カスパー・ハウザーの謎」のことはいいだろう。この映画は19世紀にドイツの田舎に現れた、16歳になるまでずっと牢獄に捉えられていたという男が、出現してから殺されるまでを淡々と描いた映画で、あまりヘルツォークらしくない作品だと思う。それほど印象に残る映画ではない。
やはりヘルツォーク監督作品といえば、第一に「アギーレ/神の怒り」を挙げなければならないだろう。以下この映画について、史実に忠実といわれるオテロ・シルバの『自由の王』を参照しながら書いてみたい。
この映画を観るものはオープニングから度肝を抜かれる。峻険な山岳地帯の険しい山道を下りてくる隊列の映像から映画は始まる。山道はほとんど垂直に映し出されて、隊列はその垂直な道を下りてくる。その間ナレーションもなく、ときに懸崖を転がり落ちる荷物の映像が挿入されて、いかにその道が険しく危険か、そしていかに行軍が厳しいものであるかを、無言のうちに示すのだ。
人一人通るのがやっとの道を、縦一列になって隊列は下りてくる。カメラが水平の眺望からクローズアップに移ると、そこにはインディオ達や、ラマの群れ、分解された大砲の筒や車輪を運ぶ兵士の姿、そして女性を乗せた輿などが映し出されていく。
ゴンサーロ・ピサロ(インカ帝国の征服者)率いる遠征隊が、エルドラードを求めてアンデス山脈を越え、アマゾン川の支流マラニョン川に下りてくる所を映像は描いている。
この行軍がいかに苛酷なものであったかを、映像は余すところなく描き出し、そしてこれからの展開もまた不吉なものになるだろうことを予兆する表現となっている。このようなオープニングを、私はどんな映画においても見たことがない。映画史上に残る偉大なオープニングと言えるだろう。
隊列が下りきったところで、ゴンサーロ・ピサロの演説が始まる。食糧も尽き、消耗も激しいので、本隊はここに止まり先遣隊40人を先に出して、探りを入れようというのである。先遣隊の隊長にはペドロ・デ・ウルスーアが、副官にはローペ・デ・アギーレが任命される。
ピサロは、ウルスーアに愛人のイネス・デ・アティエンサが、アギーレには娘のエルビーラが付き添うことに懸念を示すが、本当なら女性をめぐっての兵士達の争いに至る伏線としなければならないところだが、ヘルツォーク監督はそのような場面を導入しない。
オテロ・シルバの小説にも、女性が兵士達の諍いのもとになるというような場面は描かれない。『自由の王』でアギーレは人間の中で娼婦というものを最も嫌う、女性に対して潔癖であった男として描かれているが、ヘルツォークの映画でも、そのような人物像が生きているのかも知れない。
『自由の王』でのイネスは、インディオとの混血で多情で淫乱な絶世の美女として登場し、ウルスーアを骨抜きにする女として描かれているが、この女性の扱いがヘルツォークの映画ではまったく違っている。
映画でのイネスは混血でもなければ、淫乱でもなく、ひたすらウルスーアに尽くす貞淑な女性として描かれている。演じるヘレナ・ロホもとても肉感的とは言えず、むしろ知的な風貌を湛えていて上品な雰囲気を崩さない。
アギーレが女性に対して潔癖であった以上に、実はヘルツォーク監督自身がそうなのであって、この映画に性的な要素を持ち込みたくなかったのではないかという気がしてくる。この映画ではさまざまな暴力が描かれるが、女性に対する暴力だけは描かれないのである。
またウルスーアという人物は、映画では沈着冷静で、知的な男として描かれているが、『自由の王』では、これもまたまったく違っている。オテロ・シルバはウルスーアをインディオ達を平気で騙し、大量に虐殺して動じない、血も涙もない人物であり、今はイネスにたらし込まれているふぬけの男として描いている。
監督は史実とは敢えて変えて、ウルスーアをアギーレとは対照的な人物とすることで、アギーレの狂気を際立たせたかったのだと思われる。映画でウルスーアはアギーレの狂気に対して、正気と良識の象徴となっている。
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