玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

うれしい贈り物(3)

2017年08月12日 | 玄文社

 最後の章、第4章「踊る死者たち」は、洪水とは無関係な37編の詩で構成されている。「舟」という詩誌に1976年から1980年にかけて発表されたものだ。
 タイトルは有名あるいは無名の詩人・作家・画家・ミュージシャンたちの名前のアナグラムになっていて、すぐにはそれが誰だか分からない。経田さん自身が巻末に真名を挙げているので、ようやくそれと分かる。
 なぜこんな手の込んだことをするのかと思うかも知れないが、さまざまな死に方をした詩人や画家、ミュージシャンに対する言葉が、愛憎のように錯綜していて、ストレートに示すことが出来なかったのだろう。そしてアナグラムもまた、修辞的技法のひとつであり、経田さんの死者に対する複雑で錯綜した意識を、そのまま反映しているのかも知れない。
 たとえばアルチュール・ランボーは、チューラン・アルルボーと表記され、ジャニス・ジョプリンはニジャ・J・プリンスと呼ばれる。村山槐多はマタイ・カラヤム、宮沢賢治はケヤミ・ジンザワと換えられているから、それが日本人なのかどうかさえ分からない。
 経田さんは私なら批評の言葉で書くであろう、死者に対する思いを詩の言葉で書く。批評の言葉で書くときと同じように、その死者に対する思いが希薄なケースでは作品は短くなり、それが濃い場合には作品が長くなる。
 だから、37編の中で短い詩編を挙げてみれば、経田さんの思い入れの浅い対象が見えてくる。1頁しかない詩編が5編。アメディオ・モジリアーニ(ジオメニア・アデリモ)、西一知(トモニシ・カズ)、中原中也(ハカナヤ・ラウチュ)、ウラジミール・マヤコフスキー(フルスコラージ・ミヤマウスキー)、ヴェイチェル・リンゼィ(ルヴェイ・チェゼーリン)の5人をテーマにした作品である。
 特に中原中也はたった6行しかないので、そっくり引用しよう。

「此の男、詩しか書けなくってまるでダダッ子。顔まで詩人らしく気取り、酒を飲めば一等先に酔っ払いいっそう詩人らしい振る舞いだ。詩を書き、詩を食べ、詩に食べられ、死んでしまった。不幸な日々も不幸な人も在りき。詩の花冠は結核性脳膜炎らしい。もう先はない。」

 私が詩人だったらこんな風に書かれたくはない。経田さんの皮肉は「此の男」に対して最も厳しい。中原は詩人を気取り、不幸を気取った人であった。中原の友人であった大岡昇平は中原が言う「詩人は不幸でなければならない」という考え方を真っ向から否定しているが、不幸な人間が詩人であることはあっても、すべての詩人が不幸でなければならないというような考え方は、完全に倒錯している。
 このような倒錯した考え方を、日本の結核文学と言われるジャンルも受け入れたのであったが、中原は結核で死んだのであり二重に倒錯していた。だから「もう先はない」のだ。

 マヤコフスキーはどうか。こちらは11行。部分的に引く。

「赤い乱痴気革命パーティのさなか
 声を限りに語り語り 騙り
 魂の真実とやらに耳をいれすぎ
 痩せた両手で両耳押しつぶした」

「愛も革命も詩も
 行き過ぎは魂消える
 そして 一発
 それっきり」

マヤコフスキーは〝行き過ぎた〟愛情関係の末に、拳銃自殺を遂げている(他殺説もあるが)。死者に対してなんと無慈悲な言葉であろう。しかし、我々はすべての死者に対して慈悲深くあることを許されていない。
 私のかつての友人であり、信濃川で入水自殺した詩人・中村龍介は「死者を あがめてはならない」と書いたのだったが、経田さんはその中村についても一編をものしている。

 

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