に関しても、日本のような暖かみのある色はなく、クリームというよりは白に近い感じである。