玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

シャルトル大聖堂の崇高美(4)

2020年01月06日 | ゴシック論

 三層構造になっている側面を見上げると、最初の層の上に回廊が巡らせてあり、そこを何人かの人が歩いているのが見える。そういえばシャルトル大聖堂もパリ大聖堂と同じように、塔に登る見学コースがあったはずだ。北塔の下から登るらしいから後で挑戦してみよう。113メートルもあるあの塔に登るのは、高所恐怖症の私にはできそうもないが、回廊を巡るくらいはできるだろう。

 連続するフライング・バットレスの先に、直角に交差する建物の部分が見えてくる。ここの2層3層部分には細い列柱が並んでいて、垂直性を際立たせている。ここは十字架の張り出し部分であって、パリ大聖堂にはこの張り出し部分がほとんどない。いわゆる袖廊の出っ張りがないのだ。

袖廊の張り出し部

 それに対してシャルトル大聖堂の場合は、かなり袖廊が張り出していて、南側の扉口も北側の扉口も、パリ大聖堂のように平坦ではなく、かなりの奥行きを持っている。かえって正面の扉口よりも奥行きがあるかもしれない。正面の扉口に勝るとも劣らないほどの彫刻が施されているのはそのためである。

 古いのは正面の方の彫刻で、こちらは13世紀前半に新造されたものというが、そこに大きな違いがあることを一周して正面に戻った時に知ることになる。扉口を過ぎると教会の後部ということになるが、このあたりの造りもやたらと厳めしい。まるで城塞のような造りになっていて、とても教会とは思えないほどである。

 外陣に回るとパリ大聖堂との違いがもう一つ見えてくる。パリ大聖堂の外陣は完全な半円形を描いていて、グロテスクなフライング・バットレスに守られながらも、優美な曲線を描いているが、シャルトル大聖堂の場合はそうではない。三つの小さな礼拝堂の小円と長方形の聖ピア礼拝堂が半円形の部分から突出していて、凸凹な造りになっている。しかも小さな円を太い柱が数本覆っているために、ほとんど円形の曲線が原形を留めていない。ここにも大聖堂の無骨な造形を認めることができる。

外陣

 外陣を見上げるとフライング・バットレスの構造がよく分かる。シャルトル大聖堂のフライング・バットレスはパリ大聖堂のように長くもなく、斜めのスロープ型をなしてもいないし、その下にアーチ型曲線を描いてもいない。曲尺のように直角に曲がった造作が二重に重なっているのである。内側にアーチ型形状は見られるものの、パリ大聖堂のような長くて優美な曲線的構造は何処にも見られない。

 外陣全体を見てもほとんどフラットな部分は存在せず、柱やフライング・バットレスが突出していて、円形の曲線やアーチ型を覆い隠しているように見える。一見継ぎ足しに継ぎ足しを重ねたごちゃごちゃした構造にさえ見える。

外陣のフライング・バットレス

パリ大聖堂の外陣とフライング・バットレス(火災前)

 私は扉口の彫刻についてはまだ何も言っていないが、彫刻を除いた建物全体のイメージは無骨で、男性的で、威圧的なものだと言うことができる。これをゴシック建築全体のイメージとして捉えることはできるが、いずれにしてもパリ大聖堂と比べても曲線的な要素はほとんどなく、優美とは言い難いイメージに充ちていることは間違いないところだ。

 無骨といい、グロテスクといい、男性的といい、威圧的といいながらも、そこには一貫して強く感じないではいられないある種の〝美〟があって、それをエドマンド・バークの言う〝崇高〟の観念と結びつけずに済ますことは難しい。つまりそこには〝崇高美〟があるのである。バークは崇高の観念と美の観念を截然と分かつことを前提に議論を進めているし、〝崇高美〟などという言葉を使っているわけでもないが、バークの言う崇高の観念が美のそれに変貌する一瞬があるのであって、それこそがエドマンド・バークの切り拓いた美学の到達点なのだと言わなければならない。

〝崇高〟という要素について言えば、それはパリ大聖堂よりもはるかに多くシャルトル大聖堂にあると言える。我々はシャルトル大聖堂の調和の美や、優雅な美に心打たれるのではなく、その崇高の美にこそ心打たれるのである。大聖堂の外側を一周して私が抱いたイメージも、それについて考えた結果も全てはそこに結びついている。シャルトル大聖堂の崇高美というタイトルを付けた理由はそこにある。