玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(1)

2022年02月20日 | ラテン・アメリカ文学

 マリオ・バルガス=リョサの作品については、邦訳されたものはそのほとんどを読んできた。20作品にも及ぶ小説だけではなく、文学論やエッセイ、自伝まで、ただ一冊『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』(1986)を除いてすべてを読んだ。この小説を除外しているのは、それが推理小説だからという理由であり、推理小説嫌いの私にはいっこうに食指が動かないからなのである。
 今回『シンコ・エスキーナス街の罠』(2016)を読んだので、2010年のノーベル文学賞受賞後の彼の小説3作も読み切ったことになる。しかし、ノーベル賞受賞後の彼の作品については、いずれもそれ以前の作品に比べて作品としての訴求力が弱いという感じを否めない。『つつましい英雄』(2013)はおそらく、リョサの作品の中で最も穏当で、精彩を欠いたものだったし、受賞第1作『ケルト人の夢』(2010)も、リョサらしくない作品だった。
『ケルト人の夢』は一月ほど前に読んだばかりなのだが、このアイルランド人の外交官で同性愛者であった、ロジャー・ケイスメントの生涯を追った作品を私はあまり好きになれなかった。リョサにはこうした実在の人物の生涯を追った作品がいくつかあるが、どれもあまり成功しているとは言いがたい。
『楽園への道』もそういう作品で、ゴーギャンとその祖母フローラ・トリスタンの生涯を交互に記述していくものだったが、どうにも喰い足りない小説である。おそらくリョサは、そういう小説の書き方に向いていないのだ。主人公に対する感情移入に弱さがあるし、弱ければ弱いでもっと突き放して客観的に書けばいいのだが、その辺のスタンスが中途半端でいけないのである。だから読者は主人公に対して強い共感を抱き得ないのだ。
『ケルト人の夢』もまさにそういう作品であって、読者は主人公ロジャー・ケイスメントの被植民者に対する共感と、植民者に対する彼らの抵抗に共感することはできても、彼の同性愛について同調してついていくことができない。だから私は『ケルト人の夢』について書くことができなかったのである。
『シンコ・エスキーナス街の罠』はリョサの一番新しい小説ということになるが、この作品でリョサは久しぶりにリョサらしさを取り戻しているように思う。〝リョサらしさ〟とは何かといえば、それは〝人間を政治的闘争の場において描く〟ということであって、処女長編の『都会と犬ども』(1963)から『チボの狂宴』(2010)までを貫く、一貫した姿勢ではないだろうか。
 主人公に対する大きな思い入れなどなくても構わない、それよりも人間を闘争の場において描くというスタイルこそが、リョサらしさなのである。そういう意味で彼の小説は基本的に政治小説なのだと言うこともできる。『ラ・カテドラルでの対話』もそうだったし、『パンタレオン大尉と女たち』(1973)もそうだった。
 特に『世界終末戦争』(1981)は、ブラジルのカヌードスの乱(1896-97)を描いて、政治小説の極致をなしている。戦争が政治の延長上にある暴力行為であるとすれば、戦争を描いた小説は政治小説を極端化したものに他ならないからである。しかもリョサは『世界終末戦争』にあっては、反乱軍の側に立つ登場人物たちに見事に感情移入し、一人一人の人物像を極めてクリアに描き分けることに成功している。
 私がリョサの作品の中で『世界終末戦争』をもっとも高く評価するのは、以上の理由による。それは集団のドラマであると同時に、一人一人の個人のドラマでもあるという相当な困難事を成し遂げているのである。

・マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(2019、河出書房新社)田村さと子訳

 



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