玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー『白痴』(3)

2021年02月16日 | 読書ノート

 イッポリートはこの告白文を読み上げた後、ピストル自殺を図るが、雷管が装填されていなかったため失敗に終わる。この自殺未遂にドストエフスキーが、どのような意味を込めているのか、はなはだ不可解なところがある。

 自分の死を自分自身で決すると表明しておきながら、ピストル自殺に失敗するなどまるで茶番であり、そう意図しているのであれば、作者はイッポリートの告白の内容そのものを、カリカチュアとして描いていることになるが、そう読んでいいのだろうか。

 イッポリートの年齢は18歳に設定されているから、自殺失敗の結末はイッポリートの思想の未熟さを示しているとも読めるが、必ずしもそうとばかりも言えない。ドストエフスキーのどの小説を読んでも、登場人物の思想に対する〝肯定と否定〟の同時性はいつでも指摘されるのであり、そうした大きな矛盾こそがドストエフスキーの作品の持ち味でもある。

 だから「イッポリートの告白」の中に否応なく存在する〝矛盾〟にこそ、思想というものの本質があるのだと言ってもいいし、そもそも『白痴』という作品そのものが、ナスターシャという〝矛盾〟を本質的に抱えているわけだから、それを単純に否定することはできない。

 こうして私の形式的破綻への指摘は、ことごとくドストエフスキーその人によって反駁されてしまうのである。むしろその形式的破綻にこそ、ドストエフスキー作品の魅力があると言ってもいいくらいなのである。

 しかしもう一つ挙げておきたい破綻は、登場人物達のバランスの欠如である。『白痴』を読み始めてすぐに感じるのは、出てくる人物がほぼ全員普通ではないという印象である。最初にムイシキンと共に登場するロゴージンにせよレーベジェフにせよ、ほとんど狂っているとしか思えない。

 ナスターシャについても、間接的に語られる部分だけでも普通ではないと思わせるし、良識を代表するかに思われるエパンチン家のエリザヴェータ夫人でさえも、時に奇矯な行動に走る。ガーニャ=ガヴリーラも、その父親のイヴォルギン将軍もほとんど狂っている。ムイシキン公爵をナスターシャと張り合う、エパンチン家の三女アグラーヤの行動も言動も奇矯を極めている。

 遺産問題でムイシキンのところに押しかけてくるブルドフスキーもイッポリートも狂っている。最後にはロゴージンも狂い、ムイシキンも再び狂気に陥って小説は幕を閉じるのである。

 登場人物のほとんどは、いつでもいわば沸騰状態にあって、狂騒的なドラマを繰り広げるのである。多少ともまともなのは、まだ13歳のコーリャ・イヴォルギンと、アグラーヤに惹かれるラドムスキーくらいのもので、登場人物達の狂騒状態を沈静化する人物がほとんどいないのである。 

だから物語は最初から狂騒状態に始まって、静かな進行を見せる場面がないまま、さらに狂騒状態を繰り返し、最後に破局的な狂騒に突き進んで終結を向かえるのだ。これをミハイル・バフチンが「カーニヴァル的」と言ったのだとしたら、『白痴』ほどにカーニヴァル的な時間のうちに終始する作品はないのではないか。

私が『白痴』について人物達のバランスが欠けていると指摘しても、それこそが、狂騒状態にある人物達のドラマこそが、ドストエフスキーの作品の本質的な性格なのだと言われてしまえば、私はそれに対して否定的な反論をすることができない。

とにかくドストエフスキーのような巨大な作家について、何ごとかを言うことは極端にむづかしいし、『白痴』の基本的なテーマが〝愛と死〟というまったくの矛盾と相克の相のもとにあるのであれば、『白痴』の形式的破綻などは何ものでもないのだと言えるのである。

 あのラストシーン、凶暴でありかつ慈愛に満ち、残酷でありかつ美しいあのラストシーンを堪能するだけでも、『白痴』を読む価値は充分にあるとしか私には言えない。

(この項おわり)

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