大学を卒業して最初に就職した出版社の同期は27人。毎日のように同期会と称し呑みあるいていた。そして地方にいる同期に会うために同期旅行を毎年やっていた。過去に例がないほど仲がいいと社内でも有名な同期連中である。
9年目の2001年に行った大阪UFJを最後にその旅行はしなくなったが、今回東日本大震災で被災した仙台支社のキジーを慰労するために、被災地同期旅行を決行した。さすがに四十を過ぎたオッサンオバサンたちなので参加者は7人と少ない。
22日は会社を早退して、たまにこのブログにも登場する今の会社の宇都宮で隠居生活の元上司を訪ねた。2005年に病気のため退職したのだが、その病気はほぼ完治しているようだ。この元上司は独身でキャバクラ好き。軽く呑んだ後さっそく最近行きつけというキャバクラに行く。目的のキャバ嬢は21歳の美人さんで、マンションの屋上で呑んだり、山の中にある地域興しの蕎麦屋巡り等にも付き合ってくれるそうだ。元上司は63歳。そして精算をしてビックリ! 2人で55,000円。ずいぶんとこの手のお店に行ってないが高過ぎないだろうか。奢ってくれそうだったが、年金暮らしの人に申し訳ないので2万だけ出した。教養のない女と呑むのはこうもつまらないものかと思った。
翌23日は11:00仙台駅集合。宇都宮から1時間で到着。みんな10:30には着いていた。仙台支社のキジー、書店営業のジュンちゃん、編集のサゲ、物流のポップン、そして退社組はぼくのほか、某出版社勤務のボッキ、某広告代理店勤務のつるぴか君の7名。ふだんこんなあだ名で呼び合っているわけではないが、便宜上つけてみた。キジーの慰労と被災地観光と最大の目的は被災地におカネを落としてくるというものだ。しかしつるぴか君はさっそくカネが足りず借金をする始末。
キジーが借りてきたエスティマで石巻に向かう。道は結構混んでいた。仙台市内はほとんど普段通りの感じだった。お昼過ぎに塩竈に到着。塩釜水産物仲卸市場の前にある「食事処伸光」というところで昼食。先日笑福亭鶴瓶がNHKの『鶴瓶の家族に乾杯』という番組で大魔神こと佐々木主浩とこの店に来たそうだ。26日に放送されるらしい。1500円のウニ丼を頼んだ。まずまずの味。みなは800円のなかおち丼。この店は震災後4月29日に再開したらしい。頑張ってもらいたい。
そのあと塩竈といえば「浦霞」だということになり、検索して蔵元を目指した。30分ほどで到着。元直属の女性上司の出身地が塩竈でよく夏休みの帰省の際に浦霞一升瓶を買ってきてもらっていた。東京では呑めないという珍しいものをうちに泊まりにきたつるぴか君とその仲間に寝ている間に一升瓶まるまる呑まれたことがあった。そんなことを思い出し、宮城県限定という一升瓶を自分用と親父用と二本購入。もう運転する気がゼロということで、そのあと300円でできるという「きき酒」というのを体験。3種類の浦霞を呑めるというわけだ。キジー以外みんな体験。すっかり酔っぱらってしまった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/cf/235cbd3b99cfd0b5da743db74cb949ea.jpg?random=f125f3b8c071a7f11ab8bf12b76c3b81)
運転は相変わらずキジーが務め石巻に向かう。突然景色が変わり出した。津波の影響をもろに受けた家屋が至る所に見受けられる。その惨状に愕然としつつ進んでいった先に石ノ森章太郎の「
石ノ森萬画館」がある。いまは津波の影響で閉館中だ。原型は留めているものの周りの教会やら家屋の惨状から中はとんでもないことになっているんだろうと想像に難くない。この町は石ノ森章太郎の出身地ということで、いたるところに彼のキャラクターの銅像などが置いてあったが、それもすべて悲惨な状態になっていた。
ボランティアで一度来ているサゲが日和山公園から観るとものすごいと教えてくれたので、急勾配の坂を登り鹿島御児神社というところにたどり着いた。「たちあがれ東北!フェスタin石巻」というイベントをやっていて人がごった返していたが、石巻市の全体像を望める風景がそこにあった。
みな出版社勤務(ひとりは現広告代理店だが)ということで、日本製紙の石巻工場も寄ってみた。祝日にも関わらず稼働していた。製紙工場見学は何回もしているぼくの目から見てもだいぶ復旧しているようにみえたが、白い煙を出していない煙突もところどころあった。この工場は十條製紙と言っていた頃から優秀な本文用紙を作ってきた歴史ある工場だ。地域の人のためにも出版界のためにも早く完全復旧してもらいたいものだ。
ホテルに行く前に奥松島パークラインという道路を通って大浜海水浴場というところにも向かった。ここは石巻湾より太平洋側にせり出している地形の海岸線沿いだ。前々日の台風の影響からか川の水位はかなり上がっていて決壊寸前といった具合。大きな交通標識がひっくり返っているままになっていたり、卒業アルバムが転がっていたり、半年経ったいまもあの3・11のままだった。
18:00過ぎに「ホテル大観荘」に到着。ひとっ風呂浴びてバイキング形式の夕食。なかなか美味。なかには復興支援のために泊まっている人たちも多くいた。一番疲れていたのはキジーのはずだが、部屋に戻って軽く乾杯した後ぼくはすぐに寝てしまった。
翌24日は7時に起きて朝風呂に入った後朝食。復興支援のTシャツを2枚購入し、8時に出発した。子供のイベントのために帰らなくてはならないジュンちゃんと米沢に行きたいと言い出したボッキを松島海岸駅に送り届け、今日もキジーの運転で出発。前日の夕食の時に、自らの営業先でもある「陸前高田」をぜひ見るべきというキジーの提案で一気に岩手県に乗り込むことにした。被災者のキジーは「罹災証明」をもっており高速道路は無料で乗れる。
気仙沼辺りの惨状は宮城のそれ以上だった。内陸から1キロもある村が壊滅状態だった。こんなところにまで津波が来るとは誰も想像できなかっただろう。微妙な地形のせいかわからないが、倒れずにすんだ家と倒壊している家とが並んでいたりする。急拵えのコンビニも建っていた。近所の人の大事な生活の糧として機能しているのだろう。至る所に復興支援の格好をした人たちが説明を受けていたり作業をしていた。太平洋海岸線沿いを走る気仙沼線もめちゃめちゃだった。
そして「高田松原駅」に降り立った時は愕然とした。そのときに思い浮かんだのは
なんにもない なんにもない
まったく なんにもない
生まれた 生まれた 何が生まれた
星がひとつ 暗い宇宙に 生まれた
星には夜があり そして朝が訪れた
なんにもない 大地に ただ風が吹いてた
(「やつらの足音のバラード」 園山俊二作詞・かまやつひろし作曲)
という『はじめ人間ギャートルズ』のエンディング曲だ。それほどなんにも無くなっていた。元々の町の姿を知っているキジーはもっと感じるものがあったかもしれない。津波に耐え1本だけ残った「奇跡の一本松」を見るに胸が痛んだ。江戸時代に作られた松の防潮林は7万本もあったそうだ。それがたった1本しか残らなかったとは、津波のスゴさがわかるというものだ。
そのあと、世界遺産に登録された平泉中尊寺まで足を伸ばし、高速で仙台まで帰り、キジーとわかれ新幹線で帰京。東北の惨状はボランティアでもなんでも一度日本人として見ておいた方がいいと思った2日間だった。