玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(4)

2015年12月29日 | ラテン・アメリカ文学

 前回、アルチンボルディに接近する役はアマルフィターノが引き継ぐと書いたが、正確には、なにやらアルチンボルディが関係しているらしい、例の連続女性強姦殺人事件へと接近する役割を引き継ぐと言わなければならない。 
 第二部「アマルフィターノの部」は、五つの部の中で最も短いものでしかないのだが、アルチンボルディを除いた登場人物の中では最も強い印象を残す。さらにアマルフィターノは、第一部と第三部「フェイトの部」にも登場しているから、部をまたいで登場する人物という意味でも、アルチンボルディ次ぐ重要性を持っていると言える。
 第一部で批評家達は彼の印象について否定的にしか見ていない。ペルチエは「挫折した男、なかんずくヨーロッパで暮らし、教えたために挫折した男、硬い殻で身を守ろうとするものの、内面の繊細さがその事実を暴いてしまう男」を見るし、ノートンは「急速に生命力が衰えつつあり、彼らにその街を案内する役目を果たすことが最後の望みであるという、なんとも悲しい男」をしか見ない。
 確かに放浪癖のある妻ロラ、精神病院に収容されている詩人を追いかけ回し、ヨーロッパ各地をヒッチハイクで巡り歩くロラに対する関係は、まったく無関心としか言いようがなく、アマルフィターノは現実との精神的結びつきをまったく欠落させているのである。
 アマルフィターノは自身の正気を疑っている。バルセロナから契約切れでサンタテレサの大学にやってきた彼は、まるでサンタテレサの瘴気に冒されたかのように狂気の淵に落ちていく。
 彼は自宅の中庭のもの干場に、ロープで一冊の本を吊しているのだ。それはマルセル・デュシャンの発想に倣っているのだが、娘のロサに対しては「ただ吊るしたいから吊るしているだけさ。ここの気候に、この砂漠みたいな環境にどれだけ耐えられるかと思ってね」と説明している。
 しかし、アマルフィターノは毎日義務のようにして、その吊された本を確認しないではいられない。砂漠の環境に曝されているのはアマルフィターノ自身であり、吊された本は彼自身の暗喩でもあるのだ。彼は毎日、自己確認のようにして本の崩壊過程を見ることで、自身の崩壊過程を観察しているのだ。
 幻聴もまたアマルフィターノの狂気の徴候である。"声"は彼にホモセクシュアルについての議論や、友情や愛、勇気についての議論を吹きかけるが、それだけでなく警告をも与えようとする。
「用心することだ、いいか、ここじゃ何もかもが白熱しているらしいから」
あるいは
「声を荒げないこと。汗をかかないこと。無駄な動きをしないこと」
などと"声"はアマルフィターノを救おうとしているようにも思われる。
 第二部にはこの他にも、アマルフィターノの無意味な哲学的思弁や、チリの先住民アウラコの民が持っていたテレパシー能力についての詮索など、様々な狂気の徴候が見られる(1回目で私はボラーニョがチリのことにまったく触れていないと書いたが、誤りであった。"まったく"を"ほとんど"に修正しておきたい)。
 ただそれらは横に並列的に並べられているのみで、遡及的に語られることがない。まるで思弁の旅を続けているかのように。
 『2666』では多くの登場人物が旅をする。第一部の批評家達も、そしてチリに生まれ育ち、スペインの大学で教え(ピノチェトのクーデターで自主的亡命をしたらしい)、今はメキシコの不吉な町で教えるアマルフィターノも旅をする。彼の妻ロラも放浪の人生を送る。何を置いてもアルチンボルディこそは旅する作家に他ならないではないか。
 私はだから、『2666』という小説の基調にあるのは"旅"ということではないのかと考える(重要な根拠があるのだが今は言わない)。アマルフィターノが故国チリの先住民に思いを馳せる時も、その思いは並列的に流れていく。カルロス・フエンテスの場合のように遡及的に探究されることはないのである。
 故国から出ることは"越境"として意識されていない。それはあくまでも"旅"なのであって、故国もまた"旅"の対象にすぎないのである。


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