blogギター小僧の径

ギター小僧の私生活

ケンジさん

2023年12月15日 | 想い
1992年に社会人になった。とてつもない大出版社でぼくのような三流大学出身の人間が入れるような企業じゃないが、バブルの影響と総務の面白そうな人間も入れないとという気まぐれのお陰でなんとか入社できた。2週間ぐらいの研修を経て最終日は野外研修と称して同期全員・総務・一部の先輩と湯河原に出かけた。そこに2期上のケンジさんがいた。

ケンジさんとは馬が合い、ぼくが秋葉原の本社、ケンジさんは駒込の支社だったのにも拘らずしょっちゅう遊んでいた。すでに編集局を中心とした野球チームが存在していたが、あまりにも団塊の世代が多く、自由にモノを言えない雰囲気だったので、入社1年目の秋頃に若手中心で野球チームを作る話になった。ぼくもケンジさんのすすめでその新チームに入ることになった。そのこともありさらに親密な関係になっていった。入社2年目になると本社ビルが王子に竣工した。秋葉原本社と駒込支社の人間が王子に集合した。ケンジさんとの関係はこれによりさらに深まっていった。ぼくは10階のフロアでケンジさんは2階のフロアだったがしょっちゅう2階に遊びにいっていた。

2008年12月25日にブログに書いたが、1993年の社会人2年目の年、組合専従の委員長が野球部の仲間の人になり、ケンジさんは青年部の部長になった。その頃の青年部は婦人部と比べまったくやる気のない組織だった。委員長と青年部長のケンジさんに呼び出され、10万円使っていいからなにか大騒ぎしろと指示された。あまりお祭り騒ぎは好きではなかったが断れないので、ぼくが主導でクリスマスパーティを開催した。それは大成功に終わった。ただこの時のぼくの活躍がのちに営業局への異動のきっかけになるとは思わなかった。

そう、それから1年後の9月の人事異動でぼくは栃木県担当の営業職になった。とてもやる気になれない業務だったため、異動後すぐに退職してしまった。退職後も野球チームの合宿や試合には参加していた。ある日ケンジさんとケンジさんの同期のホリウチさんが退職したと連絡があった。この2人は同期結婚でぼくは結婚式にはもちろん出席している。聞くところによるとホリウチさんはぼくと同様に営業局に異動になったのだが、一緒の部署で働く先輩と不倫していたことが発覚したらしい。ケンジさんは彼女をボコボコにしたらしいが、結婚式で誓った通り別れるという選択はしなかったようだ。そのかわり、今までの会社の関係を全て絶つと宣言。ぼくとの関係も解消するとのことだった。

その後、ぼくはいまの会社の仕事が忙しくなり、野球にも行かなくなり、同期の人間にも会うことが少なくなっていった。2015年の「CEATEC JAPAN」に出かけたときに、前の会社のブースがあり何気なくイベントを見ていたらケンジさんが突然現れた。「さいとうー、何やってんだよ!」と言われ仕事で来ていることを伝え、名刺交換なんかをした。辞めたあと自分で会社を立ち上げ社長をしているという。しかし仕事のほとんどは前の会社からもらっているとのことだった。奥さんの不倫で会社の関係を全て絶つと見栄を切って宣言したわりには、情けないやつだなと思わざるを得なかった。さらにガングロで茶髪というルックスにも辟易した。早々に挨拶を終えその場を去った。

長々とケンジさんのことを書いてきたが、今日同期のポップンとある会合で久々に会った時、ケンジさんが亡くなったことを聞いた。──57歳の若すぎる永眠。食道静脈瘤破裂という病気で入院していたらしい。尋常じゃない量のビールを呑む人だった。なんだよ、それは、という感想だ。────合掌!