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硫黄島訪島記③ ~戦跡パートⅡ

2016年06月19日 | 硫黄島
戦跡パートⅠの続き

■哀しいことに島全体が要塞化しているので、至る所に壕や大砲跡があります。

7.すり鉢山
標高約150m。
活発な火山活動のお蔭で標高は1年の間に数メートルも変わるそうです。
平らな硫黄島で唯一の山です。

硫黄島と言えば摺鉢山(すりばちやま)と言えるほど、
象徴的な山です。

米軍が最初に上陸してきた二ッ根浜から見上げると、
上陸の時の凄惨な情景が頭の中でよぎります。


山頂から見るとこのような大きな浜であることが分かります。
上陸作戦の上で、一度に多量の舞台の上陸を可能にする浜ですので、
日米ともにここから来ると確信できるに値する場所だった様です。


少し離れた場所からもすり鉢山はよく見え、
日本にとっても米軍にとっても、
そして戦前暮らしていた島民にとっても大切な山であったと感じます。

山頂から眺めると、
艦砲射撃で山の形が変わったという場所がよく分かりました。

この凹んだ部分が爆撃でえぐれた場所です。

爆撃の凄まじさが伺えます。

太平洋戦争中、日本軍はグアムなど他の島々で「水際作戦」という、
敵の上陸を阻止すべく、海岸で攻防を繰り返してきたそうですが、
米軍の圧倒的な火力と物量の多さに一瞬の全滅を繰り返してきたそうです。

硫黄島の兵団を率いた栗林中将は
過去のせん滅を教訓に、
硫黄島では水際作戦ではなく、
相手をできる限り上陸させてから一気に攻撃し、
その後は地下に潜んで長期的に戦闘を続ける戦法を選んだそうです。

それは自分が生きて本土に帰れない事を分かりつつも、
家族や友人のいる本土上陸を1日でも遅らせる算段だったようです。

結果、広島と長崎に原爆が落とされ、
多くの一般市民が亡くなり、
太平洋戦争は終結します。
きっと名将・栗林中将でもそこまでは読めなかったのではと多くの方が語っていました。


8.兵団司令部壕(栗林壕)
有名な栗林中将がここから兵団を指揮していたとされる壕です。

硫黄島の至る所にこのように場所の名前を記された碑が設置されています。

入口には観音様が祭られていました。

凄まじい戦闘だったと想像ができます。

階段を下りてすぐに屈まないと入れない狭い通路になります。
敵の侵入や火炎放射を防ぐために、
様々な工夫がされていました。


狭い通路を抜けて進むと、
水と共に栗林中将の写真が祭られていました。

部屋の上部には排気口があり、神棚が祀られています。

ここが栗林中将が指揮をしていた居室だそうです。

当時はここに机があり、執務にあたっていた場所そのものとのこと。

そんなに広くはなく、一部屋が4畳半より広いくらいで、
高さは2mもないほどの狭い部屋が奥まで続いていました。

さらに奥には広くて作戦会議に使っていた部屋もあるそうです。

当時の状況を想像するには十分すぎるほどの場所でした。


硫黄島の戦闘の貴重な実際の映像です。

9.医務科壕

いわゆる野戦病院となった壕です。

ここは陸軍の穴掘りの専門部隊が建造したらしく、
通路も部屋も広く、空気の流れを考えて作られていました。
沢山の道具も遺されていました。


これは鍋でしょうか?


硫黄島では何より貴重であった水はドラム缶に蓄えられていたそうです。

しかし、その水も飲むと硫黄臭く、
余計に喉が渇いたといいます。
それでも飲まずにはいられないほどの状況だったそうです。

この壕の奥でミイラが2体見つかった場所というのを案内されました。
そこはカメラが曇り、
眼鏡が曇って何も見えないほどの灼熱地獄でした。

具合悪い体で、
飲み水もなく、
苦しんで亡くなっていったのだと思います。

「英雄なき島/久山忍 著」という、
大曲覚氏(元海軍中尉)の証言によると、
壕の中は熱さと遺体の腐敗臭、糞尿の匂いが充満していて、
他の人をかばう気力もなく、死体はそのままだったと書いています。

この場所もとても悲惨な状況だったと書いています。

壕の中には大きなムカデもいました。


大きなハナダカクモもいました。

こんな中で戦闘で傷ついた人たちが収容されていたのかと思うと、
とても切なくなります。


場所によっては上部に排気口が開いていて、
そこ付近はとても涼しくなっていました。

硫黄島の壕は深い所では30m以上あり、
そこの暑さはサウナ以上だったといいます。
私が体験した場所はせいぜい50度くらいだったのでまだまだ暑い壕が沢山あるのだと想像できます。

島の壕の全長はなんと約17kmにも及ぶそうです。
それもほとんどがつるはしとスコップによる手掘りだったそうです。
重機はなく、陸軍は少しダイナマイトを使って掘っていたとのこと。

すり鉢山と島中央部の元山地区を地下で繋ぐ予定をしていたそうですが、
米軍上陸までに完成せず、それがすり鉢山が上陸後4日で没落してしまった背景だそうです。

もし地下で繋がっていたら水や兵器の補充が可能で、
栗林中将は10日は持ちこたえる計算だったと言います。

いずれにせよ、空襲と艦砲射撃の最中、ここまでの規模の壕を昼夜休まずに掘り続けた兵隊の労働の辛さは図り知れません。
しかし、自分たちの身も守る壕でもあったので必死だったと思います。
中年以降の兵士は壕作りでどんどん倒れていったと言います。
戦争というものが引き起こす悲劇に他なりません。


10.最後の突撃壕
硫黄島の兵団を率いた栗林中将が最後の突撃を行う時に
最後まで使っていた壕です。

入口付近には沢山のヘルメットが置かれていました。

内部は迷路のようになっていて、
左右には小さな部屋が作られています。

5日で攻略されると米軍が考えていた硫黄島ですが、
最終的には1か月かかったとされています。

太平洋戦争で唯一、
日本軍の死傷者よりも米軍の死傷者が多く、
今も伝説の戦場となっています。

日本ではあまり知られていませんが、
今もご遺骨が日米合わせて1万以上も埋まったままです。

遺族にとってももちろん、
私たちにとっても
戦後は終わっていないと強く思い知らされました。


11.高射砲
青空を見上げる高射砲です。

こちらは最近車で来れるように整備されたばかりだそうです。

2基、近い距離で並んでいました。
美しい硫黄島の景色と空に突然現れる高射砲の圧倒的な存在感。
こんなものを何基も設置する戦争というものの愚かさを垣間見ました。


12.捕虜収容所(米軍)
これは捕虜となった日本兵を収容していた米軍の施設だそうです。


島と思えないほど地平線が続く、空港周辺。
かつての電信柱が等間隔で残っていました。

風景も地平線が見える場所もあり、
ここは小笠原の島なのかと我が目を疑いました。



13.壁画

米軍がすり鉢山を占領し、
星条旗を上げた有名な写真を描いた壁画がありました。

ここにも沢山の弾痕がありました。

自衛隊の案内の方の話によると、
「英雄はこの者たちだけではない」とこの壁画に銃を撃った方もいたそうです。


英語や日本語で沢山の書き込みがされていました。
遺族や兵隊のものなのか、
来島者の落書きかは不明ですが、
心ない落書きでない事を祈ります。

太平洋戦争の硫黄島の戦闘当時、
アメリカではこれ以上兵士の犠牲が増えない様に、
戦争反対の世論も多く、
多くの兵器で経済的にも苦しく、
アメリカの上層部は国債を市民に買わせようと躍起だったようです。

しかし、この硫黄島のすり鉢山の写真で、
市民は興奮し、一気に戦争を進めれる雰囲気になったそうです。

戦争というのは単なる経済行為なのでしょうか?
多くの親や子供、家族が泣き、
生き残ってもその後遺症に悩まされます。

机上で作戦を立てる役人。
現場で命を懸ける命令された通りに動く兵隊。

いかなる場合でもこんな理不尽な戦争というものはあってはならないものだと強く思いました。
訪島記④に続く


参考までに人時通信の取材の映像も貼っておきますね。

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